038.六月三日 金曜日
その日、僕は始めて八十一町商店街にある喫茶店「おいちゃん」にやってきた。
おいちゃん。
おいちゃん、である。
店の名前がおいちゃんなのである。
「八十一町商店街でも珍しい方の名前に類すると言えるね」
「はあ」
「ちなみに由来は、ほら、あそこでコップ拭いてる店長が、甥っ子をすごくかわいがっててね。いずれその甥っ子にこの店継がせようって期待を込めてそう名付けたらしいんだけど」
「はあ」
「甥っ子の親……店長の弟とケンカしちゃって、それっきりなんだって。もう十年も前の話さ」
「気の長い話っすね」
いかにも古めかしい昭和テイストが色濃く残る喫茶「おいちゃん」は、意外と雰囲気は悪くない。場所がいいのか向きがいいのか、広く取られた窓から光が入るので店内は非常に明るく、雰囲気とともに染み付いているコーヒーの温かな香りがどこか懐かしい。こういう古い感じの店に入ったのは始めてなのに。
「……ところで洋子さん」
「ん?」
「夏波さん連れてこないでって言ったじゃないですか……」
今、僕の前の前に、昨日八十一第二公園にて衝撃の出会いを果たした遠野洋子さんがいる。
光は差し込んでいるのに陽の光があまり入らないという絶妙な窓際の席を確保し、年季を感じるテーブルで向かい合っている。
洋子さんは、いい。まだ落ち着いているから。
だが、もう一人の方は、強烈だった。
理不尽に荒ぶる暴力者――その名を沢渡夏波さんという。あの高井君をボディで一撃ノックアウトできるという凶悪極まりない戦闘力を誇る存在である。たぶん和田●キ子くらい強い。
実は今日、相談に乗ってもらおうと、僕は洋子さんを呼び出していた。
面識の浅い洋子さんは、僕に付き合う理由はない。だが幸い、どう考えてもギフトに選んだら無条件で殴られても文句は言えないだろうという「裸男」Tシャツを気に入ったようで、多少の無茶は聞いてくれる気になっていた。
というか、たぶん面倒見は良いんだと思う。基本的に。
くれぐれも夏波さんは連れてこないで、とお願いして、学校が終わった後、こうして会っているというわけだ。
だが、いる。
バレないとでも思っていたのかバレてもいいと思っていたのか、洋子さんの背中側の席で、背中合わせになるようにして座る見覚えのある赤毛が見える。
「納得してないんだよ」
洋子さんは悪びれもせず、しかも隠そうともせず、そう答えた。
「カナの認識ではね、友晴は女子高生の使用済みが欲しかっただけ。そんなヘンタイがまともに走るとは思えない。そしてそんな奴に愛用していたジャージを上げたっていうのがまだ納得できない。とまあ、そんな感じなわけ」
「……」
「カナにとってはそれだけ大切な物だったんだ」
……そ、そうか。そう思われていたのであれば、昨日の嫌われっぷりも、結構納得できるなぁ。
大切に大切に扱ってきた愛用のジャージは、もはや夏波さんの宝物なのだろう。駆けた青春時代を象徴する、お金には変えられない大事な物だったのだろう。苦楽を共にした思い入れも生半可なものじゃないのだろう。
そんな大切な物を、後輩のためにと託そうとした。かつて自分がそうして受け取ったように。お金がなくてジャージが買えないと嘆く後輩のために。
だが、その後輩は邪な心を露骨にあらわにし、「へっへっへっ女子高生の使用済みゲットー。パンツパンツー」とか下卑た笑い声を上げたからたまらない。上げてないけど。パンツとも言ってないけど。しかも走るのは趣味であり、クラブなどで使うわけではない。だからそんなもん納得できるか、と。そう思っているようだ。
よくよく考えると、怒らないわけがない。逆の立場だったら僕だって怒るわ。力ずくででも取り返すだろう。
でもそれをしないのが、夏波さんなりの筋の通し方なんだろう。
そして、それをしないから、夏波さんはジャージを譲るだけの納得できる理由が欲しいのだろう。「こんな奴になら譲ってもいい」という妥協点を探しているのだろう。
……なんとも申し訳ない話である。
「あの、洋子さんは? 納得してますか?」
この人は、どっちかと言うと夏波さん側の人間だ。僕より夏波さんの気持ちの方が理解できるだろうし、僕の都合云々よりそっちを優先したくもあるだろう。
「そうだね。会うまではカナと一緒だったかな。でも会ってからは納得できたよ」
「え? というと、昨日?」
「そう」
洋子さんが答えたところで、無愛想なウエイトレスが、僕が頼んだコーヒーを無言で置いて、何も言わずに去っていった。洋子さんが手を伸ばす。
「まあ情けないばっかでなんとも言えない印象だったけどね。でもシューズを選ぶ顔だけは真剣だった。私はそれで納得できたよ」
そう洋子さんは笑い、コーヒーをすすった。
「それ僕のです」
「味見。ここのコーヒーはおいしいなぁ」
……まあいいですけど。洋子さんのおごりだから。
「やっぱり夏波さんに納得いくようなアレが必要ですかね?」
「いや、ほっといていいよ」
「え? そうですか?」
「一度人にあげたものを未練たらしく追いかけてるだけでしょ。友晴がどういう奴であれ、走るって言ってる奴に譲ることはできたんだから。あとはカナの都合。……まあ気持ちがわかるからこうしてちょっとしたワガママは聞いちゃうけどね。口は出さないように厳命してあるから気にしなくていいよ」
「……案外厳しいですね」
「あんたのことは知らないけど、アキのことは知ってる。あいつが適当な奴を紹介するわけないしね」
高井君か……
「昨日見捨てて帰ったから、今日はスネてましたよ」
「あはははっ」
まあ、それはそれとしてだ。だらだら話すことは可能だが、そういう機会はまたあるだろう。
そろそろ本題に入らねば。
「洋子さん、相談があるんですけど」
「おう。言ってみな」
「実は――負けてるんです」
「ん?」
僕は語った。あの赤ジャージのことを。
「――えっと、朝のジョギングで一緒になる奴がいる。そいつがムカつくから走りで勝ちたい。でも最近負けが続いていてどうしたらいいかわからない、って?」
「そうです」
朝のジョギングで時々遭遇するあの憎き赤ジャージだが、実は遭遇して一勝を挙げたあの日以来、負け続けている。
つまり一番最初に僕が勝てたのは、僕が勝手にゴール地点を決めて、赤ジャージにスパートを掛けさせなかったから。要するに自分ルールだから勝てたのだ。
しかし、次からは違う。
相手はゴール地点を知っている。だから体力に折り合いをつけてスパートが掛けられる。そして、そのスパートは、僕のスパートより若干早い。
一勝一敗になったあの日から、三回ほど遭遇している。しかも三回目の遭遇は昨日である。
僕は都合よく、ジャージさえ変えれば必ず勝てると思っていた。赤ジャージと僕の差はほとんどなくて、運だかなんだかの要素だけで勝敗が分かたれている、と。僕は敗北の原因をウェアや靴のせいにしていた。
違うのだ。
僕は勘違いをしていた。
ほんの数秒縮めるのも大変なのが陸上である。走ることである。ギリギリまで自分を削り、ギリギリまで自分を高め、ギリギリまで自分を追い込む。それでやっとタイムが縮まるという厳しい世界である。
ウェアのせいだ靴のせいだと言い訳して、僕は甘えていたのだ。それがやっとわかった。
ただの身体を鍛えるためのジョギングである。しんどい想いなんてしたくない――そんな風に思って相談すること自体をやめ、自分のペースでやることも考えた。
赤ジャージと会うのがイヤならジョギングルートを変えて遭遇しないように……つまり逃げてしまってもいいだろうと思ったりもした。軽い気持ちで始めたことだ、こだわる必要もないだろう、と。
だが、ようやく決心がついた。
僕は勝つための努力をしようと決めた。だから洋子さんに相談を持ちかけたのだ。
「ふうん……」
洋子さんはニヤニヤ笑う。
「つまらない勝負事にこだわる辺り、男の子だねぇ」
「ええ。付いてますからね」
ちなみに僕に決意させた理由は、赤ジャージの勝ち誇った横顔である。あれがムカつくんだ! あれが僕の小さいけど大切にしたいプライドを思いっきり踏みにじるのだ! ジョギングやめる時は勝ち越してからだと決めた! なんなら今度は勝ち逃げしてやる!
「懐かしいな。私も『俺が勝ったら付き合えよ』って言われて短距離勝負を仕掛けられたっけ」
ん? どっかで聞いたことあるな、それ。
「――カナ、この件あんたに任せるわ」
えっ!?
衝撃の一言に震える僕と、洋子さんの背後の人物が立ち上がったのは同時だった。
「つまりあのジャージ着ていきなり敗北したってことだよな? そうだよな? なあ?」
うわあこのメンチの切りっぷり……一日ぶりです、夏波さん。
夏波さんは僕の隣に座ると、思いっきり肩を抱いて超至近距離で睨む。怖いです勘弁してください。
「今の話、嘘じゃないな?」
「は、はい。すんません」
「本当だな?」
「は、はい。すんません」
「女子高生の使用済みは?」
「大好きです――おぅっ」
ボディに入れられた。やはり重い。……けど、昨日のアレを見た以上、これは確実に手加減してるんだなぁ。
「短距離はカナの方が速いから。それに教えるのも上手い。それに――」
洋子さんは節目がちに、コーヒーカップの淵に指を這わせる。
「それに、私、男の子と二人きりだと彼に誤解されちゃうし……」
うわあ似合わねえセリフ――と僕は思うだけに留めたが、夏波さんははっきり言った。
「うわキッモ」
「あ?」
「すんません先輩。ツッコミっす」
いや、今のはツッコミじゃない。思いっきり本心から出てる。僕にはわかる。
しかし、夏波さんの睨みより更に鋭く恐ろしい洋子さんの殺し屋みたいな眼光を向けられて「本心です」とは誰も言えないだろう。夏波さんが怖いもの知らずのチンピラなら、洋子さんは幹部級のヤク●さんである。ヤバすぎる。憧れの女子大生のお姉さまがトラウマになる。
こうして、僕の打倒赤ジャージ作戦が始まった。