031.五月二十六日 木曜日 後半
「……ふぅ」
絶句する僕の横で、柳君が溜息をついた。
「矢倉」
「なんだい?」
「冗談が過ぎる」
「フッ」
矢倉君は肩をすくめた。
「疑っているのは本当さ。半分はね」
その口調は軽かった。――たぶん、柳君が構ってくれたことで、矢倉君にとってはその時点で彼の勝ちなのだろう。
「僕が聞いた話によると、数学は全員赤点以上、世界史にいたっては平均八十八点という八十一高校始まって以来の好成績なんだとさ。ま、それだけ派手な話だから僕の耳に入ったんだけどね」
へ、平均八十八……だと? 何それマジで? すごいじゃん。
いや、確かに僕が張ったヤマは、自分でも当たりすぎだってくらい当たっていた。それは同じテストを受けた僕も実感している。でもあれは五条坂先輩の完璧なノートかあったからこそだ。ノートがなければ六十前後がいいところだったはずだ。
「こんなもの、僕から言わせればあまりにもバカすぎる。疑ってほしいと言っているようなものだ。―-柳君、君が絡むならこんな愚劣な策は使わない。ごく自然に見えるよう点数を調整しただろう」
「つまり実力だとわかっていると?」
「そうじゃなければ僕の想像以上に君たちはバカってことだね。まあ半分くらいその可能性は捨てきれないが」
……くっ、さすがカリスマ、僕とは頭の出来が違うようだ。先の論理(笑)は、柳君のミスを誘うためのものだった。そう考えると辻褄が合う。
そして柳君がまともに相手にしなかったのは、矢倉君が教師に申し立てなんかしないことをわかっていたからだ。
結局、釣られたんだ。僕は。
僕からうかつな一言を引き出し、追い込み、「疑惑」という形を形成するために。
「もしかしたら、担任からその手の話が出るかもしれないね。――そこの君!」
矢倉君はビシィィ、と僕を指差した。正面から見ると思わず嫉妬するほどキマッてやがる。
「担任に疑われた時どう答えるか。考えておきたまえ」
「は、はあ……」
「フフッ。今度は失敗しないようにね」
……チッ。やっぱり僕は釣られたのか。面白くない。
今度こそ矢倉君たちは引き上げた。
「ところであの人何しに来たの?」
「こんな疑惑がある、と忠告しに来たんだ。言動はアレだが、矢倉は悪い奴じゃない。むしろ親切だ」
「え……あ、そうなんだ……てっきり嫌味でイヤな奴だとばかり」
「誤解されやすいからな。ああいうのを……そう、確か、」
柳君は一呼吸置いて、言った。
「ツンデレと言うんだ」
「違うと思う」
あれはツンデレではない。ツンはあったかもしれないがデレがない。というか男に対してツンデレというカテゴリーを適用するのも抵抗ある。男のツンデレなんてとても鬱陶しいと思う。……多少嫌味ないい奴、といったところで充分だろう。
「……そうか。違うか」
柳君の声は若干寂しそうだった。
体育の直後、僕は昼食を取る間も惜しんで、僕はすぐに職員室を訪れていた。
こういうことは早ければ早いほどいいだろう。大事になる前に止められればそれでいい。
「失礼します」
職員室のドアを開ける。まずおいしそうな匂いが鼻を刺激し、腹の虫を騒がせる。近くにデスクのあるメシ食ってる教職員がチラと見たが、何も言わなかった。僕は担任の三宅弥生たんの姿を探し――
「どうした」
いた。どうやらこれから食べ始めるところだったらしく、出前ものらしきラップの掛かった平皿を前に、弥生たんは僕を迎えてくれた。
……あの平皿、中が赤いな。いったい何頼んだんだ? 熱気がこもっているせいでよく見えないが……
「おい」
弥生たんの声が異常に低くなる。
「私の昼飯狙ってきたなら容赦しないからな」
「そんな怖いことできません」
前の「マジでガチ事件」での武勇伝はよーく聞いている。この人は、何十人もの教え子を、その拳と足で容赦なくボコボコにしたのだ。――かなり強いらしい。
「どうかな。前にいたんだよ。私のメシを奪って逃げた不届き者がな」
どんなバカだそいつ。やった行為もバカだが、それに加えて肉食獣のエサに手を出すような恐ろしい行為だ。しかもわざわざ教師に睨まれるようなことを率先してやるとか。考えられない。
「ちなみにそれなんなんですか? 妙に赤いですけど」
「将龍亭のエビチリチャーハン。大好きなんだ」
な、なんだと? エビチリチャーハン? 何それすげえうまそう。
「でもエビチリとチャーハンじゃ、パラパラのチャーハンと相性が悪いのでは?」
「ふっ、素人め。これは…………おまえ何しに来たんだよ。やっぱり私の昼飯奪いに来たのか?」
あ、いかん。空腹すぎてどうも視線と意識がそっちへ行ってしまう。
気を取り直して。
「先生、実は僕」
「私のことが好きなのか?」
「告白しに来たんじゃありません。真面目に聞いてもらえます? ……ちなみに告白したらOKですか?」
「年収二千万以上になったら考えよう」
ああ、じゃあ無理か。僕の全財産は二千五百円だ。
「それで?」
弥生たんは不機嫌そうに眉を寄せた。美人のしかめっ面はわりと強烈だ。……まあ確かにこれから好物食べようって時に邪魔しているのだから、不機嫌にもなるだろうけれど。そりゃ顔をしかめたくもなるだろうけれど。
「実は、カンニング疑惑を聞いてきたんです」
「……ああ、昨日のテストな」
あ、話が通じた! マジで疑惑として上がってたのか!
「うん、確かに、普段のおまえらからしたら信じられない点数になっている。世界史なんて平均九十弱だからな。普段授業中に寝てたり早弁したり遊んでいるような奴らが軒並みこんな高得点を取ったんだ、疑わしく思わざるを得ない」
ああ……本当にそうですね。考えれば考えるほど不正の臭いがキツイっすね。
どうやら来て正解だったようだ。この職員室と弥生たんの雰囲気からして、まだ大事にはなっていない。だが疑惑の内容が内容である。調査せずに終わるとも思えない。
「昨日のテスト、僕がヤマを張ったんです」
「へえ?」
「これを」と、たまたま持ってきていた(というか鞄の中身を前日と変えていない)クラスメイトに頼んで、貸してもらった用紙を差し出す。
それは、火曜日に勉強した五条坂先輩のノートとテスト問題のコピーである。これには僕の指示でアンダーライン――僕が出るだろうと予想したところにチェックが付けられている。
「火曜日の放課後、半数くらいのクラスメイトと勉強しました。これがその証拠です。もう処分した奴もいるかもしれませんが、提出を求められたら何人かは同じものを持ってくると思います」
「一之瀬」
弥生たんはコピーを受け取りはしたが、内容には目を通さない。変わりに僕を見ている。
「私はあの日の放課後、教室に残って勉強しているおまえらを知っている。この目で見ている。だから私は疑ってないよ」
「あ……そうなんですか」
いや、まあ、テスト期間中の午前中授業なのに、四時まで残っていたのだ。弥生たんに限らず教師に見られていた可能性は低くない。見回りもあっただろうし。
「早く帰ってリンダ●ューブやりたかったのに、おまえらが残っているせいでなかなか帰れなかったんだよ。だからよく憶えている。あのな、勉強するなら学校以外でやれ。私に手間を取らせるな」
驚愕である。学校で勉強するな、とか。どんな教師だ。
「話はそれだけか? だったらもう行け。私は腹が減っている」
「なんなら食べてもいいですけど」
「一口くださいとか言うのか?」
「……味見だけ」
「さっさと行け」
――職員室を追い出された僕は知らない。
「田中先生、これを」
「はい?」
「私の生徒が不正を犯していない証拠です」
もし僕が提出したあのコピーがなかったら、放課後に行われた臨時職員会議で、B組は公式にカンニング疑惑の調査が行われていただろうことを。
昨日の今日である。
疑惑を掛けられてから証拠を用意した――証拠の捏造。
その可能性を潰すこの段階での証拠の提出は、教職員の多くを説得する材料として優秀だった。
この「一年B組集団カンニング疑惑」は、事件になる前に、未然に防ぐことに成功した。
僕がその事実を知るのは、優に卒業を間近に控えた、三年生の冬のことである。
「お、おい……君ら何してるの……?」
「――ハッハー! おまえの弁当は貰った!」
「――代わりにこの『ベジタリアンご用達 青汁パン』をくれてやるぜ! 見た目によらず意外と味は悪くない!」
「――てゆーか妹の手作りだって? おまえのモノは俺のモノだからおまえの妹も俺のモノだ!」
「――すまん一之瀬! 俺は、俺はっ……俺はどうしても女の子の作った弁当が食べてみたかったんだ!」
「――泣くな! 今おまえが食べてるのは女の子が作った弁当だ、おまえは願いを叶えたんだ! 泣くな!」
教室に戻ると、僕の弁当は、バカどもに食べられていた。
……僕は誰のために職員室に行ったんだろう。
……僕は何をしに職員室に行ったんだろう。
そう思うと、なんだか涙が出そうだった。
あと今日の弁当は母親が作ったやつだよ、とは、なぜか言えなかった。こういうのを武士の情けとでもいうのだろうか。
でも青汁パンは本当に意外とおいしかった。