029.――after school. 五月二十四日 火曜日
まさに完璧である。
注意事項、一口メモ、見やすいようにと引かれたアンダーライン。
鳩尾にスッと日本刀のように静かに差し込む鋭い衝撃を与える丸文字。だいたい語尾についているハートマークだの星だの猫マークだのを無視すれば、これほど完璧なノートはない。
ノートはその人の性格が出ると、僕は思う。
この罫線が引かれたキャンパスに、どのように文字を連ねていくのか。ある人は機械的に文字を書き込むだけだし、ある人は落書き帳のように自由に使い、ある人はそれこそイーゼルに掛けられた画板のように芸術を記していく。
このノートは、余白から絵から星からハートマークから、一種の芸術のように書かれていると思った。
悔やむべきは、生まれた性を間違えたことか。
五条坂先輩……あなたはあらゆる意味ですごいし、あらゆる意味で惜しいです。
「どうだ?」
隣の柳君の声が、僕を芸術から引き離した。
「完璧。すごい。これがあれば八十点は取れると思う」
「「おぉ……」」
救いを求めて僕の周りに群がっていた屍たちが、求めていた希望の光を浴びてうめき声を上げる。
「見せてくれ」
柳君の差し出す手に、五条坂先輩のノートを渡す。次いで僕は過去のテスト問題を見た。むろん全部百点満点である。
これは五条坂先輩が一年生の頃にやったものだ。僕らとは数学担当の教師は違うが、まあ、要点は同じだ。習っていないところが出るわけじゃないんだから、教師が奇抜さを狙っていなければ共通項は多いはず。
「すごいな。……違う意味でも」
パラパラとノートをめくる柳君も、僕と同じ結論を出した。違う意味でも。
「八十点は余裕だな」
「だよね」
僕と柳君は……というか僕は赤点は取らない程度で、きわめて平均的である。凡ミスも多いし、度忘れもする。なのでこのノートの存在は僕の助けにもなりそうだ。
それに。
このノートとテストは全教科分ある。すでに二日目が終了しているので、明日最終日にしか使えないが。それでも力強い味方となってくれるだろう。
「マコちゃん」
ノートとテストを持ってきてそのまま待っていたマコちゃんに、僕は視線を向ける。
「数学だよね? 僕は普通にしかできないけど、僕でいいの?」
「教えてくれる?」
教えるのは構わないから小首を傾げて上目遣いで見るのをやめてほしい。かわいげはいらない、普通でいい。
「一之瀬、ヤマ張ってくれよ。そこだけ憶えるからよ」
周囲に群がっていた屍の一人が復活したらしい。誰かが言い、伝染するように誰かも「そうだそうだ」と唱えた。……あのバカどもなのに、いつだって盛り上がっているクラスメイトたちなのに、いまいちテンションが上がりきらないという違和感。明らかな憔悴を感じる。明らかに敗残兵の息吹を感じる。
「僕は普通にしかわからなから柳君に聞いて」
「待て」
待ったを掛けたのは、誰あろう柳君本人だった。
「俺は全部憶えている。だからどこが出るだの考えたことがない。俺が考えたところで的中率はきっと低いと思うが」
うわあ……僕も一度でいいから「全部憶えているから不要だ」とか言ってみたいものである。イケメンの顔して。
「いいからおまえがやれよ。こっちゃ確実に今んとこ全部赤点だ、普通でも充分すぎんだよ」
それはひどすぎるだろ、と思って振り返ると……OK、ヤンキー久慈君。ヤマ張らせていただきます。
「一之瀬、俺世界史がヤバイんだけど」
「俺も。そっちもヤマ張ってくれよ」
なんで僕に聞くんだ君らは。僕よりできるクラスメイト他にもいるだろ。
……というか、これはまずいぞ。優に十五人は超えるこの人数を一人でさばくなんて無理がある。頼みの柳君は「全部憶えろ」がファイナルアンサーだ。数学の公式を説明はできるだろうが、効率的な憶え方は教えられないタイプだろう。
そう、効率だ。それを重視しないと処理できない。
久慈君が絡んでしまった以上、投げるわけにもいかない。
何より、周囲にいる顔ぶれに高井君がいた。僕が投げたらテストを諦めるかもしれない。ちょっとでもやる気があるのなら、こんな時くらいは助けるべきだろう。僕はいつも高井訓君たちに助けられてばかりだから。
仕方ない。やるか。
「――おまえら席につけー」
僕が決意を固めたところで、折りよく担任の三宅弥生たんが来た。みんなは席に戻った。これからホームルームがあって放課後である。掃除はない。
あまり時間はない。弥生たんはすぐに僕らを帰すだろう。
僕は必死で、効率的に回す方向を思案する。
だらだら長いと彼らは飽きる。そもそも興味がある話ではなく、必要な話だから乗り気なのだ。後者の方が何をおいても大切だと思うが、しかし、彼らの選択は時々すごい。たびたびすごい。……だいたい八割くらいすごい。だから選んでほしい方を選んでくれないなんてザラである。
手短に、待たせず、必要なものだけ。
まず僕がやることは、ヤマを張ることではなく、統率を取ることかもしれない。
案の定、弥生たんはさっさとホームルームを切り上げた。テストを生き抜いた猛者たちは早々に教室を出て行く。
当然僕は帰れない。
すでに囲まれているし。
まあ、それはいい。やると決めたのだから。
教科は三つ。世界史は暗記物なので、これは完全に五条坂先輩のノート任せだ。
残った顔ぶれは十六名。マコちゃんを入れて十七人だ。……柳君が残ってくれたことがとても心強い。
「まず世界史が危ない人!」
挙手を求めると、十二名ほど手が上がった。
「その中で数学も危ない人!」
四人ほど減った。
「世界史だけ危ない人は、十七部ずつコピー取ってきて」
必要なページと部数をメモし、ノートとテストを任せた。彼らは「よっしゃ!」と走っていった。……元気だなぁ。やはり人は希望があると燃えるものだ。
とにかく、これで多少人数が減った。
「柳君、公式の説明お願い」
黒板を指差すと、柳君は頷いて立ち上がる。
「ある程度わかる人は柳君に聞いて。それ以前から怪しい人は僕が教えるから」
こうして、長い長い勉強会が始まった。
「うぉー全然わかんねぇー」
黒光りする肌が眩しい大喜多君は、こんな時もチャラくぼやいていた。
「俺ニノじゃねぇからわかんねぇよー」
「ニノ?」
「あれ? 一之瀬知らねーの? ニノっつったら二宮キンジローだろー」
……いや、そういう略し方はじめて聞いたから。Jの方じゃないのは特に。
「あれ? もしかしてニノキンならわかる?」
いいから早くやれ。
何度も何度も根気強く、同じことを説明する。何度も何度も説明していると自分が何を言っているのかよくわからなくなり、その度に、同じく同じ説明を繰り返す柳君を見た。――うん、僕は間違ってない。
「え、Aが……えぇ……Aってなんだよ……」
「あのさ」
額に汗するくらい考えまくっている高井君を筆頭に、僕はとうとう我慢できず、聞いてしまった。
「君たちは授業中何をしているの?」
大した答えは期待していなかった。
だが返答は、僕を閉口させるには充分で、もう二度と同じことを聞くまいと誓うくらいにはひどいもんだった。
「なんだっけ? 俺寝てる」
「数学ん時は早弁が多いなぁ」
「グリップ握ってる」
「眉毛抜いてるし」
「狩り」
「あ、俺は瞑想。最近凝ってんだ」
「俺は(格闘ゲームの)コンボ考えてる」
「女の子に超メールしてるーイェー」
――チャラいダブルピースを決めた直後、大喜多君は全員に殴られた。僕も参加したかったが、それ以前にそんなことをする元気がなかった。
聞くべきじゃなかった。
ちょっと考えれば愚問でしかないことがはっきりしていることなんて、聞くべきじゃなかった。
……はあ。がんばろう。僕。
世界史のコピーにヤマを張って配り、数学に掛かりっきりになる。
時間が過ぎていく。
二時を回ったところで空腹が気になって集中力が落ちたので、食料調達部隊が走った。それから更に一時間が過ぎると、ようやく成果が出てきた。
彼らは僕と柳君の説明を完全に理解したようで、ちょっと難しい応用さえ簡単に解けるようになったので逆に驚いた。というか僕の方こそ解けないわ。……あとで柳君に聞こうと思う。
一人抜け二人抜けと教室から姿を消し、四時になる頃には、高井君と久慈君が残っていた。
「これでいいか?」
「……うん、合ってる」
「ほんとかよ」
久慈君はとっかかりが何もないというまっさらな絶望状態から、意外に早く理解した。が、何やら不安らしく、僕と柳君が出題する問題をひたすら解いていた。五条坂先輩がやったテストと同じテストが出されたら、きっと久慈君は百点取れると思う。
それでもなお不安だったみたいだが、「帰るわ。じゃあな」と漏らして帰宅。今日もお勤めご苦労様でした。
「――んじゃ、俺らも帰るか」
最後の仲間が帰ったことで、高井君はノートを閉じた。
実は高井君も、結構早くに解けていた。ただ、どうせ僕らと帰るんだからと、久慈君を孤立させないよう「受ける側」に座っていただけだ。やはり高井君は優しい。
僕も柳君も、もう時間なんてどうでもよくなっていた。もう四時である。今更多少早いとか遅いとか言っても大差ない。
「腹減ったな」
「僕も。浜屋寄っていく?」
「そうだな」
お好み焼きを食べて家に帰った。
ふと鏡を見る。
――前は口に青ノリ付いてたんだよなぁ。
だがしかし。人は学ぶのである。二度も同じ過ちは犯さない。
さて着替えるかとブレザーを脱いだら、袖にソース付いてた…………もう! もうっ!