002.四月二十一日 木曜日
僕、一之瀬友晴が遅ればせながら八十一高等学校に通うようになって、早一週間が過ぎようとしていた。
この一週間でわかったことは、クラスメイトは本当にバカばかりってこと。そしてうちのクラスだけではなく、学校全体が大体バカであること。体育の時に合同でやる隣のA組連中もバカだし、同じく隣でよく騒ぎを起こしているC組も察する範囲ではバカ集団そのものだ。
危惧していた出遅れのハンデはなく、クラスメイトたちは遅れてきた僕をそれなりに歓迎してくれた。「なんだよ男かよーつまんねー」と露骨にがっかりしながら。そのバカ発言に僕こそがっかりである。ここ男子校じゃないか。
できるだけ関わらないように、静かに静かに、慌てることなく落ち着いて、バカに巻き込まれないよう過ごそうと思い至るまでに、さして時間は要らなかった。
だが、しかし。
しかしだ。
今日これから、嫌でも僕の認識を変えざるを得ない、小さな……いや、先を見れば大きな大きな事件が起ころうとしていたことを、今の僕は当然知るわけがなかった。
「そうか、おまえはまだ見てないのか」
いつも無表情で無愛想な柳蒼次は、何の感慨もなくそれだけ言った。
僕の席は教室のほぼ中央に位置する。右隣が柳君の席で、座ったまま話せる距離にいた。
「何を? 高井君の筋肉は見飽きたけど」
そして今僕の前にいる高井君は、窓際の遠い席だが、時々顔を突っ込んでくる。
「嘘つけおまえこの野郎! 見飽きるほどまだ見せてねえよ! まだ見てない筋肉あんだろ! ほらこの上腕三頭筋のハジけるような美しさとかさぁ!」
「いやそもそも見たくない脱ぐなよ胸筋ピクピクさせるなよ」
こと筋肉絡みの話になるとすぐムキになる、この高井秋雨。
身体を作るのが趣味であり生き甲斐であり、何かあるたびに服を脱いでは筋肉自慢をするという半露出狂のヘンタイだ。顔は普通である。
立派な身体とヘンタイ気質以外はわりと普通なので、僕の視界には首から上はほとんど見切れていると言っていいだろう。ちなみに自慢するだけあって、かなり見事な筋肉をしている。ボディビルダーのようにゴリゴリに鋼のような肉が付きすぎているわけではなく、簡単に言えば細マッチョというやつだ。
スタイルは当然完璧に近いし、あまり視界に入らないが顔も悪くない。
おまけに性格も明るくさっぱりしているので、さわやかスポーツマン系として女の子にモテそうではある。
が、前述のようにヘンタイなので残念な奴である。まあそうじゃなければ仲良く会話などしてないけど。モテる奴は好きじゃない。J系なんて滅べばいい。
「C組のアイドルだ」
思いっきり目の前で腹筋をあらわにする高井君を、思いっきり冷徹に無視する柳君。当然僕も無視することにした。いちいち男の裸なんかに構ってなどいられない。
というより、柳君が口走った情報の方が気になる。
「C組のアイドル? 何それ?」
「そういう存在がいるんだ。しーちゃんって呼ばれている」
「しーちゃんって……男子校にアイドルがいるの?」
「見ればわかる」
柳君は、ストレートに言うならイケメンだ。それも相当すごいレベルの。
力強い切れ長の瞳と長髪が特徴的で、モデルとか平気でやってそうなレベルの、どう見たって不健全レベルのイケメンだ。だって一目見て本気で「モデルがいる」と思ったくらいだから。
造詣が良すぎるパーツが集まっているせいで、作り物のような冷たいイメージが非常に強く、声も突き放すように硬質的だ。育ちの良さから滲み出るのだろう物腰の優雅さと所作のスマートさも、冷たい印象に拍車を掛けている。
が、話してみれば意外と普通だった。
たまたま隣の席同士で、ちょいちょい話してみれば気が合ってなんとなく友達になったのだが、まあ、普段であればこんな突然変異のモテる男なんて、僕がもっとも敬遠したい存在である。なんだこの不健全な奴は、と。不健全にモテやがって、と。
だがしかし、我らが一年B組の数少ない常識人……つまりバカじゃない奴だったから、というのが、僕の中では非常に魅力的だった。親しくなった理由の半分以上をそれが占めていたくらいに。バカだらけのクラスメイトたちに絶望した僕の唯一無二の心のオアシス的存在になってしまっただけに――ちなみに後に聞くことになるが、柳君も僕と同じ気持ちで「バカそうに見えなかったから」という理由で僕に声を掛けていたそうだ。
一週間遅れで高校生活をスタートさせた僕には、この柳蒼次と高井秋雨という二人の友達ができた。
柳君は隣の席だから適当に話していればすぐ仲良くなった。
高井君はまず僕に筋肉を見せてきた。かなり引きながら「すごいね」と僕的にかなりどうでもいい感想を漏らしたら、なんだか懐かれてしまった。まあすぐ脱ぐことを除けばちょっと筋肉にうるさいだけのいい奴なので、あまり害はない。
「アイドル?」
「え? 何? C組行くの?」
話が聞こえてしまったらしく、その辺にいたクラスメイトがわらわら集まってきた。彼らの長所だか短所だかわからない気質のようなもので、関係ないことに結構首を突っ込むのだ。
きっと面白そうな話なら乗りたいのだろう。
そして面倒そうな話なら去っていくに違いない。
「一之瀬がC組に行くんだって」
「え、マジで? なんか用事あんの?」
いや、行くとはまだ言ってないんだけど。しかし否定する間もなく、事実は目の前で加速していく。
「アイドルに会いに行くって」
「あ? んだと?」
「俺らのしーちゃん狙ってるってかコラ?」
「てめえ一之瀬! お婿に行けない身体にしてやんぜ!」
本人目の前にして話が加速しすぎだろ! つか僕を入れて話せよ! なんかいきなり威嚇されてるし! なんで!? てゆーかお婿に行けない身体にするって何だよ何する気だよ恐ろしいよ!
最初は三人だったのに、「なんだなんだ」と一人増え二人増えして、気がついたら十人以上が周りにいた。もうほんとむさ苦しい。男に囲まれるとかうっとうしい。若干一名裸だし。
「おいおい。ここは俺の筋肉に免じて許してやってくれよ」
露骨に筋肉をアッピールする、本人命名「漢のロマン」ポーズ(両手を組んで、身体ごと捻り天に掲げるという、ドリルをイメージしたオリジナルポーズ……なんだってさ……)で仲裁に入る高井君。うざいけどありがたい。でもやっぱりうざい。ありがたいけど。あと脇の処理が完璧なのもうざい。
「いやダメだね! いくら高井の筋肉がすごかろうと、これだけは譲れねえ!」
「俺らのしーちゃんに何する気だ一之瀬こら! すけべこら! き……キスとかか!?」
「キ……早まるな! 純潔を失うつもりか!?」
……あのさぁ、
「そのしーちゃんって、男だろ?」
悪いけど僕その手の趣味ないし。普通に女の子が好きだし。彼女だってすごく欲しいし。というか彼女ほんと欲しいし。紹介とかしてほしいし。合コンもしてみたいし。
「バカじゃねえのおまえ! バッカじゃねえの!」
……Oh……バカに思いっきりバカって言われた。二回も言われた。えもいわれぬ屈辱感がある。
「もうしーちゃんは男とか女とかのつまんねえ壁を越えた存在なんだよ! そう、言うなれば天使だ!」
つっこみどころが多すぎて対処できないが、とにかく、ここにだけは男として触れるべきだろう。
「性の壁ってつまんなくはないと思う」
その、未だ見ぬ「しーちゃん」なるアイドルだって、男を捨てているとは限らないわけだし。というかアイドルってなんだよ。なんなんだよ。J系かよ。……いや、この反応を見る限りでは、違うっぽい気もするが。
「いや待て。俺はしーちゃんは小悪魔タイプだと思ってるんだが」
「あ? ふざけんな? しーちゃん天使説は八十一高校の総意だぜ?」
「いいから想像してみろ。思わせぶりな言動で男を惑わせる無邪気な小悪魔……それがしーちゃんの魅力だ。無邪気に腕を組んでくるしーちゃん、無防備に微笑み掛けてくるしーちゃん……もう! どうしてそんなに可愛いんだ! 俺を狂わせる小悪魔め!」
「む、むう……そう言われるとなんだかそんな気も……」
「生意気だけどおにいちゃん大好きな妹タイプって線もあるんじゃないかねキミタチ!」
「妹? しーちゃんが俺の妹だと?」
「フッ。ここは一つ、シンプルに男らしさムンムンの筋肉が好きってことでいいんじゃないか?」
「な……高井!」
「何一人だけ一歩リードしようとしてんだよ! だったら俺みたいに顔にほくろがある男が好きってパターンも充分可能性はありそうな感じだぜ!」
「俺もほくろあるぞ!」
「俺も俺も!」
「真似してんじゃねえ! ほくろ取れやオラ! えぐれや! おいそこ! 何マジックでほくろ描き足そうとしてんだよ!」
「あ? 趣味だよ! べっ、別にしーちゃんなんて意識してないんだからね!」
――君たち本当にバカだよ。
アイドルがどんなタイプの女の子か真剣に熱く熱く語る彼らを、僕は冷めた目で見ることさえなく、とにかく席を立った。直視するには痛すぎるし、聞いているとバカが伝染しそうだ。
「一之瀬」
同じ結論に達したらしく、ほぼ同時に立ち上がった柳君が僕を呼び、そのまま教室を出て行く。僕も後に続いた。呼んでもいないのに高井君も付いてきた。制服を着ながら。ワンサイズ下のTシャツを着て常にピッタピタにぴっちりしているのもうざい。
柳君は廊下に出たところで止まった。休み時間なので騒がしさは似たようなものだが、教室にいるよりはよっぽどマシである。
「とまあ、このように、うちのクラスのバカどもは島牧に夢中だ」
確かに夢中だった。痛々しいほどに夢中だった。
「その島牧ってのがしーちゃん?」
「フルネームが島牧翔だから、どっちから取ったかは俺にもわからない」
苗字でも名前でも、どっちから取っても「しーちゃん」か。まあどうでもいいけど。
「ふふ。俺のことをアキちゃんと呼んでもいいが?」
高井君は僕たちに本気で無視された。合図さえしなかったのに、僕と柳君はまるで打てば響く鐘のように淀みない澄み切ったシカトを決めて、至極自然に話を進めた。
「興味はないかもしれないが、一度は見ておいた方がいい」
「え、そう?」
本当に興味ないんだけどな。男見に行って何が楽しいんだよ。
「不用意な一言であの騒ぎになる。それを回避するために知っておいた方がいい」
柳君の視線の先、教室内では新たなる派閥「しーちゃんはメイド様」という新党まで派生したようで、若き男たちの熱い欲望が醜くせめぎ合っていた。なんという直視しがたいおぞましき光景だろう。まるで男だらけの水泳大会のようだ。……いや、これは違うか。なんか違うか。
だが、柳君の言わんとしていることは、少しだけわかった気がする。
あのバカどもをあそこまで熱狂させるアイドルがいる、という事実だけは、揺らぐことなく存在するのだ。そりゃバカじゃなくても、自分が好きなものや好きな人が馬鹿にされれば、嫌な気持ちになるものだ。知りもしないのに否定したり文句を言ったりするのは、相手がバカでも失礼だ。
まあ、否定っていうか、根本的に「男じゃん」っていうところで色々間違ってると僕は思うんだけどね。
「C組だっけ?」
「ああ」
隣の教室か。場所まで近いじゃないか。
大して労力も必要なさそうなので、僕はひょいと隣のC組を覗いてみた。
「あ、ごめん」
「お……」
ちょうど出てきたC組の生徒とぶつかりそうになったが、彼は接触することなく僕の横を通り過ぎて行った。
説明も、紹介も、もう必要ない。
「マジか……」
固まってしまった僕は、呆然と呟いた。
――今横を通り過ぎたのが、噂のしーちゃんだ。間違いなく。
顔が熱くなっていくのが自分でもわかる。
耳を覆うくらいの柔らかそうな黒髪はやや内巻きで、賢さが見えるような大きな瞳。その二つが強く印象付けられたが、精緻を極めたような眉、鼻、唇が、やや丸い顔にこれ以上ないってくらいに完璧に収まっていた。
想像以上だった。
「アイドルなんて言ってもしょせん男だろ」なんて、僕の言葉の方が間違っているとさえ思えるほどに。
すっっっごい美少女じゃないか! つかあれ男か! あれでか! 信じられない!
「あれが島牧だ」
柳君に声を掛けられ、ようやく我に返った。
「あれ女の子じゃないの?」
一週間ほど前に、男子校であることを否定するようなバカなセリフに心萎えてうんざりしたのに、まさか僕自身がそれを発することになるとは思わなかった。
「ここは男子校だ」
……だよね。わかってる。わかってるよ。わかってるんだ。
「あれは反則だろ……」
テレビで見るアイドルにだって全然負けてない。不意に出会っちゃったせいでちょっとときめいちゃったよ。好きになりかけちゃったよ。反則だよあれは。
「チッ。あんなひょろひょろの何がいいんだかっ」
高井君は根本的なところ(肉体的な意味)でしーちゃんの人気に嫉妬しているようだ。やはりこいつはヘンタイだ。
ぶわっと噴き出してきた冷や汗を手の甲で拭う。
「もしぶつかっていたら……やばかった……」
そんな一昔どころか二昔は過去の遺物「ぶつかる出会い」なんてお約束をこなしていたら、きっと一目惚れしていただろう。
もう、やめてくれ。
男をアレだコレだなんて想像しただけで鳥肌ものなのに、僕の中の雄々しき獣が「しーちゃんなら別にいんじゃね?」と欲望丸出しに軽い口調で囁きそうじゃないか。ほんとやめてくれ。そういう趣味ないんだから。
「おまえもそんな反応か」
僕を見詰める柳君は、いつものように冷静だ。しかしその口から出てきた言葉には引っかかるものがある。
「それは僕もクラスのバカどもと一緒だな、という意味?」
「いや。……いや、ある意味そうか」
どっちだこの野郎。
「俺は島牧のことを騒ぐほどの存在だとは思わないから、そういう反応が理解できないだけだ。たぶん一之瀬より俺の方が間違っているんだろう。俺の意見は少数派だからな」
アレを見ても「騒ぐほどとは思わない」とか。この圧倒的な認識の差こそが、イケメンと普通の線引きなのかもしれない。いや、イケメンとそれ以外の、か?
「間違ってるかどうかはわからないけど、アレは反則だとは思うよ」
ほんの一瞬、それも横顔を見ただけだが、それでも強烈に網膜に焼き付いてしまった。それくらい衝撃的な美少女だった。筋肉のことしか頭にない高井君でさえ「まあ身体は論外だが顔は可愛いよな」と変なポージングで口走るくらいである。いまいち説得力があるのかないのかわからないが。
否定したいが、根底が揺らいでいるのが自分でもわかる。
本当に、男とか女とかどうでもいいと、僕も言いたくなってしまった。しつこいようだがあれは反則だ。
「あ、柳! 何してんだおまえ!」
ん?
「おい! 柳が来たぞ!」
ふしゅー、と息をついて心を静めようとする僕の耳に、平和な休み時間に訪れた異変を知らせる声が次々と飛び込んでくる。
「柳! おまえ何しにきやがった!」
「しーちゃんか? 狙いはしーちゃんだな? ブッ殺す!」
「俺たちのアイドルをついに口説き落とそうってわけだな? 絶対殺す!」
「イケメンは俺の敵だ。先週は俺の誕生日があったから見逃してやったが今週中には必ず殺す!」
お、おいおい。C組の連中が口々に柳君を罵りながら出てくるぞ。こえーよ。つかC組もやっぱバカばっかだよ。こえーよ。
「一之瀬、行こう」
柳君は退散する意志を固めたようだ。まあ、まともに相手したくないわな。怖いし。
「おうC組のバカども! うちの柳に何か用かよ!?」
な、なん、だと……?
騒ぎを聞きつけ、今度はうちのバカ――B組の連中がぞろぞろと出てきやがった。
「おまえらよー、ちょっとしーちゃんがクラスメイトだからってよー、調子乗ってんじゃねーのー?」
「あーあ。こんなバカどもがクラスメイトとか、しーちゃんがかわいそうだぜ! ぺっ!」
「柳は俺が今月中に殺す予定なんだよ。誰にも手ぇ出させねえからな」
「ちょ、待てよ! イケメンは万国共通で俺の抹殺リストに自動登録されんだよ! 柳殺るのはこの俺だ!」
「せいぜい苦しめてから殺してやるぜ柳! 絶対にだ!」
うわあ……あっと言う間に修羅場になってしまった。
廊下の中央で、B組とC組のバカどもに挟まれ、僕と柳君は身動きが取れず逃げることもできない。高井君はポージングに忙しいみたいだから論外として。
「というか柳君、嫌われまくってない?」
どさくさにまぎれて、というより、メイン寄りで柳君の身の危険がセンターに据えられているじゃないか。C組はまだわかるけど、身内同然のB組のクラスメイトにまで。
……まあ、連中の気持ちは僕もすごくよくわかるけど。ここまでの超絶イケメンはダメだろう。超絶イケメンは。
あと高井君が、こっちは本気でどさくさまぎれにまた脱ぎ始めた。注目のど真ん中にいるから、ここぞとばかりに肉体を晒してやろうと思ったのだろう。空気読もうよ。ちょっとでいいからさ。あと脱ぐたびにピッタピタのTシャツが必ず裏返るのもうざい。
柳君は全てのことを意に介さず、平然と僕を見る。
「どうも何かを誤解されているようだ」
君の認識こそ誤解だろう、と僕は思った。誤解とかそういうのじゃないからね。イケメンへの嫉妬は。つーか誤解とか理屈とかじゃない。問答無用の見た目の問題だよ。つーか八つ当たりだよ。はっきり言って八つ当たりだよ。
まあ、それはいい。
柳君が槍玉に上げられてはいるが、そもそもの原因は、僕だ。「しーちゃんを見ておいた方がいい」と言った柳君は、僕のために言ってくれたんだ。だから僕たちはここにいて、C組の連中に絡まれている。
いくら柳君が僕を含めた多くの男子に嫉妬させるほどの超絶イケメンでも、見捨てて自分だけ逃げるわけにはいかないだろう。気持ちは周りの方に近かろうともだ。というかそもそも柳君は全然何一つ悪くないんだし。本当に。
だがしかし、この修羅場をどうすりゃいいんだ。今にも殴り合いが(柳君を中心にして)始まろうとしているし、このままじゃ僕も巻き込まれてしまう。
僕がこの修羅場を収めることができるのか?
自慢じゃないが腕っ節に自信はないし、クラスの人気者ってわけでもないから大して発言力もないのに。
じりじりと緊張感が高まっていくのがわかる。肌に触れるピリピリした剣呑な空気と、心をかき乱す粗暴極まりない感情が、僕たちを中心にして渦巻いている。
こりゃいよいよまずいぞ。チビりそうなくらい怖いじゃないか……こんなに怖いのは中坊の頃に友達と高校生四人にカツアゲされた時以来だ。余談だが、あの時は通りすがりの学校一のヤンキーが助けてくれて、ほっととしたところにご本人から「助け賃よこせよ」と予期せぬ第二次恐喝事件が起こってしまって、高校生にカツアゲされるよりはかすかにマシな結果、ということで決着がついた。まあ完全に余談だが。
あの時のことを思い出して挙動不審になっている僕は、嫌味なくらいに動きのない柳君を見た。柳君はやはり平然としていた。この野郎、ちょっとは焦ったりしろよ。
「ちょっと落ち着こうよ」
僕が勇気を出して先頭に立つクラスメイトに言えば、奴は視線も向けずに言った。
「関係ねえ奴は引っ込んでろ!」
いや君らが巻き込んでるんだろが、と反射的にツッコミを入れてしまいそうになったが、両手で口を塞ぐことでなんとか堪えた。下手に刺激すると爆発しそうだからだ。
つかこいつら本当にいついかなる時もバカだよ。引っ込んでほしければ道空けてくれよ。頼むよ。
「高井君、その自慢の身体で止めてくれ」
あまり期待せずに言うと、高井君は「フッ、フッ」と独特の呼吸法を漏らしながら筋肉にうっすら汗を浮かばせつつ、ポーズを変えるついでのように口を開いた。
「俺の、筋肉は、――観賞用だぁっ」
ああそう。期待してなかったから別にいいよ。答えも大方見当がついてたよ。だから最後まで聞かなかったんだよ。
「あ、時々だけど、崖から落ちそうになっている可憐な少女を助けたりはできるよ?」
はいはいどうでもいいよ。聞いてないよ。というか時々ってなんだよ。今まで一度でもあったのかよ。
こりゃいよいよなるようになるしかないか、と諦めかけたその時だった。
「何やってるの?」
静かで、穏やかで、場違いに温かいその声に、ずざざざざざぁっと一気に人垣が割れた。まるで十戒のアレである。マジでアレである。モーゼである。
そして、その存在のみが歩くことだけを許される花道から現われたるは、まさしく女神だった。
しーちゃん降臨。
血がたぎっているバカどもは、その狂おしいまでの情熱を、羨望と欲望とを兼ねた熱い眼差しへ華麗に変換した。
なんという熱視線。見ているだけで暑苦しい。あと高井君がしーちゃんに対抗するかのように「フゥオンン!」と気合を入れてポーズを取るのもうざい。
降臨したしーちゃんは三六〇度全方向から注目を集める。無論僕の視線も釘付けだ! だってこの修羅場を一瞬にして収めちゃったし何より正面から見てもものすごい美少女だからね! これも男の性か、思春期真っ只中の男の業か、とてもじゃないが目を離せない! そしてかつてない己の複雑なこの心境に戸惑いを隠せない!
「……何やってるの?」
導かれるように中央へ、騒動の核へと歩み寄ってきたしーちゃんは、戸惑い気味に、あろうことか柳君に声をかけた。たぶん中心にいたから。
「別に何も」
しかしそれでも柳君はクールだった。
「おまえら、教室戻るぞ」
しーちゃん降臨に毒気を抜かれたバカどもは、不承不承な顔をしながらも、柳君の言葉に従ってぞろぞろ解散し始めた。きっとしーちゃんの前で暴れるとか、そういうマイナスな面を見せたくなかったのだろう。ムカつくイケメン柳君の言葉でも従うくらいに。
僕もしーちゃんに嫌われたくないから、一緒に教室に戻ることにした。
ふと、振り返る。
「…?」
状況がまったくわかっていなかったらしいしーちゃんは、不思議そうな顔をしていた。
「おい柳」
B組もC組も大部分がそれぞれの教室へと撤退し、しーちゃんも教室に戻った廊下の中央で、C組の生徒が険のある声で柳君の名を呼ぶ。
柳君や一緒にいる僕と、裏返ったTシャツをもぞもぞやっている高井君の視線も集めると、彼は捨て台詞のように言葉を放つ。
「しーちゃんはC組のアイドルだから『しーちゃん』って呼ばれてるんだよ。そのことを忘れんじゃねえぞ」
そして彼は教室へ駆け込んだ。
……え? しーちゃんって呼び名、もしかして正確には「Cちゃん」だったの?
頭の隅に一応その「しーちゃん説」もあったが、さすがにそれはないだろうと端から排除していた。なのにそのないはずの可能性の方が的中していたらしい。
そうか、「C組のアイドル」だから「しーちゃん」か。もしB組にいたら「びーちゃん」だったり、もしA組だったら事件の関係者みたいな呼び方をされていたわけだ。
もうほんと、驚くわ。
どこと言わず全体的に驚くわ。
驚きしかないわ。
しーちゃんの存在にも、うちの連中とC組のバカさ加減にも心底驚いたわ。
しかし、それにしても、しーちゃんは反則だろうあれは。可愛すぎる。声も可愛い。
僕は伊達にアイドルと呼ばれる存在がいないことを思い知った――そしてこの活動的バカ溢れる八十一高等学校には、しーちゃんと同じく「アイドル」と呼ばれ熱い視線を集めまくる野郎が複数名いることを知るのは、もう少しだけ先のことである。
今の僕は、すでに学校中に広まっているしーちゃんの写メを、携帯の待ち受け画面に使うかどうか本気で悩むのだった。