028.五月二十五日 水曜日
その日、八十一高校に歓喜の声が漏れた。
いや――正確には違う。
我ら一年B組には、だ。
沈黙の支配が終わりを告げる。
いつもは授業、時々革命、そしてこの三日は業の深い試験という学生を縛る時間の、終わりを告げる。
テスト終了の鐘がなった。
「はい、じゃあ――」
英語教師、猫背がセクシーな男盛りの五十代、津山先生が椅子から立ち上がり――言葉を呑まれた。
「うおっしゃあぁーーーーー!!」
「完璧! 俺! 完! 璧!」
「やっべまじやっべ! テスト中に寝なかったとか始めてだって! なあ俺大丈夫!? 大丈夫!?」
「ヤバイ。今おまえにニノの霊憑いてる」
「ニノ!? マジで!? やっべ自慢しよ!」
――ニノとは、薪を背負って本を読む勤勉な姿の像でおなじみの二宮金次郎のことである。決してJ系大人気グループの彼ではない。宇宙人と戦った彼ではない。
終了とともに訪れるのは、労苦からの解放。そこには重荷を下ろしたことに身体が弛緩し息を吐くことはあろうと、椅子に立ち上がって吠えるような元気と反応などあろうはずがない。
昨日までは、確かにそうだった。
終わると同時に半分くらいは死んでいた。
しかし本日、中間考査最終日は違った。彼らはかつてないほどの手ごたえを感じていた。いつも煮え湯を飲まされてきた憎きテストめに一矢報いた――そんな心境なのかもしれない。
まあ、僕は違うけどね。
身体でも声でも喜びをあらわにし、猫背がセクシーな津山先生を困らせている彼らとは違い、僕は本当に心底ほっとしている。喜びというよりは、無事に済んでよかったという安堵の念が強い。
昨日は大変だった。本当に大変だった。
覚醒したマコちゃんから五条坂先輩のノートとテスト問題を借り、そのままなし崩し的に僕がテストのヤマを張ることになった。人数分のノートのコピーに走る者たち、意図せずテスト対策をすることになり昼食調達に出て行く者たち、わからないところを率先して聞いてくる者たち……正直僕は帰りたかった。だが、もし僕が「帰る」と一言告げたら、彼らのやる気を、特に高井君のやる気を全て奪ってしまうのではないか? そう思ったら帰れなかった。同じ理由で柳君も付き合った。彼と知り合いになれてよかったと本気で思った。イケメンだけど。
なんだかんだで、帰る頃には四時になっていた。買出し班がくれた菓子パン二つでは足らず、柳君と高井君と三人で、浜屋でお好み焼きを食べて帰った。
本当に、本当に大変だった。
この学校の先生は、もしや毎日あんな苦労を噛み締めているのだろうか――そう思うと、担任の三宅弥生たんにとても同情したくなった。
「おいおまえら!」
高井君がやってきた。脱ぎながら。
「できたよ! 俺にもできた! こんな達成感、十キロダンベル始めてあげられた時くらいだ!」
いまいち達成感がよくわからないが、とにかく高井君は嬉しそうだ。
昨日僕と柳君で、「ここだけ憶えろ。ここさえ憶えておけば赤点は回避できる」と言ったところをきちんと憶え、解答用紙に書き殴ったのだろう。数学もきっちりやったしね。
「よかったね」
僕は疲れたけどね。でも無事にできたんならよかったね。
「――よしおまえら! 一之瀬を胴上げだ!」
「はっ!?」
何を言い出すこの筋肉。
「感謝の胴上げだろ! おら来いや!」
「「うおおおぉぉぉぉぉーーーーー!!」
突然の宣言に驚愕する僕。殺到する吠えし野獣たち。うおーじゃないだろ。
――バカ+テンションMAX×集団=理由も意味も必要ない、ただ暴れたい……それだけさ。
「やっ、やめろ! 君ら落とすだろ!? 君ら絶対僕を落とすだろ!? やめっ、やっ――」
テンションが足りない僕の声は届かない。
もやしっこである僕の抵抗は紙程度のものでしかない。
しかも軽い。
最後に僕が見たのは、助けを求めようとした隣の柳君が、その場から遠ざかる背中だけだった。
……うん、たぶん僕も、同じ状況だったら逃げたと思う。だから柳君は責められない。
彼らの無遠慮な手と、腕白でもいいからたくましくと育てられたのだろう無駄に高い行動力が、僕をひょーいと軽々宙に舞い上げた。
かつてない不安と浮遊間に、僕の男がぎゅーっと縮み上がる。危機による本能的反応だろうか、自然と背が丸くなる。
こ、こえぇ! 天井近い、っていうか普通こういうの下の人ベルトとか持って飛びすぎないようにするもんじゃないの!? 丸投げはやめようよ丸投げは!
「「わっしょい! わっしょい!」」
「せ、せんせー! せんせーとめてー! おーい! ……おい!! せめてチラ見くらいしろよ!!」
猫背がセクシーな津山先生は、僕の声を無視して、手ずから問題用紙を一枚一枚集めて回っていた。こっち見ろよおい! おい! 僕はこんなに舞ってるんだぞ! ……関わりたくない気持ちはわかるけど!
「おい! ところでよ! これ! いつまでやるんだ!?」
「そろそろいいだろ!」
誰かが言い、誰かが答えた。
例によって悪ノリしすぎて僕を高く高く上げることに情熱を傾けつつあった野郎どもは、そろそろやめる気になったようだ。よかった。徐々に天井が近くなるたとえようのないこの恐怖、もう二度とごめんだ。
「じゃあ! 一斉に! 離れるぞ!」
え!? 一斉に離れる!?
絶望的な声に、僕の背筋に寒いものが走った。
「「せーの!」」
「離れんじゃねえ落ちたら怪我すんだろ!! 徐々に下ろせって!! 徐々に下ろせってーーー!!」
――僕の魂からのツッコミは、なんとか聞き入れられました。
八十一高校今年度一番目のテストは、こうして幕を下ろした。
そして、この一年B組が吠えた日が、ある事件へと繋がってしまうだなんて、今の僕は思いもよらなかった。
というより、それどころじゃなかった。
……胴上げ怖いわ……二度とごめんだわ……