027.五月二十四日 火曜日
「おい一之瀬、喜べ!」
僕が席に着いた時からちょうど五分後、高井君が教室に駆け込んできた。
「例の話、なんとかなりそうだ!」
「マジで!? 使用済みが!?」
「だから言い方に気をつけろっつってんだろが! このむっつり!」
「いやどっちかっていうと今はオープンだ! むっつりじゃない!」
「問題そこじゃねえよ!」
僕も高井君も、朝っぱらからテンションが高かった。そりゃそうである。テンションの上がらない話なんてしていないのだから。使用済みジャージの話をしているのだから。
「高井」
隣の柳君は冷静に言った。
「テスト勉強は?」
「今そんな話どうでもいいだろ!」
「そうだよ柳君! 空気読めよ!」
「……」
柳君は非難めいた視線を、援護射撃した僕に向けた。そして諦めたように溜息をついて目を伏せた。
「一之瀬のことは心配してないが、高井は補習決定かもな」
「――結構使い込んでるからそれでもいいのかってさ!」
高井君は柳君の忠告を無視した。……テンションの上がっている僕でさえ無視できなかった大事な言葉を。
でも、これから三十分もしない内にテストは始まる。かわいそうだけど、今更足掻いてもどうにもならないだろう。
――しかしこのまま話をするのは、ちょっと気が咎めた。
柳君の言葉で僕は冷静になれた。
そうだ。ちょっとだけ方向転換を図ってみよう。
「それでも助かるよ。ほら、昨日柳君にも言いかけてたんだけど」
と、僕は特別な意味を込めた視線を柳君に向けた。
「こうなったらバイトでもするしかないかな、って考えてたんだ。僕みたいな帰宅部は時間の捻出も難しくないし、まだ先の話だけど、夏休みの予定も全然ないし」
夏休み。
このキーワードを、柳君は拾ってくれた。
「ああ、夏休みのバイトか。どんなものがあるのかわからないが、まとまった休みだけに何かはできるだろうな」
「でしょ? 高井君は海に行ったりするの? 身体焼きに」
「予定はねえな。……焼いた方が綺麗かな?」
「どうだろうね」
男の裸に興味なんてないから、正直どっちでもいいが。
「しーちゃんも誘って、また四人でどこか行きたいね」
「気が早いな」
「そうでもないよ。きっとあっと言う間だよ。ねえ高井君?」
「お? ……おう、そうだな」
高井君は思案顔になり、すっかりテンションも下がって、自分の席に向かっていった。
妙に小さく見える背中を見つつ、僕は訊いた。
「効果あったかな?」
「なくても現状キープだ。マイナスにはならない」
さすが柳君。ちゃんとわかってくれていた。
「ところでおにいさま、妹さんの夏休みの予定などは?」
「おにいさまと呼ぶな。そして気が早い」
「藍ちゃんに言っといて。日焼けするのもったいないよ、白くて綺麗なんだから、って」
「直接言え――いや伝えておこう」
「直接言うよ、おにいさま」
「言わなくていい。俺から伝えておく。だからうちに呼ばない。来るな」
――そんなこんなで、二日目のテストが始まった。
昨日同様、半分くらいのクラスメイトが戦死したが、どうにか二日目も終了だ。
「問い三は?」
「『釈迦に説法』」
「あ、そうか。あーやっちまったな……僕は『せつなさ乱れ撃ち』って書いちゃったよ」
「引っかかったな」
「いや、柳君が間違ってる可能性もある」
「それ以前に、一之瀬だけテスト問題が違うんじゃないか?」
のんびり答え合わせをしていると、誰かが僕の背中に抱きついてきた。
「だ、誰だ!? 僕の背後に立つな!」
「一之瀬く~ん……たすけてぇ~……」
もがく僕など物ともせず、弱々しく囁いたのは、最近覚醒したマコちゃんだった。
「数学が、数学が危ないのよぉ……どれだけやってもわかんないのよぉ……助けてぇ……」
ああ、ここにも死者がいたか。いや、まだ生きているのか。数学は明日だ。いわゆる瀕死ってところか。
「柳君、数学だってさ。教えてあげたら?」
「ダメよ柳くんは!」
マコちゃんの拒絶の声は強かった。……そして僕にだけその理由をそっと教えてくれた。
「……だって好きになっちゃうじゃない……腰がくだけるほど超好みなんだから……」
なんとも馴染みのあるセリフを吐いてくれた。ならば仕方ないと僕は思う。……だがまず離れてほしい。
「五条坂先輩に教えてもらったら? あの人、成績いいんでしょ?」
「最近は服を作るので忙しいみたい。頼めないわ」
そうか。テスト勉強そっちのけで服作ってるのか、あの人は。テストテストってまごついている僕らとはスケールが違うってわけだ。実にあの人らしい。
「一応、一年生の時にやったテスト問題とノートは全部貸してもらったんだけど、全然わかんなくて」
なに――?
その魅惑の声は、波紋のように一年B組に広がった。
起死回生、地獄に垂れたくもの糸、殺人ウイルスを浄化するワクチン。そんなイメージがひどく似合う。
「テスト問題とノート、あるの?」
「うん。でもぉ――」
「持ってきてる?」
「う、うん」
「見せて」
僕の問答を許さないようなきっぱりした言動に戸惑いつつ、マコちゃんはノートとテスト問題を持ってきた。
なんといっても、過去に出題されたテスト問題と、あの伝説の男のノートである。一縷の望みというにはあまりにも眩しい。
あの人のことだ。きっと腹に響く丸文字で黒板を書き写し、先生の発言をもメモしているはずだ。ああ見えて細かな作業が好きで、意外と丁寧な人だから。
いつの間にか、僕の周りには生きる屍が、身体を引きずって集まっていた。
最後の救いを求めて。
こうして、伝説に新たな一ページが加わることになる。
五条坂光のノートがあれば、どんなバカでも赤点を回避できる、と。
五条坂先輩……あなたは本当にすごいです。偉大な人です。