199.十月二日 日曜日 学園祭 午後一時三分
藍をナンパした彼女は、北浜恵と言った。
今年高校に上がったばかりの一年生で、今は女子校である網丘六女子高等学校に通っているそうだ。
「柳藍です」
「藍ちゃんか。中学生かな?」
「はい。中二です」
簡単な自己紹介をして、二人は移動を開始した。
校庭で始まった乱闘騒ぎを見ようと、あるいは参加しようとする元気な男連中の波に逆らうようにして、校舎に入る。
「おっと」
波に揉まれてはぐれそうになったので、北浜恵はごくごく自然に藍の手を握った。男前な対応である。そしてそのまま先導するように、壁に添って進み廊下に出た。実に男前なエスコートである。
「で……どっちだろ?」
廊下の壁に寄り、なんとかスペースを見つけて立ち止まる。
外も多いが、校舎内も人が多い。藍はまだ校舎に入ったことがなかったが、外より中の方が活気がある。熱気がこもって少し暑いくらいだ。
「とりあえずニ階か三階だと思いますよ」
一階は特別教室などが並んでいるようだ。各教室はニ階から上にあるのだろう。
外観からしてそこまで複雑な作りだとも思えないし、適当に当たりを付けて歩いても着くはずだ。それでも迷うようならその辺の八十一校生に聞いてもいい。
「そうか。じゃあ階段へ……」
「そっちは今来た方ですが」
「お、おう。そうだっけ? ……こっちか」
北浜恵は、本当に結構な方向音痴らしい。
人に気をつけながら階段を上がると。
「いらっしゃいでござるー。たこ焼きとか明石焼きとかやってるでござるよー」
まず、どこかのクラスの出し物だろう妙な呼び込みの声が聞こえた。ニ階には一年生の教室が並んでいるらしく、一階の比じゃない人の多さだ。
(たこ焼き?)
そう言えば、藍は兄の友人からたこ焼きの食券を貰っていたことを思い出した。もしかしたら妙な呼び込みをしている模擬店こそ、兄と兄の友人の教室かもしれない。一年生の教室が並んでいるようなので可能性は高い。
貰った食券は、兄と一緒に食べる時に消化しようと思っていたのだが……
(……間が悪いか)
一瞬、手を引く北浜恵を「たこ焼き食べませんか?」と誘おうかとも思ったが、彼女の目的地は「男の宴喫茶 (ショータイム有り)」である。チップ的なあやしいやり取りがあるのかどうかはわからないが、喫茶と名のつく以上は何かしら飲食する可能性は高い。であれば、ここで食べるわけにはいかない。
「えっと」
「たぶんもう一つ上です。上に行きましょう」
「お、おう」
そんなこんなで、特に迷うことも躊躇うことも障害もなく、二年A組プレゼンツ「男子の魅力をさらけ出す! 男の宴喫茶 ~ショータイム有ります~」の教室を発見した。
「ここが……」
ここが例の、件の、ショータイムが有る男の宴の喫茶か。
藍だってわかっていた。
もちろんわかっていた。
ここは基本的に未成年が集う教育現場であって、裸で商売をすることはおろか、裸を武器にして意味深な膨らみを誇示するビキニ的な紐パンにチップ的な何かを挟み込んでもらおうなどという男子がショータイムに踊るようなあやしい商売をやっているはずがない。成り立っているわけがない。
だが、なんか、ヤバイ。
そう、ヤバイのだ。
なんかものすごーくヤバイ臭いがするのだ。
暗幕で仕切られた、廊下と教室の間にある窓。
当然のように中を伺うことはできず、視界はおろか、もはや光さえ遮っている。
――まるで中でチップ的なやりとりをしているのを覆い隠しているかのような店構えではないか……!
教室の前方の出入り口には入場者をチェックする体格の良い八十一の男子二人が立ち、後方のドアは締め切っているようだ。
当然のようにドアは閉まっていて、中を見ることはできない。
おまけに近づくだけでドアマンよろしく立っている男子二人に睨まれる始末だ。
――まるで中で意味深な膨らみを誇示するビキニ的なTバックの男子とそれを楽しむ客を世間の目から守ろうとしているかのような厳重さではないか……!
中が見えず、入場者チェックがあり、おまけに名前が「男子の魅力をさらけ出す! 男の宴喫茶 ~ショータイム有ります~」である。
この一角だけ異様な雰囲気を放っていて、通行者は足早に通り過ぎていく。まるで呪われた地に長く滞在するのを本能が拒むかのようだ。
今日のこの有様を見て、人が集まらない、人が留まらない場所があるだなんて……
男子校のタブーを凝縮したのかと思わせるようなアブノーマルな雰囲気をビンビンに感じさせる空間を前にし、藍は緊張にごくりと喉を鳴らした。
果たして、己が財布にはチップ的な扱いでビキニに挟む紙幣があっただろうか。思わずそんな心配をしてしまう。
「通してもらえます?」
そんな中坊の緊張など気にした素振りも見せず、北浜恵はドアマン二人に気軽に声を掛けた。――彼女はいつの間にか、がっちりと、恋人同士がする指を絡めるような手の繋ぎ方をしていた。絶対に離さない、離す気がない、どこまでも一緒に行こうと、藍の手を握るその右手が無言のまま語っていた。
「どなたかの紹介ですか?」
左の男子が、低く響く声で問う。
「しょ……島牧くんの紹介で」
「でしたら合言葉を知っているはずですが」
合言葉。
学園祭に合言葉とはどんな秘密クラブだ。
これはいよいよチップ的な臭いが本格的に漂い始めてきた。
「えっと……『からあげ大好き豚バラ大好き結局脂が大好きだ』……だっけ?」
「――どうぞお通りください」
――正直、藍はちょっともう、この雰囲気とか秘密クラブめいた合言葉とかの存在があまりにもあやしすぎて逃げたかった。
だが、北浜恵は決して藍を逃がすことはなかった。
そこには驚愕しかなかった。
かの兄の友人のように、「トラブルをいち早く察する能力」を磨いていない藍は、年上の女が繰り出す理不尽にして強引なやり方に戸惑うことしかできなかった。
北浜恵の策略に気づき「こいつ! まさか! この私を巻き込むつもりか!? やめろッ! 私はまだ死ぬわけにはいかぬのだッ! 死ぬことを恐れていいるわけではないッ……だが今ではないのだ……ッ!」などとある意味では余裕を感じさせるような思考が浮かぶほど、藍はすれていなかったのだ。
若かった。
純粋だったのだ。
……まあ気づいたところでも思ったところでも、彼女は藍を離さなかったし、一緒にあやしい教室に入る未来は変えられなかっただろうが。
なんとも脂ぎった合言葉に男子の本音を垣間見つつ、ついに二人の女子は開け放たれたドアを潜り、男の宴へと踏み込んだのだった。
あの合言葉を知っている選ばれし者 (お客さん)だけが入店を認められた、男の宴喫茶は。
「わりと普通だね」
「そうですね」
廊下側は暗幕で仕切られているが、外に面した窓はカーテンを開け放たれている。おかげであやしげな黒い外観とは対照的に、店内……いや、教室は明るかった。
これまた暗幕を張って教室を前後で区切り、恐らく厨房的なスペースにしているのだろう後方部のせいで、テーブルとして用意している席は多くない。椅子が足らず立ったままの客もいた。
それにしても。
どこもかしこも混雑している中、さすがは合言葉が必要というあやしい模擬店である。
ここは時間の流れがゆっくり流れる、まるで忙しさや慌ただしさ、大声や大騒ぎといった要素が存在しない教室だった。混沌としていた学園祭において、ここだけ別次元のようだ。喧騒を遮断し、掛けられたヒーリング系のBGMがとてもよく似合う。
パッと見た限りでは、異常は感じられない。
だが、よくよく見ると異様ではあった。
まず目に付いたのが、机を固めてテーブルクロスを敷き、その上に花まで飾るというシャレた飾り付けがなされていること。
――普通のことのようだが、ここは八十一高校で八十一高校の学園祭である。
その点を加味すると、「花を飾る」という文化を取り入れていること事態に違和感があると言えるだろう。
そして次に客層だ。
この学園祭では、ほとんど周りは男ばかりだった。女なんてピンクの特攻服とかヤンキーの彼女とか……今年は例外として九ヶ姫女学園の女生徒がいるくらいで、藍や北浜恵のような一般客は結構珍しい。
そんな学園祭を見てきた藍にとっては、ここの客層はおかしかった。
なにせ、女性客しかいないのだ。
商店街のおばちゃん数名からピンクの特攻服の女子数名、私服の女子数名、……さすがに九ヶ姫の生徒はいないようだが、しかしこの客層を見て、明らかに女性向けの模擬店であることがわかる。
再び緊張の糸が張り詰める。
やはりチップを用意しなければならない店なのかと。そうなのかと。どうなんだと。
「いらっしゃいませ」
さすがに割引券やクーポン券をチップ代わりにYバックのビキニに挟むと怒られるだろうかなどと藍が考えている時、ウェイターとして叩いているのだろう男子がやってきた。
「おっ!?」「ひぇっ」
同時に振り向いた北浜恵と藍は、同時に小さな悲鳴を上げた。
(本気でそういう店だった!)
凶器のように黒光りする細身のビキニ。
狂おしいまでの情熱を連想させる真っ赤なネクタイ。
そして、何憚ることなく剥き出しになった筋肉。
なんとそいつはムキムキのマッチョで、パンイチで、首からネクタイを下げただけという、夏の砂浜かプールでかろうじて公に出ることを許されるギリギリの格好をしていた。
いきなりそんなパンイチネクタイ男が露出狂よろしく目の前に躍り出たら悲鳴だって出るだろう。「あら? まさか男子校に住んでいると言われている噂の妖精さんか何かかしら?」と現実を受け入れられず少々錯乱するのも無理からぬことだろう。
「あれ? 藍ちゃん?」
(しかも知り合いだった!)
この時の藍の驚きと衝撃は、近年にないほど大きかった。ここまで驚いたのは藍の誕生日のサプライズパーティーで猫を貰った時以来だ。
「た、高井さん、何を……?」
その人は、ついさっき知り合ってついさっきまでバスケとかやっていた兄の友人である、高井秋雨だった。
カラッとした性格のスポーツマンで、藍を見ても特に特別扱いしないし特別視もしないという、ある種稀有とも言える存在……というのが藍の認識だった。しかも本当についさっきまで一緒にいた相手である。
なのに、まさかこんなところでこんな凶器めいたビキニ姿に、越えてはならない男の壁を一つ越えた格好の彼に再び会うだなんて、誰が予想できただろう。……高井秋雨という男を知る者なら、案外予想できたことではあるが。
「何ってバイト……いや、ちょっと助っ人で」
どうやらバイトらしい。こんな挑発的な格好で。……このまさかの露出度である、それなりに裏で金が動いているのかもしれない。
これも男子校の闇か……などと、妙に目を引く割れた腹筋をチラチラ見ながら考えていると、
「あ、恵ちゃん!」
北浜恵の名を呼ぶ人物が、小走りにやってきた。
「よー。来たぞ翔――おう!?」
北浜恵が、八十一高校学園祭に来た理由。
実際、誰か味方か知り合いを……本当に出会ったばかりの藍を巻き込まないと、とてもじゃないが一人で入店できないくらいあやしさがはみ出していた二年A組の模擬店にやってきた理由。
それは、幼馴染の様子を見るためだった。
名前は島牧翔。通称しーちゃん。
小学校から中学校まで同じ学校に通い、高校から別々になった幼馴染。
今もちょくちょく会っては、遊んだり話したりと、交流があった。
身体が小さくなよなよしていて、小学校の頃はちょっとイジメられていたという、何かと心配な男子だった。
そんな幼馴染が、悪評の多い男子校へ行くといい、実際通い出した。
傍目には何も変化はなさそうで、それなりに上手くやっているようではあったが。
それでも、幼馴染としてはやはり心配で、自分の目で見て確かめておきたいと思った。
それが、北浜恵が今ここにいる理由である。
――奇しくも、心配の対象は違うものの、北浜恵は藍と同じような心境で八十一高校学園祭へとやってきたのだった。
「ど、どうした翔!? その格好どうした!?」
奇声を上げた理由も、戸惑う理由も、北浜恵にしかわからない。
藍にとっては別段不自然にも不思議にも思わなかったから。
女性物の浴衣を着ているやたら可愛い女の子が来た、くらいのものである。
そこに何を驚く理由があるだろう。
――この後、藍が島牧翔の性別を知り、北浜恵に一足遅れて心底驚くことになる。
近年なかった大きな驚きがこの短時間で、三分ほどの間で二度目を迎えるのだった。