195.十月二日 日曜日 学園祭 午前十二時十三分
「そういえば、羽村さんは?」
これからのことを一通り聞いた後、時間を気にしつつ茅ヶ崎は、九ヶ姫女学園生徒会副会長の名前を出した。
羽村優。
すでに八十一高校で「氷の女」のあだ名が付いている、無表情を崩さない冷徹なメガネの少女だ。一部男子は「あの人になら意味のない平手打ちを食らってもいい。むしろ叩いてほしい」などと熱い声を漏らしている。
「副会長は呼んでいなかったでしょう?」
そう、この「十二時に生徒会室で待ち合わせ」は、生徒会長である富貴のみに向けられていた。
正確に言えば、富貴と一緒にやってきた久居も呼ばれてはいない。何かあった時のために護衛としてここまで付き添ってきただけだ。決して相馬に会いたかったわけでもない。……たぶん。
「まあそうなんだけどね。でもあの副会長なら来るかなーって思ってたから」
付き合いが短いながらも、茅ヶ崎の推測はなかなか鋭い。富貴も当然のように来るだろうと思っていた。
羽村は九ヶ姫の頭脳である。
彼女はそれを自覚している。立場的にも友人としても、九ヶ姫生徒会長として富貴が呼ばれたこの場では、彼女も耳に入れねばならない類の話――学園祭についての話が行われることは容易に察することができる。
呼ばれたのは富貴だけだが、他の者が同席を許可されていることも羽村は知っている。
学園祭に関わることなら、呼ばれなくともここに来るのは副会長としての責務だ。そして羽村は理由なく責任を放棄するような人間ではない。
要するに、あの羽村優が来ないということは、副会長としての責務を放棄するということで。
つまりは、それは彼女を知る者からすれば、ここにいないという事実は不自然だと言うことだ。
考えられるのは、単に約束自体を忘れているか、来られない理由があるか、だが。
しかし忘れるなんてありえないだろう。
そこそこ長い付き合いである友人でも、時々人間なのかどうかを疑いたくなるような人間味を感じさせない、正確無比で優秀な羽村優という存在からして。ただ「忘れていた」なんて、そんな失態一度も見たことがない。
「トラブルかしら」
富貴の呟きに、茅ヶ崎は聞こえないフリをしてお茶をすすった。
その少し前。
羽村優は、確かにトラブルに遭遇していた。
スパーンと良い音がして、「2」の板がはじけ飛んだ。
「イェー!」
青空の下、諸手を上げて叫ぶのは白い制服の少女――九ヶ姫女学園中等部生徒会長・出雲たまきである。
「す、すげ……」
八十一高校野球部のユニフォームを来た男連中は元より、野次馬していた連中まで驚きの目で、九ヶ姫の制服を着た小さな女の子を見ていた。
校庭の一角で行われている野球部出展・ストラックアウトを、出雲は制覇していた。
三回ほど。連続で。
ストラックアウトとは、正方形の板を九枚に割り、その板を一枚ずつボールを投げて当てていく、というゲーム……というより投球練習だ。
それなりに制球力のある現役ピッチャーでも難しいことを、出雲はあっさりとやってのけていた。スピードはあまりない放物線を描くゆるい球だが、まさしく針の穴を通すかのような絶妙なコントロールである。
その姿をさも当然のような顔で見ているのは、一緒に回っている九ヶ姫女学園高等部生徒会副会長・羽村優と。
「たまちゃんならこれくらいやるだろうなぁ……」
先程合流して一緒に回っている、三大美姫などと呼ばれている生徒会役員・天城山飛鳥である。
当然かどうかはともかく、出雲たまきならやるだろう、と羽村も思っていた。
彼女は伊達や酔狂で中等部の生徒会長をやっているわけではない。あれで頭も良いし、特に運動神経は非凡なものがある。
普段はまったくそうは見えないが、あれで中等部の生徒に支持されて生徒会長になった存在なのである。何も考えていないようで、実は色々なことを考えていたりもするのだ。
「ゆう先輩、あすか先輩見てたー? あと二回ですよー」
今年の八十一高校学園祭のテーマは「チャレンジ」である。……忘れられがちだが、毎年ちゃんとテーマはある。
このストラックアウトは、挑戦料一回百円で、連続で成功すればするほど貰える商品が豪華になる。
ストラック参加賞で五百ミリペットボトルのジュース一本、制覇一回でジュース二本。
制覇二回で、ジュース三本。
制覇三回で、学園祭でどこでも使える回数券一枚。
制覇四回で、回数券三枚。
そして制覇五回で、回数券十枚という大盤振る舞いである。
この回数券は、あとで券と引き換えで野球部が料金を支払うという、いわば小切手のように使用される。
学園祭で最高額の商品およびアトラクションなんて二百円くらいがいいところだ。が、それでも十枚も持って行かれたら高校生にはかなり痛い。カンパ前提でもかなり痛い。
というより、そもそも五回連続で成功する者が現れるなんてことを想定していない。せいぜい行っても二回くらいがいいところだ。
なのに、この少女は危なげなく、すでに三回も成功してしまっている。
しかも発言からして、五回クリアを目指している。
野次馬たちが段々盛り上がってくる中、反対に「幼女に罵られてぇ」だの「氷の女に蹴倒されたあと四つん這いにさせられて座られてぇ」だの頬を染めてひそひそやっていた野球部部員たちの顔色が悪くなってきた。勢い任せにナンパしようと思っていた不届きな連中は、今やテンション駄々下がりである。
「いえ、時間です」
喜んでいる後輩に水を差すようで申し訳ないが、羽村は切りも良いのでここで終わりを告げた。
そろそろ十二時になる。呼ばれているわけではないが、副会長の責務を果たすために、八十一高校の生徒会室へ行かねばならない。
「えー? うーん……しょうがないなー」
出雲は渋々終了を宣言し、ホッとした野球部の一年生から回数券一枚を頂戴した。
「もう時間かー。回りきれないですねー」
「そうですね」
表情がくるくる変わる出雲たまきと、一切感情が表に出ない羽村優。
この二人は不思議と相性がよかった。
「あ、私も行かないと」
これから劇の出番がある天城山も、そろそろ行かねばならない。
――同行していた八十一高校教師・津山先生は、プレハブ裏から校舎に戻ったところで別れた。先生には第二演劇部がいる場所を問い、そこに案内してもらっただけだ。
そして天城山と一緒に回りたい、と言っていた第二演劇部の男子二人は、敵意むき出しの周囲の視線に耐え兼ねたのか、すぐに別れた。刺すような視線ではなく、ミサイルのような心を打ち砕くような強烈すぎる殺気走った視線だった。あれは常人に耐えられるものではない。
あれが男子校の仲間意識か、と羽村はしみじみ思ったものだ。
羽村優が時間通りに来ないことは不自然なのだ。
そんなことは、付き合いの短い者でさえすぐにわかることである。
「もう。そんなにふらふらしてるとまいごになっちゃいますよ」
「え?」
「…?」
人の多い校庭から、校舎へと向かう。
「逆じゃね?」と言いたくなるような会話を経て、天城山と羽村とが迷子にならないよう出雲は間に入り手を引く。小さな後輩は器用に人を避けながら先輩たちを先導する。頼もしい後輩である。
羽村的に、見たいものは多かった。
時間が足りないことが悔やまれるほどに。
中等部から九ヶ姫女学園に通っている者の多くが、男子校の学園祭などほとんど来たことがない。今回は生徒会発案・指導の下、九ヶ姫女学園公認として合同参加という形になっているが、それさえ初めての試みである。
高校同士、過去には交流があったと言われているが、少なくともそれは六年以上は昔の話で、今の生徒にはまったく馴染みのない事実である。初耳だった者がほとんどだった。
交流を復活させよう、とまでは思っていない。
ただ、少しは関係を修復したい、とは思っていた。
さすがに、女学園の近くにいただけで通報されるなんて、八十一の生徒にはひどすぎる所業だ。たとえ過去の彼らが原因だと言われようとも、それは今の彼らがやったことではない。とばっちりもいいところだ。
恐らく、今回のことは九ヶ姫女学園高等部生徒会はじまって以来の一大プロジェクトである。こんなに大掛かりな仕事は記録になかった。
つまり、誰にも先がわからない前人未到の計画だ、ということだ。
生徒会役員にも一般生徒にも不安や不信感を与えないよう堂々と構えている、九ヶ姫生徒会長・富貴真理も、内心相当なプレッシャーが掛かっているだろう。もちろんホームグラウンドである八十一高校の生徒会長も同様に。
トラブルが起これば、このプロジェクトを踏み切った富貴の責任問題になるし、腹に抱えている状態の八十一側も無傷では済まない。
トラブルが起これば、何がどうなってどのような責任が問われるか、考えるだけで胃が痛くなるほどに。
非常にリスクが高い企てだ。一つ間違えば双校の溝が更に深まるだろう。
――もし羽村優が生徒会長だったら、絶対に許可していなかった。
自分だけが責任を取ればいいという単純な話ならまだしも、どこに飛び火しても不思議じゃないほど大きな問題である。現状が良いとは全く思わないが、リスクの高さを考えると、勝負はできない。
まあ、この分なら、問題なく過ごせそうだが。
八十一側の超が付くほどの協力的なスタンスのおかげで、計画は想定外のスムーズさで進み、今日を迎えた。
その協力的な態度には、明らかに下心があるのが見え見えだ。
しかしそれでも、下心ありきの惜しみない協力体制は、こうして過不足ない合同学園祭を実現した。
あとはこのまま時が過ぎてくれれば……
――と、思ったところで、羽村の足が止まった。
「おっと」
引っ張られるような形になった出雲と、間接的に繋がっている天城山が、「どうしました?」と動かなくなった羽村を振り返る。
羽村はそれに答えず、今見ているものを指差す。
「……あ、りん先輩だ」
「ほんとだ。月山さんだ」
そう、校庭のほぼど真ん中のそこにいたのは、あの月山凛だった。
そしてもう一人。
「優先輩、もしかしてあれが噂の?」
「柳蒼次。月山凛が片思いしているという男子ですね」
二人は。
校庭のど真ん中で。
向かい合っていた。
繁華街の交差点のように多くの人が流れるこの場において、止まっていた。
二人で歩いているだけなら、目に止まったところで気にもしなかっただろう。
しかし二人から発せられる只事じゃない雰囲気は、今日のトラブルだけは絶対に回避したい羽村の足を止めるには充分だった。
実際、あの二人に気づいて羽村のように足を止めて見ている者も、少なくなかった。
傍目に見れば、多くの者の目を引く、美男美女カップルである。
そんな二人が目立つ行動を取っていれば、注意を引くのも当然だ。
「なんだろー? 告白かなー?」
「え!? 告白!?」
「なにこうふんしてるんですかー。あすか先輩だって何度もあるでしょー」
「そんな、慣れるほどはないよ。それに人の告白見るのなんて初めてだし……」
「……」
それっぽい空気は羽村も感じていた。
そして、嫌な予感も感じていた。
月山凛の片思いは九ヶ姫では有名だ。何度も告白して玉砕して、それでも諦めきれない。今でも片思いしていると。
いつも一緒にいるメガネの友達の苦労が忍ばれる状況なのだと。
――もしここで、こんな状況で告白劇が始まって、それが三大美姫なんて呼ばれるほど有名な月山凛が当事者で。
――もし、フラれたら。
――当人同士はそれでいいかもしれないが、果たして周囲が黙っているだろうか?
「や、柳くん! 好きです! 付き合ってください!」
「断る」
予想通り、声を張り上げて、誰に聞かれても構わないという乙女力を発揮した月山凛に対し。
柳蒼次の返答は、あまりにも速く、そっけなく、そして冷たかった。
「てめえ柳ィィィィィィ!!!!」
「お、お、おおおおお、お、俺の凛ちゃん……俺の凛ちゃんの告白断るとか……何言ってんだこのヤロォォォォォ!!」
「死ね! いや殺す! 今からおまえを殺す! 絶対殺す!」
「え? なに? もうイケメン狩り始まったの?」
「ヒーーーーハーーーーー! 狙ってたぜあの男ォォォ!!」
「おい、人集めろ! 祭りの始まりだ!」
男も女も、事情はどうあれ拳を振り上げた。
どこかギリギリの一線で綱渡りしているような緊張感があった客層である、きっかけがあればすぐに爆発する。
そして予想通り、周囲は彼女らを放っておかなかった。
なんの躊躇もなく一瞬にして乱闘騒ぎが巻き起こる中。
羽村はその鋭い判断力を発揮し、出雲を連れて巻き込まれないよう退避した。
「あれ? 止めなくていいんですかー?」
「私たちがやる必要はありません」
すぐに風紀委員や、八十一の教師がやってくるだろう。
それに。
「天城山さんが行きましたから」
羽村が行動を起こすと同時に、天城山が渦中へと駆けていった。月山凛を守るために。彼女はあれで合気道有段者だ。
それにしても、だ。
「イケメン狩り……?」
なんだか不意に聞こえたフレーズが、心の中に残っていた。
なんとも胸騒ぎしかしない言葉である。




