192.十月二日 日曜日 学園祭 幕ノ四 午前十一時三十六分
――高校に入ってから、少し変わったね。
いつだったか妹に言われた言葉を思い出す。
その時は何とも思わなかったが、今まさに実感する。
柳蒼次は、月山凛が嫌いだった。
遠くからこの町に引っ越してきた中三の時、月山凛と同じクラスになった。
それから散々絡まれて付きまとわれて非常に迷惑した。一日一回告白されるのも迷惑だったし、時と場合を選ばず接触してくるのも鬱陶しかったし、周囲がそれを後押ししたり、月山の人気が凄すぎて男子連中が柳に嫉妬して何かと嫌がらせしてきたりと、本当に散々な一年間を過ごした。
もう最後の方では、柳も色々と諦めたくらいだ。負けず嫌いの柳が諦めるのはそこそこ珍しいことである。
偏差値的にもっと上の高校を狙えた柳が、あえて男子校である八十一高校を選んだのは、月山凛から離れたいという欲求が大きかったからである。
「柳くん、どこに行くの?」
「校庭」
今日会うことは覚悟していた。
そろそろ来るだろうとも思っていた。
そして案の定こうして会って、彼女は付いてくる。
月山が「一緒に行っていいか?」と聞かないのは柳が断ることがわかっているからで、柳が何も言わないなら付いていってもいいというおかしな不文律が出来上がっているからだ。
本当に月山凛は変わらない。
多少あの頃とは髪型が変わったものの、中身は中学の頃のままだ。
(――むしろ変わったのは俺の方か)
いつか言われた妹の言葉が、まるでお気に入りの音楽のワンフレーズのように、頭の中でリフレインしていた。
たこ焼き・明石焼きの配達を済ませて一年B組に戻った柳は、クラス委員長・竹田からの「もう遊んできていいぞ」という一言で労働から解放された。
本日、気温はそこまで暑くないが、これだけ人が入って活気に満ちているとやはり暑かった。かぶりものをしていた柳は特に頭がむれた。がしがしと髪を掻き回し、内にこもっていた熱を飛ばす。
『たこ焼きマン(かぶりもの)』とエプロンをはずして返却する。本来なら教室でウェイターもやるはずだったのだが、予想以上の混雑ぶりに色々とシフトに変更を余儀なくされた。
そして、教室付近で待ち伏せていた月山凛と顔を併せた。
「あの……あ、会いに来たんだけど」
「そうか」
柳はそれだけ答え、とっとと教室を離れる。月山凛は当然のように付いてくる。
二人の関係は、中学時代とあまり変わらない。
――まあ昨日のアレで、若干柳はちょっと心理的にアレではあるのだが。
中学から高校へ進学し、月山と会わなくなった。
それでも柳は、いずれは会いに来るだろうとは思っていた。というより会いに来ない方が不自然だとさえ思っていた。彼女のしつこさと執念深さは筋金入りだ。自分が根負けするくらいには。
そして予想通り、夏休みに再会した。
むしろ一学期間に会わなかったことを考えると、遅すぎた再会だったと思う。
思い起こせばその時だろう。
柳が、自分の変化を自覚したのは。
どう考えても来客用スリッパの数が足りないので、本日のみ土足解禁である。柳は一応上履きと靴を履き替えたが、月山はそのままだ。
校庭に出ると、青空の下、運動部が色々な「喧嘩」をしているのが目に止まる。
サッカー部はPK対決。
野球部はストラックアウト。
ハンドボール部や水泳部、柔道部といった連中も、限られたスペースで何かをしているようだ。どこもそれなりに盛況に見える。
というか、単純に人が多いと言うべきか。
柳は人を避けながら、とある一角へと向かう。少し遅れて月山も付いてくる。
「……あっ」
人を避けそこなった月山はよろめき、すがるように柳の手首を掴んだ。
「…………」
「あ、ごめん……」
振り返る柳に、月山は俯き謝る。
だが手は離さない。
――本当に自分はちょっと変わったんだな、と思った。
中学時代のあの頃なら普通に振り払っただろうその手を、柳は特に気にしなかった。
「手」
「……うん」
離せ、という意味で捉えた月山は、名残惜しそうに握った手を開く。
柳はその手を、自分の手で掴んだ。
若干汗ばんでいた。
「転ばれると迷惑だ」
こうして八十一と九ヶ姫で合同の学園祭を開催してはいるが、すべてはまだ始まったばかりである。以前の関係以上に良くなることも悪くなることも、これからの話である。
そんな微妙な今、九ヶ姫の生徒に怪我でもされたら、学校単位での問題になる。更に相手が三大美姫と名高い月山凛なら、余計問題は大きく取り上げられるだろう。
月山凛が怪我した時、一緒に歩いていた男がいた……なんて噂が立ったら、学校単位でも柳個人でも非常に面倒なことになる。
言い訳でもなんでもなくそれが本心なのだが、口にすると言い訳にしか聞こえないだろうから言わない。
月山はこの行為を勘違いするかもしれないが、彼女の勘違いが激しいのは今に始まったことではないので諦めている。
――だが、ここまで早足で歩いていたのに心なしか足まで遅くなったことには、自身でさえ気づいていない。
「ちょっと変わったね」
校庭を突っ切り隅の方に向かうと、人込みは少なくなった。
相変わらず妹の言葉が頭の中をグルグルしている時、手を引いている女子が同じようなことを言った。
思わず立ち止まり、振り返る。
だいぶ顔が赤くなっていて――「あなたが好きです」と書いてあるような顔で、月山は柳を熱っぽい視線で見ていた。
「俺は変わったか?」
「うん」
本人さえ曖昧なのだが、他人がはっきりとうなずく。
「優しくなったか?」
――もし肯定したら手を離そうと思っていた。期待させるのは酷だ。柳はやはり、月山凛と付き合うことは考えていない。
だが、彼女の答えは、柳の想定の上を行く。
「柳くんは優しいよ。元からね。たぶんそこは変わってないよ」
表情こそ変わらないが、柳は充分驚いていた。
この女に優しくしたことなどほとんどない。付き合う気はないので、期待させるわけにはいかない。だから優しい言葉一つかけたことはない。
不器用かもしれないが、それが柳なりの優しさである。最初から見込みはないから諦めろ、と態度でも言葉でも再三言い続けている。
月山の言葉が本心からだとするなら、そんな柳の気持ちを見抜いていることになる。
「なんだろう? ……ちょっと人付き合いが上手くなった、かな?」
人付き合いが上手くなった。
――なるほど、と思った。それが正解だ、と柳も思った。
これまで色々あったせいで、友達らしい友達なんていなかった。
なのにこの八十一高校に来てからは、一応友達と呼べるクラスメイトができたし、クラス内でもそれなりに馴染んでいるように思う。嫌がらせ的なこともされているが、中学時代と比べればかわいいものだ。……ちょっと鳥がトラウマになったりもしたが。
くだらない事件が頻発し馬鹿馬鹿しい生徒がたくさんいて教師にガチで殴られるめちゃくちゃなこの高校が、今は少し居心地が良くなっている。
いや――あえてこう言うべきか。
どこが変わったとか優しくなったとか人付き合いが上手くなったとかではなく。
もっとシンプルに、誰にでもわかるように。
「少しバカになったんだろう」
八十一高生らしく。