190.十月二日 日曜日 学園祭 幕ノ三 午前十一時十三分
――今横を走り抜けたのは、知り合いではなかろうか。
追いかけるように振り返る廊下の先は、知らない人たちがごった返している。すでに追いかけたその人は人込みに紛れ、後姿さえ見ることはできなかった。
「……」
代わりに目が合った八十一高生がぎこちなく微笑んだが、特に気にせず無視した。
それにしても、何度見てもこの光景は異常だ。たかが学園祭にここまでの集客力があるのか。同世代の若者は多いが、小学生から中年、ご老体まで客層の幅が非常に広い。
八十一高等学校。
近隣ではバカで有名な男子校で、バカな噂が絶えることなく日々量産される、なんと形容したらいいか考えさせられる高校だ。
ただ、この光景を見ればわかる通り、嫌われてはいない。
特に学校同士の距離が近く、何十年も前は交流があったと記録には残っている因縁深い九ヶ姫女学園。
今年は色々な……いや、一人の少年が私欲のために行動を起こした結果、八十一高校学園祭を九ヶ姫と合同で行うことになった。利害関係はそこそこ複雑にあるが、動機の部分は本当に些細で単純なことから始まったことを、知っている者は知っている。
――ここにいる諫早清水も、その一人だ。
九ヶ姫女学園からの参加者は、制服着用での来場を生徒会から呼びかけられている。
もちろん強制力はないが、有事の際には即座に団結しトラブルに対応できるよう互いが互いの身分を証明するためだ、と説明されれば、自衛のためにも制服着用を拒む生徒は少なかった。
何せここは八十一高校で。
八十一高校学園祭は別名「喧嘩祭り」とまで呼ばれるような荒っぽい行事であるからして。
今ここにいる九ヶ姫の生徒は、半数が生徒会を守るため、生徒会の力になるために参加している。合同で行われると決まった以上、当日は九ヶ姫生徒会が参加しないわけにはいかない。
何せ「喧嘩祭り」である。どんな荒っぽい最悪なイベントになるか想像もつかない。ならば生徒会だけを現地に送るわけにはいかない、と多くの生徒が参加を決意し、実際多くの生徒が参加している。
諫早がここにいる事情はまたちょっと違うのだが、まあ、「それもなくはない」と言ったところか。
「ねえ彼女。暇?」
「……」
さわやかさを見せようとがんばっているのが見え見えのがんばっている笑顔で話しかけてきた八十一高校生を、何も言わずにじっと見つめる。
無言の圧力に耐え兼ねた彼はそのまま「あはは忙しそうだね」と言い残してそそくさと去って行った。
「喧嘩祭り」なんて呼ばれる学園祭なので、確かにそれっぽい連中が多い。ナンパも多い。
だが雰囲気は悪くない。
きっと来場客が多すぎるせいだろう。それがあまり目立たないのだ。むしろ雑多な風景に溶け込んでいると言えるのかもしれない。
この分なら、一人で動いてもいいかもしれない。
「あれ? 君どっかで会ったよね?」
「会ってません」
あまりにもきっぱり言い切ったので、相手はそれ以上食い下がらなかった。
――雰囲気は悪くない。この密集状態でナンパしてくる、明らかに周囲が見えていない猛者が多いのは、いささか閉口するが。
一緒にいた友人に待ち人が来たので別行動になり、諫早は今一人である。一人でいる九ヶ姫の生徒が珍しいのか狙い目だと見られているのか、非常にナンパが多い。普段なら繁華街でも声を掛けられることはほとんどないのだが。学園祭効果というやつだろうか。それとも九ヶ姫の制服効果か。
来ているはずの他の友達に連絡を取って一緒に行動することも考えたが、ここまで人が多いなら一人の方が身軽かもしれない。ナンパは多いが。
諫早は、時間の許す限り、この八十一高校を回ってみたいと思っていた。
男子校なだけに、こんな時でもなければ来ることは叶わない。そしてこの学園祭中に何かトラブルが起これば、向こう五年くらいは合同で行われることはないし、また再び九ヶ姫の教師たちから八十一高校の学園祭に行くことを禁止されるだろう。
高等部在学中に来るチャンスは、今、今日だけかもしれない。
展示物も出展もやっていることも、すべてが九ヶ姫はおろか、そこらの学園祭とは種類が違う。あるいは良くも悪くも格が違う。
先ほど覗いた「明石焼きカフェ」も想像を絶する混雑ぶりで、しかもテーブルで食べた客がテイクアウトも頼むというとんでもない売れ方をしていた。パンフレットを見る限り、食べ物関係の出展は少なくないはずなのだが。どう見てもあそこの売れ方は異常だった。
「……はあ……はあ……」
横切った人物が気になり、見えない背中を追ったまま固まっていた諫早の前に、へろへろになった少女が立ち止まる。他人同士なのだが一人じゃなくなったのを見て臆したのか、諫早に声をかけようと近づいていた男が自然にフェードアウトしていった。
息が上がっているところを見るに、少女は走ってきたのだろう。
この混雑ではまともに走れるとも思えないが――と考えたところで、ついさっき走り抜けた人物は結構な速度を出していたのだな、と気づく。だったらやはり心当たりのクラスメイトかもしれない。彼女は陸上部だから。
「…………」
少女と目が合った。
流れが途切れない廊下で、諫早だけ立ち止まっていたからだ。
「今こっちにあなたと同じ制服の子が来なかった?」
「向こうに」
予想できた質問である。諫早は冷静に人込みの先を指差す。
「……はぁ……速すぎるって……」
彼女が溜息をついてぼやく。もはや追いかける気力がなくなったのだろう。
「彼女に何か?」
先程の人物は、九ヶ姫の制服を着ていた。そして見間違いじゃなければ諫早のクラスメイトである。落し物なりなんなりだったら、どうにか連絡はつけられるかもしれない。
というか、この状況で「走る」という選択を選ぶこと自体、ただ事じゃない。九ヶ姫の生徒なら特にだ。
「もしかして知り合いだったりするの?」
「見間違いじゃなければ」
諫早の答えに、少女はしばし思案し――
「マヒロって名前に心当たりは?」
「天塩川万尋?」
ならば面識はないが最近よく聞いた名前である。
「陸上部の?」
「ええ」
「さっき見た知り合いも陸上部?」
「そう。短距離だったと思うけれど」
少女は「それだ」と指を鳴らした。
「だったら知り合いだと思う。連絡取れる?」
「取れなくはないけれど、用件を聞いてからじゃないと紹介できません」
この少女が誰なのかわからない。わからない以上はそう簡単に連絡は取れない。
目の前の少女があやしいとは思わないが、クラスメイト(恐らくの逃げっぷりを鑑みるに、何もなかったはずがない。少女が追いかけている理由も含めて。
諫早のもっともな言葉に、少女は困ったように眉を寄せた。
「……なんて説明すればいいのかわからないのよね。ただ、何か誤解されたみたいで」
「誤解?」
「ちょっと時間ある?」という言葉に連れられ、諫早は少女の先導で来た道を戻った。
「こっち」
正確には、隣のクラスだったが。
「明石焼きカフェ」を開催中の一年B組の隣。一年C組はなんの出展もしていないので、今日はB組の荷物置き場として利用されていた。もちろん無人である。
ドア一つ隔てた喧騒のない空間に入り、少女はその辺にあったダンボールからペットボトルの緑茶を出して、諫早に差し出す。
「おごり。時間を取らせてるから」
知らない人におごってもらうわけにはいかない。しかし諫早は少し迷って、結局受け取ることにした。その方が少女の気が楽になるだろうと思ったからだ。厄介事……かどうかは知らないが、少なくとも現在進行形で時間を取らせているから。
諫早は手近な椅子を借りて座り、少女は机に座って高い目線で向き合う。
「単刀直入に言うわね」
「はい」
そして少女は、恐るべき事実を口にした。
「私、男なんだけど。私と一緒にいるところを見られて友達が殴られて」
「……」
諫早清水の頭の回転はそこそこ良い。
だがその頭を持ってしても、あまりにも予想外すぎる切り口斬新な単刀直入を、さっぱり理解できなかった。
「待って」
諫早はメガネを押し上げ、じっと少女を――いや少年を見る。
「あなたは男なの?」
「心は女よ」
なんか知らないが、少年は憮然と応えた。
「……実は、さっきからちょっと気になっていたの」
「何が?」
「あなたの声」
諫早は前に、この少年の声を聞いている、気がする。
そう考えると、なにかしら顔も見た覚えがあるような気もする。
「私もよ」
「…?」
かすかに首を傾げる諫早を、少年はじっと見詰める。
「あなたの顔、っていうかそのメガネ、見たことある。夏祭りで」
夏祭り。
そのキーワードが頭に入った途端、引っかかっていた記憶の引き出しが綺麗に開いた。
「ピンクの浴衣」
「そういうあなたは、あの女の隣にいたわね」
夏祭り――というより肝試しだろうか。まあどちらも暗がりでの対面だったので、顔よりも浴衣や声の方が印象深かった。逆に諫早の場合はやはりメガネが記憶に残ったのだろう。
「あの女って、月山凛?」
「あの女の話はいい」
あの時……月山凛が柳蒼次に浴衣姿を見せた時、確かにピンクの浴衣のこの少年がいた。そしてえらい表情で月山凛を睨んでいたことを思い出した。
夏祭りのことはもう言わないでおこうと決めた。
あの時の彼の顔を見れば、気持ちなんて丸わかりだ。
「確かシミズさん……だった?」
「――ええ、まあ」
本名は、諫早清水。
しかし、友人が「読めないからシミズちゃんで」と言い出し定着してしまったので、もう面倒だから訂正しないことにしている。