186.十月二日 日曜日 学園祭 幕ノ一 午前八時五十五分
午前八時五十五分。
開場間近のこの時間、新クラブハウス前には「八十一魂」を背負う者と、その仲間たちが集っていた。
腕を組み、堂々と地を踏みしめている尾道一真を前に、四人の男が後ろ手に手を組み立つ。
北見幸夫。
そして守山悠介、敦賀鉄二、大野新太郎の五名。
八十一高校応援団の面々である。
「――以上が注意事項だ。まあ去年と一緒だな」
これから始まる学園祭を前に、改めて、団長である尾道から毎年恒例となっている例のアレの説明があった。
「改めて」なんて必要はないほど面々の意気は高く強い。
清濁併せ呑む覚悟を決めているのは、その目、その面構えに現れていた。
にも関わらずあえて頭を使わせるのは、「ただ暴れればいい」なんて単純な話ではないからだ。
熱くなるのはいい。
だが冷静さを欠けば、それはもう団員失格だ。
八十一高校応援団はそこらの不良とは絶対に違う――一皮剥けば似たようなものかもしれないが、「違う」と言い切れる自分たちでなければ意味がない。
それが長い歴史を生き抜いてきた応援団が、揺るがぬまま持ち続けている信念である。
「大野、おまえも去年見てるよな。あれ以上の特別なことは何もないからよ」
「押忍」
大野新太郎は一年生である。去年の学園祭には来場客として参加していた。――そして当然のように敗北した。
「それより団長、姉川は?」
「もうすぐ来る」
大野と同じく一年生、サボりが多くあまり高校にいない姉川九。彼の存在は、大野の中では決して小さくない。――中学時代から続く因縁もある。
「こんな日にも遅刻とは笑わせやがる」
尾道は笑う。
いつも通り。
いつも通り、今日だけ特別に気合の入り方が違う、なんてことはなく。
いつも通り気合が入っている。
この一大イベントにもいつも通り臨もうというこの存在こそ、正しく応援団団長である。
「最後に、五条坂からいつもの注文が入ってる。面白そうな奴は、」
尾道一真の声を遮るように、学校のチャイムが鳴った。
放送部が学園祭開会を宣言すると、まだ大人しかった学び舎に血が通い出す。
血は巡り、熱くたぎり、脈動し、ついに八十一高校という巨大な生き物が暴れ出す。
遠くから聞こえ、徐々に近付いてくる愚者どもの声を聞きながら、尾道一真は最後の命を下す。
「――面白そうな奴は、潰せ」
ここに、八十一高等学校喧嘩祭りが始まった。
応援団の出し物は「タイマン勝負」――という通称だが、正確には「気迫併せ」という代々伝わる由緒正しき名前がある。
気迫併せ。
要するに、参加者に八十一高校応援団の気合と気迫を見せ付ける、というものだ。
本来は、昭和時代の気合の入った不良や他校の応援団等相手に己が男を見せ合う、という非常に男臭い意味と由来があるのだが、さすがに平成二十年を回る今には、相手にまで何かを追求できない。
内容的には参加者に一方的に殴られ蹴られる、という過激な一面のみが広まっていて、応援団も基本的にはそのスタンスに合わせるのだが……
だがこれは喧嘩祭りの出展だ。当然裏メニューが存在する。
参加者の希望があれば、本当の一対一ができる。
公で、ギャラリーに囲まれている状況で殴り合いができて、堂々と己を誇示することができる。
そこらの喧嘩自慢どもがこのチャンス、この舞台を見逃すわけがない。
――と、昭和から代々伝わっている「気迫併せ」は、現代にはそのように姿形を変えて現存している。
八十一高校応援団と言えば、何よりまず挙げられるのが、喧嘩が強いこと。
伊達に古ぼけた学ランを背負いドカンで決めた無闇やたらに有名なわけじゃない。
今時流行らない古いタイプの不良たちがどうして今も生きているのか――
その答えは、今ここに証明される。
開場五分が過ぎる頃には、新クラブハウス前には大勢のヤンキーが詰め掛けていた。
ここらでヤンキーやるなら、八十一高校応援団は絶対に知っておきたい存在なのである。
何せ「最強と言えば八十一高校応援団」という方程式が成り立つほど、この時代遅れの学ランどもは強い。
逆に言えば、こいつらを倒せれば最強になれる。
そんな野心旺盛な連中が挑戦し、また最強の名を奪う者を見届けたいと、ちょっとアウトローよりな連中や格闘技好きがここに集まる。
――まあ、今年は若干、客層がちょっとだけ違うのだが。
「尾道」
たとえ囲まれていようと対戦相手がまだ名乗り出ず、立ったまま待機している応援団……の、一際目立つ白い奴の前に、数名の女子が歩み出た。
その先頭に立っている、ヤンキーどもが少々色めき立つほどの美貌を持つ女子を見て。
――尾道一真の顔色が、露骨に変わった。
誰でもまとめて掛かってこいや、くらい言いそうなほど勝気に笑って立っていた尾道一真の顔が、思いっきり渋面に染まった。
「てめえ……来んなっつっただろうが……」
かのお嬢様校として有名な九ヶ姫女学園の制服を着て、「風紀」の腕章を着けた女子――佐多岬華遠は、「心外だな」と笑った。
「兄弟子が会いに来たのにその顔か。私は悲しいぞ。あの頃は稽古をつけろ稽古をつけろと追い払っても付いてきたくせに」
「あの頃のかわいい尾道一真はどこへ行ったのやら」と、佐多岬華遠は嘆いてみせる。
明らかに楽しげに。
「……」
周囲には聞こえていない。
だが自分の後ろにいる団員たちには聞こえているだろうこの状況で、尾道は悟った。
この前久しぶりに会った時にも思った。
あの時はなんとか自分を誤魔化して済ませたが。
もう言い訳しない。
今こそ悟ったし認める。
ああ、自分はこの女には一生勝てないんだろうな、と。
「……頼むから今日は帰ってくれよ。道場にはちゃんと顔出すし、先生にも挨拶しに行くから」
尾道は昔、佐多岬流の武道場に通っていた。先生とは佐多岬華遠の父親である。
「そうしろ」
佐多岬の笑みが消え、いつもの威圧的で、だが誰の目をも釘付けにする日本刀のような危険な美しさに立ち戻る。
――今更なのでもう言うことはないが。
佐多岬は、尾道が道場通いを辞めた際、一言も自分に相談ないし挨拶がなかったことを、いまだに根に持っている。
同い年だが、尾道は自分にとって初めての弟弟子で、基本から教えたのも自分で、道場内で一番かわいがっていたのも自分だと自負していたからだ。
自分はかわいがっていたつもりだったが、尾道一真にとってはそうではなかった。
その事がどうにも腹に据えかねるのだが……まあ、本当に今更である。
「ところで尾道一真、この二人だが」
と、佐多岬は連れて来ていた女子二人に、前に出るよう指示する。
「おまえと戦わせたいんだが、構わないか?」
「参加すんのかよ……」
罰の悪い弟の顔をしていた尾道は、野性味溢れるいつもの鋭い眼光で女子二人を見据える。
「……もしかしておまえんとこの門下生か?」
「そうだ。強いぞ」
「だろうな」
一瞥しただけではわからないが、よく見ればわかる。気合や気迫といったものは感じられないが、何気に佇まいに隙がない。自然体でありながら周囲への警戒を怠っていないのだ。
結ぶには短い後ろ髪を無理やり結わえているのが笠岡楓。
同じくショートカットでビッチリ7・3に分けているのが兵庫泉。
どちらも佐多岬流の門下生で、佐多岬華遠の後輩だ。
「おまえんとこの、か……いいだろう。喧嘩祭りの口火を切るには申し分ない相手だ」
「ちょっと待てや!」
詳しい話は見えないが「参加する」という言葉に反応し、尖る声を発しギャラリーから四人の男が出てきた。
「尾道、てめえどういうつもりだ」
「あ? 何が?」
「なんで俺らの相手はしないでそんな女どもの相手はするんだって聞いてんだよ」
――団員はともかく、団長が直々に相手する者は限られている。要するに団員では勝てないかもしれないくらい強ければ相手をする、ということだ。
この尾道一真が相手をする。
それだけで、喧嘩自慢たちのある種のステータスになりうる。それくらい団長は強い。
応援団団長はいつの代も負けず劣らず強い者が務めるが、今年の団長・尾道一真は歴代でも特に強い。
かの八十一町が生んだ伝説の生き物・五条坂光と同じくらい強い、と言われるほどに。
「……」
尾道は四人の男たちをじっと見つめ、首を振った。
「おまえらの相手は団員で充分だ。なんなら四人まとめて相手してもいいぜ」
喧嘩自慢には屈辱の言葉である。
――あえて挑発するような言葉を含める。応援団は常に全方位に喧嘩を売っている。だからこの喧嘩祭りは盛り上がるのだ。
「ふむ……横槍が入ったか。仕方ない。我々はもう行く」
無粋な乱入者が登場し興が殺がれた……というより、風紀の仕事を思い出した佐多岬は、これ以上の長居は遠慮することにした。九ヶ姫生徒会長および八十一高生徒会長にも頼まれているのだ、こんなところで長々遊んでいていいはずがない。
ギャラリーを見てもわかる通り、客層は九ヶ姫の文化祭とは比べ物にならないほどバラエティに富んでいる。出番がない、ということはないだろう。
「え? マジで? 帰んのか?」
尾道の声は若干明るい。
「嬉しそうなところが癪に障るが、まあいいだろう。おまえの元気な顔も見たしな」
佐多岬がなぜ開場早々ここに来たのかと言えば、噂の「タイマン勝負」の現場を見ておきたかったのと。
かつての弟弟子の、気合の入った面構えを見たかったからだ。
無事息災か。
あの元気な頃と変わりはないか。
態度にも口にもまったく出さないのは、尾道一真をかつての弟弟子ではなく一端の男として扱っているからだ。
「……ああ、くそ。マジで悪かったよ。近々必ず挨拶に行くから」
単に冷やかしに来たわけではない。
ようやくかつての兄弟子のそんな本心に触れ、尾道一真は頭を掻いて悔いた。
道場を辞めて以来、まったく連絡を取らなかった。
こうして学園祭が合同で行われる奇跡のような流れにならなければ、再会はもっと遅れていただろう。案外このまま何十年も言葉を交わすことはなかったかもしれない。
「必ず来い。二度も兄弟子に足労させるなよ」
――厳密には二人はもう兄弟弟子という関係ではないが、どちらもあたりまえのように、それを否定しなかった。
それこそ、互いの本音の表れだった。
「よし。まず四人抜きだ」
快勝である。
というより、喧嘩にもなっていない。
お嬢様三人が去り、乱入してきた男たち四人を特別に相手した尾道一真は、電光石火の早業で早々に叩きのめした。
これぞ最強集団の頭、という文句の言い様もない圧勝である。
応援団で用意したボードに並ぶ団員の名前の隣に、大野が一画少ない「正」の字を誇らしげに書いた。