179.十月二日 日曜日 学園祭 十
嫌な汗を掻きつつも、ひとまず難局を乗り切ったことに安堵する。
レディース総長の旭さん、か……できれば二度と会いたくないものである。
でも僕は知っている。
彼女とは近々、もう一度会うことになるだろうということを。
この八十一高校に住まう絶望サマを、僕は決して軽視しない。
ええ、もう、物事の五割くらいは僕の希望を裏切り、四割くらいは予想を超えたとんでも展開に発展するのは知っていますとも。……僕の希望が純粋に通る率は、一割くらいと見ていますとも。
避けられない困難なんて、これまでたくさんあった。不条理にして理不尽であり理屈の通らない事件にも巻き込まれてきましたよ。
だが、避けられないまでも、軽減はできるのだ。
僕の場合は知恵も身体能力もあまり当てにならないので、主にコネ関係でどうにかこうにかするしかない。つまり誰かにどうにかしてもらったり、間に入ってもらって緩衝材代わりになってもらうわけだ。
他力本願もいいところだが、しかし僕も必死だ。自分の身を守ることに必死だ。身体と一緒にプライドまで守る方法なんて選んでいられない。
……とにかく、今は旭さんのことは置いておこう。
再び舞台裏に戻ると、いよいよお笑いフェスが佳境に入っているようで、僕を抜かした演劇班が円陣を組んでいた。
傍目に見ると、女装した男どもと女子が一人固まっているわけだ。
……結構すごい光景だな。冷静に見ると。
僕はタイムキーパーだ。音響や証明などの舞台装置も使うが、それは機器に詳しい外部の男子にすでに頼んでいるので僕が触れることはない。
円陣に混ぜてもらえないのは若干寂しくはあるものの、どうせ僕は舞台に立つ予定もないし、あえて今割り込む必要もないだろう。集中しているだろうからね。話しかけると邪魔だろうし。
小道具入れからもう使い慣れたストップウォッチを取り出し、台本は……ちょっと迷ったが、一応手に持つことにした。
ここまで来てセリフだのなんだの内容を確認することはないが、舞台の進行状況を見るための教科書のようなものだ。
玄人ぶっておいて失敗するのは絶対嫌なので、素人丸出しでもいいから万全を期そうと思う。
舞台で進行を勤めている上級生が「トリのソウルブラザーズに拍手をお願いしまーす!」と、お笑いフェス最後のコンビが終わったことを告げる。
笑い声が絶えなかった体育館は万雷の拍手に満たされ、フェス最高潮の盛り上がりを呈していた。
これからやる劇は全然固くない喜劇なので、シチュエーション的には悪くないと思う。
「――おいてめえ! オラァ!」
「――あぁ!? マジでやんのか!?」
見事に殿の大役を果たしてフェスを締めた……えっと、ソウルブラザーズ?の二人は、袖に引っ込むなり胸倉を掴み合うという……その……男の真の友情を育む行為をおっ始めやがった。素人ながらあれだけどっかんどっかん笑いを取った漫才を成功させておいて、更にコンビ仲を深めて高みを目指そうというのか。なんとソウルフルなコンビだろう。よく見たらさっき見かけた、ネタ合わせに余念のなかった先輩たちだ。さすが八十一校生と言わざるを得ない。
「表出ろや!」「出てやんよ!」と言いながら、二人は胸倉掴み合ったまま体育館を出て行った。
うん、楽しそうで何よりだ!
「――次は、第二演劇部による演劇『J・ドリーム』をお送りいたします」
恐らく九ヶ姫から手伝いが入っているのだろう、劇の進行及びナレーションは、姿なき女子がやってくれるようだ。
開幕の声が掛かると、今まで明るく光を入れていた体育館の窓という窓にカーテンが引かれる。舞台上が照明で映え目立つように。そしてこれも外部の生徒に頼んでいたらしく、僕らがいる舞台袖の対岸側から、この劇に最低限レベルで用意された書割が舞台に運び込まれた。
準備が整うまで、ほぼ五分。
それに併せて、先ほどまで爆笑していた体育館内にいるお客さんたちの騒ぎも次第に落ち着く。
こうなってくると、出番のない僕でも「いよいよか……」なんてつぶやいて緊張し始めたりしてしまう。
たった三十分の劇である。
元は数人だけでやるはずだった、小規模にして小道具さえ最低限にしか用意されていない劇だ。
稽古時間も短かったし、素人同然の飛び入りが入ったりして、観劇が趣味だったり見る目が肥えている人からすれば非常にチープな完成度なのだろう。
しかし、文句も言わず真剣に稽古をしていた皆を見ているだけに、やはり成功してほしいわけで。
円陣を組んでいる彼ら……僕よりはるかに緊張している人たちが、最後の声を掛けていた。
「じゃ、気楽に行こう!」
「「おう!」」
第二演劇部部長の声に、円陣を組んでいた皆が女装姿のまま雄雄しく吠えた。……天城山さんもなんか吠えていた。ふとあの美少女が八十一色に染まってないかどうか、染まらないまでも毒されていないかが気になった。杞憂であれ。
円陣から離れた皆は、それぞれに散っていく。
舞台の地下にある通路を通って対岸側の袖に移動する者。
すぐに出番があるので袖に控える者。
初っ端のセリフをぶつぶつつぶやく者。
そして、いざ始まるって直前まで部員やONEの人の肩に触れ、「失敗してもいいから。楽にね」と声を掛ける部長。
僕は彼の姿に感動した。
ここまで来ると各々自分のことしか考えられない、己しか見えないだろうこの状況で、まだ人に気を遣えるこの人は、なかなかすごい人だと思った。
「一之瀬君も。いつも通りね」
「はい」
女装姿は正直微妙としか言えないが、一部長として今の彼は眩しかった。
この第二演劇部+ONEの会が舞うことになる『J・ドリーム』なる劇は、出落ちから始まる。
『――その女は『ブロンド髪で長身でヘビー級の女ジェーン』、巷で一番の美女である――』
ナレーションの声に併せて、ついに巷で一番の美女設定である八十一町の伝説が、舞台に躍り出た。
僕らに……いや、部長にさえあったはずの余裕が消し飛んだのは、その時点までだった。
開幕から十分後、とんでもないことになっていた。
舞台上でも舞台袖でも、必要以上に演者がバタバタしていて、足を踏んだの転んだの書割にけっつまずくだの、セリフを噛むなんて当然のようで、最悪セリフは飛ぶわ……「もうダメだー!!」と叫び出したいくらい大変な大混乱に陥っていた。
出落ちで完全に殺してしまったのだ。
客を。
そして演者までもを。
スポットライトをまとった伝説・五条坂光が舞台に立った時、体育館は笑いと悲鳴と怒号と、喜びと悲しみと、なぜだかほんの少しのせつなさで満たされてしまった。
これ以上何も入らない、というくらいに、満たされてしまった。
さっきのお笑いフェスのトリを飾ったソウルブラザーズ?に送られた笑いと拍手がピークだと思ったのに、一瞬にして、軽々それを超えてしまった。
いろんなものが鳴り止まないので劇はストップ。
その間、優に五分はあった。
だがさすがの五条坂光、客が黙るまで阿鼻叫喚をイメージしているとしか思えない超セクシーポーズで固まり、スポットライトを浴びたまま待ち続けるというプロフェッショナル極まりないアドリブを見せ付けた。
動揺を微塵も見せない堂々たる姿ッ……!
格好と嗜好……いや、生まれた性さえ間違えていなければ、今舞台で輝く彼は、きっとギリシア神話に語られ奉られた神像と見まごうばかりの雄大さ、そして優美さであったに違いない……ッ!
身体も大きいが器も大きすぎる伝説の生き物は、見た者すべてを(ある意味)魅了し、正常な判断と思考を奪い去っていた。
浮き足立つ演者はミスを連発する。
あれだけ稽古したのに、何一つ噛み合わない。
もう演じているんだかなんなんだか……ただ言えることは、今この時、五条坂光がこの空間を支配しているってことだ。
だが幸いなことに、ミスはだいたい好意的に受け止められているようで、挙動不審極まりない彼らの言動は、いちいち客を笑わせることには成功していた。
……いや、成功っていうか……まあちょっと複雑な気はするけれども。
一応笑いを狙っている喜劇なので、笑ってもらえるなら、この劇はこれ以上ないほどの大成功と言えるのだろう。
一つのミスがミスを誘発し、連鎖的にミスを繰り返しているこの始末。
……僕ら側の演者からしても、もう笑うしかないからね。笑えるくらい何も手につかなくなってるからね。
だが稽古の甲斐もあり、二十五分を過ぎた頃には、皆そこそこ冷静さを取り戻していた。
致命的とも言えるほどのミスも多々あったし、正直ぐだぐだの極みのような進行をしてしまったので、どれだけの人が劇の内容を正確に追えているかはわからない。
が、一応はクライマックスに向けて物語は動いていた。
時間はだいぶ押していて、このままじゃ完全に間に合わないが……この後問題なくスマートに進んでも五分以上は確実にオーバーしそうだ。でもここまで来てしまえばどうすることもできない。
きっと時間は押す。
中断することはたぶんないだろうから、僕らはこの後に控えている正式な演劇部に平謝りすることになるだろう。
もう時間を追う必要はないか。
そう判断し、そっとストップウォッチを置いた。
――劇の行く末を袖で見守る僕の背後に、憎き彼奴らめが近付いていたことに気づくのは、このあとすぐである。
とびっきりの絶望の前奏曲は、まさにここから始まっていたのだった。