175.十月二日 日曜日 学園祭 六
突然の暴挙とか痛みとか、そんなものより、ただその一つにしか感心が向かなかった。
キーンと鳴っている耳でも、絶対に忘れられないその名前を聞き逃さなかった。
万尋先輩。
天塩川万尋。
八月末の夏祭りから、意識して考えないようにしていた人の名前。
無理やりに蓋をしていた記憶の底から、彼女と、彼女周辺の記憶が溢れてくる。
その中に、目の前ですげー怒っている彼女のこともあった。
今僕を殴ったこの人は、石川さんだ。
九ヶ姫女学園陸上部の一年生で、天城山さんと同じく男が苦手という話だったかな。
僕が九ヶ姫女学園に単身乗り込んだあの日に会っているが、それでも、彼女の印象はすごく薄かった。会った回数もほんの数回程度なので、言ってしまえば「お互い顔見知りにもなっていない。ただ知っている」くらいの認知度だと思う。だからパッと見では誰なのかわからなかった。
おまけに今はすげー怒ってるしね。
元が大人しそうで気弱そうな顔しか知らなかったので、今は結構怖い。
間が痛い。
まだほんの数秒のことだが、周囲の人たちの「何事か」という視線も痛いし、特に眼前で階段の上から見下ろしている石川さんの目が痛かった。
明らかに批難し、侮蔑している。
正直、こんな顔されるほど僕が何かしでかした、という記憶がないのだが……
でも、たぶん、なんか理不尽な気もするが、今この場を進められるのは僕だけの気がするので、何とか今この場で適切な言葉を発する必要がある……気がする。
「手塩川さんが、なんだって?」
殴られたことより、石川さんが怒っていることより、何よりも彼女のことが気になった。
石川さんを怒らせるようなすごいことが天塩川さんにあったのか? それを僕が引き起こしたのか?
彼女に対する心の問題にはもう決着をつけているが、決着がついているからどうでもいい、なんて言えない。放っておけないこの気持ちは、たぶん未練とかではない、と思うけど……でも案外突き詰めればただの未練なのかもしれない。
まあ、どっちにしろ、天塩川さんが困っているなら、なんとかしたいとは思うが。
しかし石川さんからはなんの返答もなく。
というか。
この場で考えられる、最悪の反応を示した。
「えっ……」
怒っている顔のまま、ぶわっと涙を浮かべ、流し始めたのだ。
お、おいおい……泣きたいのは僕の方だぞ!
状況はわからないし、顔痛いし、周りの視線も痛いし、顔痛いし、マコちゃん階段落ち未遂事件の直後だからさっきから心も動揺しっぱなしだし! 顔痛いし!
そして明らかに、周囲の視線が「あの野郎女泣かせやがって」という、事情はわからんがおまえが悪いことだけはわかった、みたいな早まった確信を持ったのがわかる。だって全身に向けられる視線がより痛……おい白糸君! 君までなんて顔してるよ! さっきまで仲良く明石焼き食ってただろうが!
「ちょっ――ええっ!?」
とりあえず場所を移してゆっくり話をしよう、みたいなことを言おうとした瞬間、石川さんは駆け出した。階段は降りず一年B組方面へと走り去った。
や、やりっぱなしで逃亡だと……なんというえげつない罠だ! これが俗に言うハニートラップってやつ!?
「ちょっと待って! 待っ……ああっ!」
石川さんを追って走り出そうとした僕は、見事に段にけっつまずいて膝をついた。
周りの失笑がほんと痛いんだけど! つかこれ……えっ!? まさかさっきの平手で足に来てるのか!? そんなに綺麗にジャストミートしたのか!? いやまあ、痛みが全然引かないところからして力いっぱい殴られたのはわかるけど!
「なんかよくわかんないけど任せて!」
事情は本当にわからないのだろうが、なんとなく自分のせいでこうなった、みたいなことだけはわかったのか、マコちゃんが石川さんを追って行った。
おお、なんと頼もしき友よ。
でも……たぶん君じゃダメだ。
だって君、運動音痴じゃん。
石川さんは女子とはいえ、陸上部短距離専門だぞ。
「おーい! 何の騒ぎでござるかー!?」
おお忍者。騒ぎを聞きつけて富士君二度目の登場である。
とにかく視線が痛かったので、とりあえず一年B組まで一時避難することにした。
「わからない」
何事かと問われても、「わからない」としか言えなかった。
教室はやはり満杯なので入れず、教室前の廊下で行列にまぎれるようにして陣取る。さっきの現場からはそう遠くはないが、少し離れるだけでもだいぶ違った。
短い別れだった小田君と富士君、そして白糸君に状況説明を求められたが、僕にも何がなんだかさっぱりだ。明確にわかっているのは顔が痛いという事実だけだ。
「わかんねえってこたねえだろ。九ヶ姫の女が殴るなんてよっぽどじゃねえか」
うん、僕も小田君の意見に賛成だ。
「でも本当に心当たりがないんだよ」
だから困っているのだ。
「そもそも僕は、女子に殴られるほど大したことはしてないよ」
「ほんとかよ」
「こっそりスカートの中を撮影していたのがバレたのではござらんか? 一之瀬氏のエリートっぷりは郡を抜いているでござるからな」
「おいヘンタイ忍者、言っていいことと悪いことがあるぞ」
「いや富士の意見に賛成だデジカメ出せ」と断固言い切った小田君には、ボディブローを見舞っておいた。いくら荒んだ男子校だからって言っていいことと悪いことがあるんだぞ! 白糸君が微妙に信じかけてるんだからやめろ! 冗談になってない! あとエリートじゃないしね!
「げほっ……心当たりはないのか?」
全然、と首を振る僕の隣で、白糸君が「そう言えば」と口を開く。
「あの子、マヒロ先輩に告白したのに、って言ってたよ」
マヒロ……万尋先輩に告白したのに?
僕は名前だけに過剰反応して、言葉そのものはまったく耳に入っていなかった。殴られた直後だったからちょっと耳もキーンとしてたしね。そうか、そんなこと言ってたのか。
「ならば王道でござるな」
忍者富士が大業な仕草で腕を組む。
「よくある少女マンガや小説、ギャルゲーでお馴染みのフラグ……大方マコちゃん氏を女子と見間違えた相手が、なんやかんやであーだこーだという誤解フラグをおっ立てたのではござらぬか?」
誤解フラグ?
…………
あーっ! そ、そうか!
「僕あの時、マコちゃんの手握ってた!」
「何本気でデートしてんだよ。祝福すんぞ」
「違うっつーの! マコちゃんが階段から落ちかけたんだよ!」
あの時の僕は動揺しすぎて何がなんだかわからなかったが、そう考えると、石川さんのセリフの辻褄が合う気がする。
たぶん、一つだけ、双方に思い違いがあったからではないだろうか。
たとえば、こんな感じだ。
僕はもう天塩川さんのことは決着がついているが、天塩川さんはまだ決着がついていないと思っているから。
いや、ありえるのだ。
だって僕は告白する前に状況証拠で彼女の返答がわかっていたが、天塩川さんは「自分はまだ返事をしていない」と思っていても不思議じゃない。だって人伝で貰ったお礼のお礼にわざわざ会いに来た彼女である。何事にも律儀に接することは容易に想像がつく。
というか僕の方が問題だろう。
いざ告白しておいてあと放置とか、どんなプレイだ。
連絡手段が確立されているならまだしも、天塩川さんから僕、僕から天塩川さんへと、個人的に連絡を取り合う方法はないのだ。
もしかしら、僕が告白したせいで、天塩川さんは悶々とした一ヶ月を過ごしたかもしれない。
自惚れるつもりはない、天塩川さんが気持ちを汲んでくれたら自然とそうなるという話だ。
散々待たせて焦らしていざ学園祭で探して会ってみれば、男は知らない女の子 (マコちゃん)と手を繋いでイチャイチャ(してるように見えたかも)していた。天塩川さんとの事情を知っていて、思い悩んでいたことまで知っていたなら、かなりムカつくだろう。
おまえは天塩川さんに告白したくせに放置してその間に女の子と遊んで何がしたいんだ、と言いたくもなるだろう。二股かけるつもりだったのかと疑いたくもなるだろう。
全ては悲しい事故と言わざるを得ない……
というか、マコちゃんとのイチャイチャ(してるように見えたかも)で起こった事故、というより、やっぱり僕のせいだ。
いくら答えはわかりきっていても、告白してそのまま放置してはいけなかったのだ。
ボールを投げた僕は、天塩川さんの返球をちゃんと受け止めなければならない。
僕の中ではもう気持ちに整理はついているが、天塩川さんの手には、まだ僕が無責任に投げてしまったボールが残っているのだから。
状況に察しはついた。
当たっているかどうかはわからないが、とにかく天塩川さんには会わなければならないだろう。そして直でフラれなければいけないということだな。
今日来てるのかな?
……前原先輩から桜井経由で探すべきだろうな。
――ちなみにこの時、天塩川さんは我ら一年B組の教室で、友達とたこ焼きを食べていたりするのだが。
もちろん僕が知るはずのない情報である。