173.十月二日 日曜日 学園祭 四
油断していた。
本当に油断していた。
でもまあ、いいか!
――本当の油断とは、気軽にOKしたその判断自体であることを、僕は思い知ることになる。
こんな日だからいいのではなく、こんな日だからこそ油断するべきではなかったのだ。
「お待たせ」
「汗を掻いたから着替えてくる」と部室に消えたマコちゃんが、いつも着替えは長い彼にしては早めに出てきた。
女装して。
桜色の薄手のボーダーシャツに、淡いブルーのミニスカートである。
つまり生足である。
「……油断した」
白糸君に、我ら一年B組のたこ焼き・明石焼きがいかにブレイクの兆しがあるかを熱く語っていた僕は、マコちゃんの女装を阻止できなかった。
こんな日こそ、マコちゃんがこういうことをしでかす奴だと知っていたのに。
「うわあ……どうしたの」
まだ見慣れていないのだろう白糸君は、若干引き気味だ。
マコちゃんは教室でもたまに女装姿で過ごしているので、B組はそれなりに見慣れているが……まあ、これが普通の人の正常な反応なんじゃないかと思う。
僕だって最初に見た時は、それはそれは驚いたからね! スカートから伸びる生足の女子っぽさに! ぜひ黒タイツを穿いてほしいね!
「かわいいでしょ?」
うわ、ウインクした! いつの間にかそんな小技まで憶えてきやがって……ああ、確かにかわいいよ。もう見た目は女の子にしか見えないからね。でもなんかウザいよ!
「……一之瀬君」
……あれ? なんか白糸君の視線がすごく痛い……あ、あれ!? まさか!?
「ちょっと待って! その顔もしかして『君ほんとに男好きだったんだね』って疑惑が確信に変わって軽蔑してる感じの顔!?」
「軽蔑はしてないよ」
「でも他は否定しないんだね!」
あ、なるほど、正確には「おまえヤバイわ近くに寄るな」ってことね。
あーなるほど。
なるほどなー。
「冗談じゃない! 冗談でもやめてくれ!」
かのC組のアイドル・島牧翔ことしーちゃんとの疑惑がまだまだ根強く残っているのであろうC組では、僕がアッチ系だという笑って済ませられない話がまことしやかに囁かれているに違いない。
だから。
だから僕はONEの人たちとの関係もあり、この坂出誠男子とも仲が良いと。
そしてあの、夏休みのレジェンドも、もしかしたら白糸君は知っているのかもしれない……例の「遊戯○」のレジェンドも。
ここまで疑惑が揃えば、それはそれは限りなく状況証拠だけで真っ黒に見えてしまうのだろう。
僕だってイヤだわ。
ここまでクロい噂持ってる奴に近づくの。
貞操が怖いわ。
「そうよ。冗談じゃないのよ、一之瀬くんは私に本気なんだから。……まあ私はその気持ちには答えられないけれど。ごめんなさい」
「おい」
もう色々どうでもよくなってきたけど、せめて告白してないのにフるのはやめてくれ。
「君は島牧君のことをどう思ってるんだ。遊びなのか?」
「言葉がおかしいだろ! 冷静になれ白糸君! ――ああもういい! 時間がもったいないからあとでちゃんと話そう!」
休憩は一時間しかないのに、すでに十五分が過ぎていた。説明していると……というかしれっと掻き乱す者がいる時点で説得力が激減するので、白糸君にはマコちゃんがいない時に話した方がいいだろう。
「え? でも……二人きりの方がいいんじゃない?」
「もう気遣いがうるせーよ! 早く来い!」
「手繋いであげよっか?」
「うるせーよ生足! ……つか君らわかってて遊んでない!?」
……休憩時間に疲れるわ! ツッコミ疲れるわ!
校舎に入ると、怒りの感情が吹き飛んだ。
「うわ、すごいね」
うん、すごい。
客入りは上々だと察していたが、実際に見るともっとすごい。
まるで昼時の八十一新アーケード街のような人の多さ……とは言い過ぎだが、廊下が狭く感じるくらいには一般客が入っていた。
生徒の身内か商店街の住人らしきおっちゃんおばちゃん、若い兄ちゃん姉ちゃんは他校の生徒か大学生だろうか。ヤンキーっぽいのも……まあいなくはないな。でもこの分じゃ人が多すぎて何かしでかせる雰囲気ではないと思う。
あとやはり目立つのは、九ヶ姫の生徒か。彼女らは制服で来ているから。
いつも外れる食堂へ向かう渡り廊下から校舎に入り、喧騒に揉まれるように人込みを避けながら歩く。これじゃ話しながら歩くなんてことはできないので、僕が先頭になって縦に並んで移動する。
とりあえず、目的地は当初の予定通り、一年B組の「明石焼きカフェ」でいいだろう。
「ぎゃーいててててて! もうやっちゃって! もういっそやっちゃって!!」
Oh……「素人にもよくわかる素人のためのリアクション教室」の出し物だろうか? 窓を隔てた中庭のすぐそこで、顔中洗濯バサミを付けられ、一般客の子供に引っ張られて悲鳴を上げている男子がすでに半泣きだ。
ああ、八十一高校の学園祭って感じだ。
ほんとに、すごく、八十一高校らしいことやってるよな。
でもそれでいいんだよな。
僕らに気取った出し物なんて似合わないもんな。
見物しているお客さんたちは爆笑しているし、……僕は「リアクションすげー上手いな。あれは何度も練習したんだろうな」と、演者側の技術と苦労に想いを馳せたが。……フッ。僕もしょせん八十一高生ってことか。
しかしこのリアクション、やられている方が注目されるのは当然だが、引っ張る方もそれなりの技術がいる。
決してリアクションを食うことなく、絶妙なる力加減で、洗濯バサミ付けまくりの変形する顔と悲鳴で笑いを誘う……目立たぬよう、しかし手を抜くことなく影に徹するその技術が問われるのだ。
さてどんな奴がリアクションを引き出しているのかと、ふと視線を移し――えっ!?
「マ、マイキー!?」
洗濯バサミのついた紐を嬉々として引っ張ったり緩めたりして弄んでいる子供は、誰あろう八十一商店街の有名人、金髪碧眼の子供モデル・異国の少年マイキーことマイク・ジョンストン君だった。
……末恐ろしい子供だ。あの歳であの高度な技術を有するだと……?
引っ張るだけで喜ぶようならただの子供だが、あの子は色々わかってて弄んでやがる……
やっぱりお父さんお母さんは大変だろうな、と思いつつ、僕らは階段を登った。
一年B組は……えらいことになっていた。
「ここもすごいね」
うん、すごい。
我らが一年B組は、ブレイクの兆しどころか、早くも教室から客が溢れていた。そして十数名ほどの行列ができていた。
さすがはグルメボス監修の食物といったところか。あとは単純に人が多いからだろうけど。
「たこ焼き・明石焼きをご購入の方は食券を買ってくださーい」
並んでいるお客さんたちに食券を売り歩いているのは、ウェイター班に回されていたイケメングループのピアスつけすぎ小田君だ。……やっぱ耳重そうだなー。
「小田君」
声を掛けてみると、……うわっ、営業スマイルが素の顔になった。
「なんだおまえらデートかよ。遊んでないで手伝えよ」
デートじゃないし、手伝いもしません。つかデートってマコちゃんとかよ。イヤだよ。つか普通に何の疑問もなくデートって言葉使うなよ。
「十二時まで休憩だから、様子を見に来たんだよ。手伝う時間はなさそう」
「マジかよ。こっちは朝から休みなしでこの調子だぜ? ったくよー」
でも不満は多そうだが、それでも真面目に働いていると。……小田君のことだから客で来る女子を品定めとかもしているのだろう。
「ま、十一時半で交代だけどな」
そうか、一応シフトも作ってあるのか。……あ、そうだ。
「せっかくだし写真撮ろうか?」
「あ?」
僕が鳥羽君から借りたデジカメを出して見せると、小田君は笑った。
「おー撮れ撮れ! すみませーん! 写真撮るのでよかったら入ってくださーい!」
小田君は並んでいるお客さんに(主に女子に顔を向けて)呼びかけ、突発的な記念撮影が始まった。うーん……この砕けた態度がモテる秘訣だろうか。
マコちゃんと白糸君も混じって、数枚撮ってすぐに終わったが……やっぱりカメラっていいなと思った。
これから何年も経ったいつか、未来の僕がこの写真を見たら、きっと今日のことを思い出すのだろう。
そう思ったら、女の子だけに限らず、いろんなものを撮りたくなった。