170.十月二日 日曜日 学園祭 一
頬を撫でる空気は、やや冷たい。
だが今日も晴天を約束しているかのような青空は、きっと太陽の暖かさを遮ることなく八十一町に伝えてくれるだろう。
ドン、ドン、と朝早くから花火の音が空を震わせる。
方向からして商店街の向こう――八十一高校からである。
僕とそいつは、彼方に上がった煙を見ていた。
その煙は、風に流され、あっという間に見えなくなった。
「……というわけで、今日はやめとく」
まだ早朝である。時間にして六時半くらいかな?
もう早起きが習慣になっている僕は、今日も習慣でランニングに出ていた。
そして今朝、久しぶりに、この因縁の陰険女・赤ジャージと遭遇していた。
本当に久しぶりの遭遇だった。遠くに見えたり、知らない間に後ろを走っていたりと、存在は確認していたがなかなか競争する機会がなかったのだ。
まあ、思いっきり昨日会ってるけどね。「食い逃げ」で。
その上、来週は敗北者として一緒に強制労働するはめになっていたりするが……まあ、それは今はいい。
今日はきっと長丁場になる。
だから、できるだけ体力は温存しておきたい。朝一に完全燃焼なんてしていたら、絶対に今日が乗り越えられない。
習慣になっているから一応走りに出てはみたが、本当に軽く流す程度で済ませるつもりだった。
いつもの八十一大河添いを行くコースを走り、ふと後ろを見たらこいつが追いかけてきていたから、立ち止まって待っていた。
これまで、ここまで露骨に待つことなんてなかったので違和感があったのだろう。いつにない行動を取った僕を見て、奴も僕の前で立ち止まった。
もう朝も夜も決して暑くはない。なのに、奴の額には輝くような水滴が浮かんでいた。恐らく僕よりスタート地点が遠いのだろう。どの辺から走ってきているのかな? ……まあこいつに関してはあんまり興味はないが。
ほんの数秒ほど、なんとも言いかねる微妙な顔で見詰め合っていると――遠くに花火が上がった。
追いかけるように、僕らはそれを見上げた。
――そういう理由で走らない、と言った僕の言葉に納得したのか、奴は「フン」と鼻で笑って走り出す。
が。
「ちょっと待て」
呼び止めると、「なんだこの野郎やんのかっつーか気安く声かけんじゃねえ」くらいの憎たらしい顔で振り向いてくれた。
うん、やっぱりこいつムカつく。
でもここでケンカを始めてもしょうがないので、もしかしたら、万が一こいつに会えたら、と思って持ってきていたそれをポケットから取り出す。
「これ、山羊さんに。遊びに来るって言ってたから」
僕が出したのは小さな紙切れ――一年B組の食券二枚だ。
財布の中に入れてたから昨日会えた時に渡してもよかったんだけど、なんだかそういう間がなかったんだよね。山羊さん余裕で逃げ切っちゃったし。終わったあとは某美少女の残念っぷりで、そういう雰囲気じゃなかったし。
女子を呼ぶのが僕の目的だ。
ゆえに、女子にはこういうものを配って簡単な呼び込みをしているのだ。もちろんあの女子大生たちや某バイト先の人たちにも渡してあるぞ! 抜かりなく! ……え? 男? 男はもう毎日見飽きてるので来なくていいです。どうせ呼ばなくても来るだろうし。
会えないなら会えないでいっかー、とも思っていたが、こうして会えたので一応渡しておこうと思った次第だ。
そして僕は、これも一応、知っているだろうけど言っておいた。
「今日、八十一高校の学園祭だから」
十月二日、日曜日。快晴。
すっかり秋の色に染まった休日の八十一町を、八十一高校の生徒が足早に進んでいく。
日曜日なだけに、いつもは見かける出勤途中のサラリーマンやOL、他校の中高生の姿はない。
変わらないのは僕ら八十一高生と、店先を掃除している商店街のおっちゃんおばちゃんくらいである。
いつもより若干早い時間で、八十一高生の半数くらいが手ぶらだったりする。
そう、今日必要なものは、だいたい学校に準備して置いてある。あとは己の身体があればいいのだ。
「ひぃぃぃぃ、ひぃぃぃぃぃ」
むっ!? 妖気!?
――なわけないが、既視感のある怪しげな声を聞きつけ僕は振り返った。
「おぉぉっすいちのせー! またあとでなぁー!」
ばたばたと不恰好に走り来て、僕の真横をばたばたと通り過ぎていったのは、夏休みを経て一層黒光りする肌が眩しかったが、最近になってちょっと白くなってきた気もする同じクラスの大喜多君だった。
察するに、どうやら柔道部の出し物関係で急いでいるのだろう。たすき掛けにしているスポーツバッグには柔道着が入っているに違いない。いつもなら余裕で間に合う時間だが、今日はいつもより早い登校だからね。
つか前もこんなことあったな、確か。うーん……あの時も思った気がするが、大喜多君は見た目によらず、意外と真面目なんだよね。
大急ぎで掛けていく彼を見て、なんとなく時間を確認し、少しだけ僕も早足になった。
いつもより圧倒的に人通りが少ない八十一商店街を突っ切り、角のパン屋から漂う焼きたてのパンの匂いに視線を奪われつつ、交差点を渡って八十一第二公園を横目に行く。
遠くに見える八十一高校は、僕が見たことのないものになっていた。
門の上には「八十一学園祭」と堂々書かれた、カラフルなアーチが設置されていた。
それを見て、ようやく実感した。
ああ、今日はあの絶望まみれの高校の学園祭なんだな、って。
なぜだか全然わくわくしなかった。
むしろ、イヤ~な予感しかしなかった。
……なんかちょっとテンション下がったわ。
教室に辿り付くと、すでに一年B組のアイドル・九ヶ姫の草津さんと柿田川さんが到着していて、彼女たちにデレデレな野郎たちとともに最後の内装に取り掛かっていた。
キャッキャウフフと。
楽しそうに。
……でも、もう明日からこんな光景を見ることはないと思うと、胸の奥がざわつくほど口惜しかった。
みんなも明日明後日には「女子がいないいつもの日常」に叩き込まれ、ともすれば泣き出す野郎も出てくることだろう。
何、寂しいのは最初だけさ。人間ってのは慣れる生き物だからね……フフ……
それにしても化けたものだ。
僕も昨日、鞄を取りに来た時に少し見たが、冴えない男たちの吹き溜まりのようだったこのB組の教室が、まるで匠が手を加えたかのような、見事な喫茶店へと早替わりしていた。
僕ら一年B組の出し物は「明石焼きカフェ」。
名前もそのまま、非常にストレートで何を出展しているのか一目瞭然の店となっている。
――僕にはわかる。
最後の方で教室の手伝いから外れることになったが、きっとグルメボス・松茂秀人監修の明石焼きとたこ焼きは完成している。
ゆえに、昼にはこの教室は、外来客で埋め尽くされるだろう。
彼の並々ならない味への探求と試行錯誤の成果は、きっと、いや絶対に、食べたものを驚きと驚嘆の世界に誘うだろう。
何せ試作段階ですでにそこらの売り物より美味しかったのだから。
僕が何の憂いもなく食券を配れたのも、あの味を知っていたからだ。何なら僕だって食べに来たいわ。完成した黄金比で作られたたこ焼きや明石焼きを。
「一之瀬」
「あ、柳く……お!?」
僕の机も店の一部にされているので所在無く立っていた僕に気づき、装飾を手伝っていた柳君が近寄ってきた。
黒いスラックスに腰だけの緑色のエプロン。上は真っ白なカッターシャツという簡素な格好だが、何せ相手は柳君だ。気負わないその服装にさわやかさが半端ない。
やっぱり柳君はシンプルなのが似合うなぁ。でも柄物も当然のように似合うんだろうけどね。
周囲を見ると、柳君と同じ格好の野郎はいなかった。どうやらウェイターは、エプロン以外は割りと自由にしていいみたいだ。
「それが制服?」
「制服というより、動きやすい格好か?」
なるほど。そういうコンセプトで、ウェイターのユニフォームは各々の判断に任せたのか。
「……もう大丈夫? 昨日のこととか」
「別に問題ない」
柳君……その即答っぷりが逆に大丈夫じゃなさそうだよ……
どうやら昨日の「食い逃げ」の敗北を、少し引きずっているようだ。まあ昨日よりは元気そうだから、あとは時間が解決してくれるだろう。きっと。
「おまえは劇に出るんだったか?」
「いや、手伝いだけ。ただちょっと、やっぱり教室は手伝えないかも」
黒板側をカーテンで仕切られた向こうのスペースで、すでに明石焼き・たこ焼きを焼いている音が聞こえる。彼らにはきっと僕が抜けたせいで、シフト的な意味で迷惑を掛けただろう。申し訳ない。
第二演劇部+ONEの会の劇は、昼少し過ぎ。体育館のステージ上でやることになっている。
僕らはその間、午前中はやはり稽古をすることになっていた。
あまりにも稽古時間が足りなかったので、本番一時間前までみっちりやることになっている。残りの一時間で支度をし、十分前には体育館に詰めることになる。
僕は舞台には立たないが、雑用その他諸々とやることがあるので、動き回る時間はきっとないだろう。
終わったあとならなんとか、という感じだが……生憎今は劇のことで頭がいっぱいで、後のことなんて何も考えられない。
「サボりならともかく、他の手伝いなら仕方ないだろう」
「ごめんね。僕の分までいっぱい売ってね」
「努力はする」
八時三十分。
担任・三宅弥生たんが軽く顔を出し、教室の様子を見て問題ないことを確認すると「九時から客が入る。準備ほか、トイレなんかも今の内に行っておけ。それと、何があろうと男として草津と柿田川を守れ。いいな?」とごく短い注意を喚起し、慌しく出て行った。
それを合図に、これまた内装を手伝っていた覚醒した乙女・マコちゃんが「そろそろ行こう」と僕に声を掛けてきた。
それに従い、校舎――普段よりもっとずっと生命力を感じさせる喧騒の中、僕らは移動を開始した。
八十一高等学校学園祭。
別名、喧嘩祭り。
こうして長い一日が始まった。