016.五月十四日 土曜日 前半
「一之瀬、ちょっといいか?」
一時間目の休み時間、次の授業の準備をしている席に座ったままの僕のところへ、アイドル大好き四人グループが寄ってきた。鳥羽君と一谷君と松島君と城ヶ島君だ。
「今日の放課後ヒマ?」
ボーズ頭に入ったラインがチャームポイントの鳥羽君が、ストレートに聞いてきた。僕は「いや」と首を横に振る。
「今日までクラブだから」
「あ、五条坂光のか。だったな。そうだったな」
そうそう。今日は僕のお別れ会をするから必ず来いと言われているのだ。
一度たりともすっぽかしたことはないが、今日だけは特に行かなければならない。じゃないと後が怖い。
「でも時間取らせねえからさ。頼めねえ?」
「うーん……内容に寄るとしか言えないけど」
今度は、ツッコミが素晴らしい一谷君が口を開く。
「実はさ、購買でパン買いたいんだ。手伝ってくれないか?」
「ごめん。悪いけど断る」
購買によるパン争奪戦は、縮小版の「新人狩り」に等しい。僕はもうあの手の恐ろしいものに付き合う気はない。あんな想いは二度としたくない。こりごりだ。
「いやいや、まあそう言わず聞いてくれよ。な? 聞くだけ聞いてくれ」
――今日は土曜日である。午前中授業で、帰宅部には昼食は必要ない。つまり参加者が少ないのでいつもより競争率が低い。
ちなみに食堂と購買は、午後からクラブがあって学校に残る生徒のために、解放されているそうだ。
「どんな猛者も一度に三つ揃えることはできないと言われている伝説のパンがあってさ。幻のゴールデンカツサンドと、五十四センチの長さを誇る超ビッグチョコと、中濃ソースを練りこんであるスパイシーなコロッケが魅力のコロッケサンド。いつもは絶対買えないから今日こそ手に入れてやろうと思っていろんな奴に声かけてんだ」
へえー。やっぱり人気のあるパンは、経験不足の一年生にはまだ入手しづらいのかもしれない。単純に考えれば二年生三年生は経験がある分だけ争奪戦のベテランだしね。
「高井も協力してくれるっつってるしさ。渋川も俺ら一年B組が伝説を作る瞬間を見たいって張り切ってる。あの松茂も動くぜ」
マッスル高井はすでにパン争奪戦の常連だ。経験者として頼もしい。自称情報通の渋川君は……まあよくわからないが。しかしあのグルメボス松茂君も動くとは。たぶん食べてみたいんだろうな。
「な、頼むよ! おまえが協力するなら柳も参加するって言ってるしさ!」
「え?」
僕は隣を見た。柳君がいて、こっちを見ていた。
「参加するの?」
「おまえがやるならな。そうじゃないなら付き合う理由がない」
「僕には付き合う理由があるの?」
「危なっかしいから」
「……悪いね、世話かけて」
柳君は「気にするな」と言わんばかりに手を上げた。感情が顔に出ないし冷たい印象強いけど、わかりづらいだけで案外いい奴だからね。柳君は。超イケメンだけど。
「えーと、話を整理すると、売れ筋のパンを僕らで買い占めようってことだね?」
「そうそう」
「狙うパンは三つだけ。かなり熾烈を極めるとは思うが、その分俺らは数で攻める」
「ゲットした数に応じて配布はするけど、たぶんおまえには回らない」
今はっきり「無報酬です」って言われたな……まあいいけどさ。今日の昼食はONEの先輩方が用意するって言ってたから。だから今日ははずせないのだ。
「な、頼むよ。……俺らだけが持ってる秘蔵の写真、サービスするからよ」
「秘蔵? どんなの?」
「まあ見ろよ」と、いつも冷静な松島君が携帯を出し、女性に強いトラウマを持つ城ヶ島君が周囲に見られないよう身体で壁を作る。何気に厳重である。
携帯に映し出されている画像は――おう!? こ、これは……!
僕の表情が変わったのを確認し、松島君は携帯を遠ざけた。見せるのももったいないと言わんばかりに。
いや、だが、しかし、その気持ちはよくわかる。それは確かに独占したい。
――髪を下ろした守山先輩とは、なんたるレア写真。ぜひとも欲しいぞ! ちなみに僕はポニーテールも好きだがね!
「……」
もう言葉はいらなかった。
僕が差し出した手を、鳥羽君はガシッと掴んだ――取引成立である。
今日も革命の鐘が鳴る。
昨日より約一時間ほど早く。
秒針を睨みつける。
残酷な長い針は、僕らがどんなに望んでも速くならないし遅くもならない。どんなに睨みつけたって恨んだって逆に回りはしない。一秒たりとも。この一秒一秒は永遠に失われ、一秒一秒が無限に死んでいく。世界は時間に殺され続けているのだ。
そして、可能性という僕らの命運も、一秒ごとに殺され続けている。
――ノートを取らなくて大丈夫だろうか? 再来週から中間考査があるんだけど……
一秒ごとに一点ずつ、取れていたはずのテストの点が下がっていくように思えるのは、錯覚だろうか。
しかしそれでも、人を縛って憚らない罪深き長針から目を離せない。
あとわずか。
あと少しで、革命が起こる。その瞬間を見逃してはいけない。
……五、四、三、二、一、
ドン!
いくつもの上靴が同時に床を蹴る。
僕らが教室を飛び出すか否かという頃に革命を告げる鐘がなった。ちょっとフライングしたような気がするが、まあ、許容範囲だろう。
前と後ろの出入り口。
教室の出口によって、僕らの向かう先は左右に割れていた。
というのも、一年生の教室は二階で、特にこの一年B組は微妙な場所にありどちらにも寄っていない。前と後ろどちらの階段を使っても若干の遠回りになる。そしてどちらを行っても食堂への距離はあまり変わらないのだ。
僕は前の出入り口から出て、そのまままっすぐ進む。鳥羽君と城ヶ島君が少し前を走っていた。一度だけこれに参加した経験があるおかげで、僕もなんとかスタートダッシュには成功したようだ。
未だ無人――いや、僕らのように糧を求めし飢えた獣が、ぱらぱらと廊下に飛び出してくるのが見える。
やはり競争率の低い土曜日とはいえ、争いは避けられないらしい。
「先行くぜ!」
「おっ…!?」
後方から一気に僕を追い抜いたのは高井君で、その高井君は意外な進路を取った。
窓である。
高井君は窓に飛びつくと、躊躇なく飛んだ。
ここは二階だ。ここらの窓から飛び降りれば、食堂へ大幅なショートカットが可能! さすがは高井君、己の優れた身体能力をフルに活用している。
……でもびっくりした。高井君も無茶するなぁ。
無茶できない僕らは普通ルートである階段を飛ぶようにして駆け下り、更に廊下を行く。気がつけば僕らの前にも、僕らの後ろにも、何人もの飢えし獣が合流していた。
足音高く駆け抜ける。
ついさっきまで火を消したように静かだった校舎が、徐々に喧騒という熱を帯びていく。
僕らは喧騒の一番先を走っていた。
まるで静寂を破る火を点けて回っているかのように。
外に面した渡り廊下に差しかかると、深奥に人だかりが確認できた。
あそこが食堂の入り口、購買の前だ。
僕らは僕らなりに最速で来たつもりだが、一年B組より教室が近い、あるいは早めに授業が終わった連中がすでに購買に群がっている。
僕らのはるか前方を、階段丸ごとショートカットした高井君の背中が見えた。彼はスピードを殺すことなく食料を奪い合い醜く争う地獄へと突っ込んだ。さすが高井君、躊躇がない。それだけ己の筋肉を信頼しているということだろう。
僕らもあと少しで現場に切り込むという、まさにその時だった。
横手から駆けてきた白い獣が、地獄の一片を蹴散らした。
「な、なんだ……!?」
思わず僕の足は止まる。
舞い上がる複数の男たち。
情け容赦なく襲いかかる白い獣。
今思えば、僕はこの時始めて、白い獣の背中を見たのだ。
まるでこの高校を象徴するような……いや、この高校そのもののような「八十一魂」の黒い文字。
誰かが叫んだ。
「やべえ! 団長だ!」
八十一魂を込めた白ランを背負いし者。
三年生、応援団団長、尾道一真。
だがその団長が、次の瞬間には宙を舞っていた。
ダンプカーを思わせるような黒い獣に撥ねられたのだ。
「なっ……副団長まで来やがった!?」
身長百八十を超える、五条坂先輩と同じくらい巨大な黒い獣が、一瞬で白い獣を喰らった。
三年生、応援団副団長、北見幸夫だ。
「遅かったか……!」
僕と同じく、横で立ち止まっている鳥羽が苦々しい顔で呟く。
「鳥羽君あれ何!? 鳥羽君あれ何!?」
あんなの聞いてないぞ! あんなヤバイ連中がいるなんて聞いてないぞ! ただでさえ嫌なのに今はバケモノがいるよ! バケモノが人間を蹂躙しているよ! 赤子の手を捻るがごとく破壊を撒き散らしているよ!
「見ての通りだよ! 急げ! 他の団員も来るぞ!」
それが鳥羽君の最後の言葉だった。
果敢につっこんだ鳥羽君は、三秒後には僕の足元にごろりと転がっていた。鼻血垂らして。
お、おいおい……こんなの「新人狩り」よりひどいよ――と、考えている瞬間、僕の脇を尾の長い獣がすごいスピードで駆け抜けた。
「ぬう!?」
迷うことなくバケモノに向かい、その横っ面に見事に一撃入れたその人は……
「団長! 副団長! 今日こそぶっ潰しますんで!」
僕らのおねえさ……アニキ、守山先輩だった。イキイキしていた。……やっぱりあの人も八十一高校の人だなぁ。
「あぁ!? 誰に言ってんだコラァ!」
さっきぶっ飛ばされていた白い獣、団長が立ち上がって吠えた。なんという気合。なんという声量。近くにいない僕にまでびりびり響く。
そして地獄は、更なる地獄に塗りつぶされる――
「……行けないだろこんなの」
僕はそう呟くことしかできなかった。