166.十月一日 土曜日 頭
場違いすぎる新星が駆け込んできて一瞬乱れた場は、五十くらいのおばちゃんが注文を取りに出てきたことで自然と収束した。
そう、ここにいる学生たちは、ただただ腹を満たしに来ただけの飢狼である。
たとえ誰が参加しようと、その根本がぶれるような素人はいない……かどうかはわからないが、見た感じでは誰も気にしていないようだ。
山羊さんの強引なる引き込みで、意図せず三十三高校の三人とテーブルに着くことになってしまった僕だが……まあ山羊さんと『跳ねる者』はいいんだ。あまり知らない二人だが、特に嫌いってわけでもないし。
だが思いっきり真正面の赤ジャージ、てめえはダメだ。
こいつはほんと勘弁してもらいたい。
こいつだけはダメだ。
絶対ダメだ。
……何睨んでやがるこの野郎! こっちはおまえのツレに無理やりここ座らされてんだよ、「ツレが迷惑かけました」くらい言いたげな済まなさそうな顔の一つもしやがれよ! バカめ!
「……え? 何? ルーキーと『駆ける者』は仲悪いわけ?」
「みたいね。まあいいんじゃん? 殴り合いとかされたらさすがに困るけど、このくらいなら」
『跳ねる者』は僕らの関係をすぐに察した。まあ睨み合う僕らを見れば、これ異常ないほど一目瞭然だろうけど。
なんだろう。
厳密に言うと嫌いって言うほど嫌いでもないんだけどね……でもダメって印象がすごく強い。友好も嫌悪もなく、ただ対抗意識だけが肥大しているのかもしれない。
うん、嫌悪はないんだ。
恨みがあって借りがあって負けたくないって気持ちがすごく強いだけで。
ま、向こうがどう思っているかは知らないけど。案外すげー嫌ってるかもね。
「いらっしゃーい。何にするね?」
どこかの地方の訛りがある店員のおばちゃんが、ついにこのテーブルにも注文を取りに来た。
「鴨二つ」
「あ、俺も鴨」
え? 鴨?
山羊さんと『跳ねる者』が流れるように注文を告げ、僕を驚かせた。
「鴨?」
隣の山羊さんに問うと、彼女は「鴨」と答えた。……いや違うって。
「鴨が美味しいの?」
「うん。あれ? ここ初めて? 青海庵と言えば鴨せいろか、シンプルな暖かい鴨蕎麦がお勧めだよ。いわゆる鴨南蛮ね」
へーそうなのか。
「鴨せいろってどんなの? 鴨南蛮は聞いたことあるんだけど」
「基本はざるで、つけだれに鴨肉とか鴨のダシとか入ってる美味しいやつ」
あ、つけだれがメインなわけね。美味しそうだな……というか僕は鴨自体食べたことないんだよな。
「じゃあ僕はその鴨せいろにしようかな」
……と思ったのだが。
「フッ」
目の前のマッシュルームカットが、鼻で笑ってイラッとさせてくれた。なんだこの野郎! 文句あんのかよ!
「そうだなー。『食い逃げ』はあんまり勧められないわなー」
と、今度は『跳ねる者』が教えてくれた。
「冷たいのは素人が頼むもんだからさー」
あ……そうか。そういや松茂君もそう言ってたな。
でも僕は初心者だし、そんな今後も参戦したいわけでもないし、別に舐められても構わないし――と思っていたけど、目の前のキノコがムカつくから舐められて平気というわけでもないようだ。
たぶん赤ジャージ以外だったら平気だっただろう。
こいつだけはダメなのだ。
こいつにだけは弱みなんて見せたくない。
「僕も同じので!」
こうして僕は必然のようにこの三人と同じもの、すなわち普通の鴨蕎麦を注文したのだった。
注文が終わると、山羊さんと『跳ねる者』は八十一の学園祭のことを聞いてきた。そう、これを聞くために僕はこのテーブルに招かれたんだよね。
僕は去年……というかこれまでの八十一高校学園祭を知らないので何とも言いかねるが、この二人の反応を見るに、今年の「女子が参加する学園祭」はこれまでとはかなり異質なものになっているようだ。
まあ、女子がいるいないだけでも、かなりの差はあるとは思うが。
「今年は遊びに行けそうだからさ。興味あるんだわ」
山羊さんが言うには、通称喧嘩祭りと言うだけあって、普通の女子の参加はやはり躊躇するものらしい。
「女子で遊びに行くって、ほら、あれ、ねえ『跳ねる者』? あいつらくらいでしょ?」
「ん? ……ああ、あそこのレディースは毎年行ってるらしいよね。なんていったっけ? ……グリズリーだっけ?」
……あれ? 今なんか聞き覚えのある名前が出ましたか?
「つか今時レディースってさ。時代遅れなんてレベルじゃないっしょー。なあルーキー? どう思う?」
「コメントは差し控えさせていただきます」
「え? なんで?」
その人たちと深い繋がりのある人を知ってるからです。……口は災いの元だぞ、『跳ねる者』。どこで誰が聞いてるかわからないんだから。
そんな話をしながら、僕は隣のテーブルに意識を向けてみる。
……内容まではわからないが、月山さんと高井君と松茂君が何かしら良い雰囲気で談笑している。柳君はまあアレとして、男二人はちゃんと月山さんの相手をしているみたいで安心した。
そんなこんなで時間を過ごしていると、ついに鴨蕎麦がやってきた。
焼き目のついた鴨肉と、刻んだ白ネギがたっぷり乗っただけのシンプルな蕎麦だった。
透明な関西風スープに、波紋のように広がる鴨の脂。
蕎麦としては若干しつこいのかな? 僕は蕎麦はあっさりしたものしか食べたことない。
だが、香りはすごい。
なんと形容していいのかわからないが、これが鴨肉の匂いか。鶏よりもっと強い感じがする。
「「いただきまーす」」
三十三高校のベテラン三人はさっさと割り箸を割って、蕎麦を手繰る。
……そうだな。今日は食い逃げだし、僕も見てないでさっさと食べるか。
僕も割り箸を割って、シンプルな蕎麦を混ぜて、それから細身の蕎麦を一口すすってみた。
「あ、うまい」
関西風の上品なダシに、鴨のダシが非常によくあっている。うん、たぶんこれは鴨のダシも入っている。更に鴨の脂がスープや蕎麦に絡んで、濃厚な肉の甘味と旨味を感じさせた。
そして、これだけ脂が浮いているのにあっさりしているのは、鴨肉の特徴なのか? それともネギと一緒に食べているからだろうか? 「鴨が葱を背負ってくる」の言葉通り、かなり相性が良いのは今食べてみてよくわかった。……まああの言葉は鴨鍋にするからちょうどいい、みたいな意味らしいけどね。
今度は一口大に切られてチャーシューのように乗っている鴨の肉を食べてみる。
……うん、うまい!
鳥肉の味はしっかりするけど、やっぱりあんまりしつこくないな。弾力が強くて少し肉が硬い気がするけど、だからこそ噛めば噛むほど肉の旨味とダシの旨味が出てきて本当においしい。
これはいいな……おまけのようで恐縮だが、鴨がこれでもかって自己主張しているのに、蕎麦が負けてないのがいい。コシのある蕎麦をすすれば、妙に癖になるあの蕎麦の実の香りがぶわっと口の中に広がるのだ。それが鴨ダシと相まってまたうまい。
気がついたら僕らは一心不乱で、脇目も振らずに、目の前の天敵のことさえ忘れて、ただただ食の欲求に忠実に蕎麦をむさぼっていた。
「問題はルーシーよねー」
僕と三十三高校の三人が粗方食べ終わった頃、『跳ねる者』が己のどんぶりの底を見ながら呟いた。
「どういうこと?」と問うと、「ルール通りだよ」と返ってきた。
「食い逃げは完食厳守。つまりこのルーシーはどういう扱いになるのかってこと」
るーしー……あ、汁か! 汁ね! 業界風に言ってみたわけね! ……汁って言えよ、なんのことかわかんなかっただろうが!
「一応半分くらいまで飲めばOK、みたいな雰囲気はあるんだけどね。でも食わせてもらっている以上、一滴さえ残すのもためらわれるのよねー」
『跳ねる者』の言っていることと、松茂君のあの言葉が、僕の頭の中で噛み合った。
――曰く「今日は難易度が高い」。来る途中で言っていた言葉だ。
あまり深く考えてなかったが、ここにきてにわかに意味が判明した。
「汁か……」
ダシが美味しくて僕もルーシ……汁を何度もすすったが、ちょうどどんぶりの半分ちょい下くらい残っている。
そう、商店街の皆さんのご厚意でこのイベントは成り立っている。そのご厚意に報いる……というよりマナーというか、ルール以上に礼を尽くしたい、という気持ちはすごくわかる。
完食は確かにルールだが、それ以上に空の皿やどんぶりは「最後まで美味しく食べました」という、お店や料理人に対する礼儀のように思えるのだ。
もちろん考えすぎかもしれないが、でも僕は、わかる気がする。
だが、これは勝負事である。
たとえば、もしこの鴨汁を全部飲み干したら、きっとお腹はたぷたぷになって走り逃げるどころではなくなるだろう……
そして、冷たいものの方が圧倒的有利であることも判明した。基本ざる系にはスープ的なものはなく、あるとすればつけダレだからね。おまけに火傷を気にせず早く食べられるし。
どうしたものかとどんぶりを見ていると、隣の女がやおらどんぶりを両手で持ち、ぐいっと傾けた。
ゴクゴクと隆起し楽しそうに躍動する細い喉を、僕は唖然として見ていた。
「っっはーっ! あーうまかった!」
おっさんくさい息を吐き、山羊さんが豪快に完食してみせた。彼女のどんぶりには汁はおろか、ネギの切れ端一つとして存在しない。
なんとおっさんくさ……男らしい食いっぷりだろう。
山羊さんは満足げ笑うと、椅子の背もたれに体重を預けた。
その姿は、まるでおすもうさんが「悩んでないでまず食らえ」と言うくらい、言葉のない強い説得力でもって僕らに語りかけているかのようだった。
……へへっ。
女子にそんなもの見せられたら……男だったら飲むしかねえよな……!
僕は迷いを振り払い、両手にどんぶりを抱えた。
……そして僕はこの軽率なる行動を、後からすごく後悔することになる。