164.十月一日 土曜日 王
八十一高校は今時週休一日制で、土曜日は登校日である。
特に今日は学園祭前日とあって、掃除が免除という扱いになっていた。創作物などで場所を取っているからだと思う。下手に触って壊したら大変だからね。
今日はそんな特別な日だが、僕らにとっては別の意味でも特別な日だった。
三時間目が終わった直後、僕らは脇目も振らずに校外へと飛び出した。傍目に見れば、いつも四時間目が終わった直後、食堂や購買へメシを求めて走る連中と同じようなものに見えていただろうと思う。
僕と、隣の柳君と、筋肉男高井秋雨と、グルメボス松茂君と。
帰りのホームルームをぶっちぎる予定で、僕らは校舎を出て、足早に商店街へと向かっていた。
僕としてはあの高校で過ごす一日の最後に弥生たんに会うっていうの、結構気に入ってるんだけどな。なんだかんだ言って意外と生徒のこと見てるからね。あの人。
まあ、今日は諦めざるを得ないだろう。
僕はもう、実態がわかった以上あんまり参加しなくてもいいかなーと思ってはいるが、隣の人がかなり乗り気だからね。
――良い天気だ。
日差しが柔らかい晴天。今日から八十一高校は中間服OKの衣替えになったので、僕は早速ブレザーを着ている。
天気予報では今週はずっと晴れだと言っていたから、きっと明日も絶好の学園祭日和になるだろう。
「今日は難易度が高い」
早足で現地へ向かう最中、やはり今日は朝からピリピリしていたグルメボスこと松茂君が、今日の「食い逃げの店」について教えてくれた。
そう、今日は食い逃げの日だ。
なんでも、月に一度は八十一商店街でこういうイベントをやっていたらしい。先月の「九月十二日」は食い逃げ界でも特別な日だったようだが、……まあ、僕にはあんまり違いがわからないかな。参加者の気合が違うらしいけど。
それはそれとして、今日の店は確かに難易度がね……ちょっと高いみたいだ。
僕は昨日、あの月山凛に連れられてお店を見てきた。もう辺りは暗かったから周囲の様子は見られなかったが、何の飲食店かは確認してある。
「先に忠告しておく。――初心者はホットはやめろ。だが一端の食い逃げができると自負しているならアイスを選ぶのはただのチキンだな」
要するに、素人なら素人らしく、玄人なら玄人らしく振舞えってことだろう。
露骨に言うなら、自転車に補助輪を付けるか否か、くらいの差があるんだと思う。
うん、僕は大人しく補助輪付きにするつもりだ。別に「あいつダセェ! 冷たいの食ってやがるぜ!」とか舐められたって構わないし。
つかそもそも食い逃げってなんなんだよ。僕は未だ納得はしてないんだぞ。
「柳君、僕らは冷たいのにしとこうね」
「嫌だ」
あ、そうですか。なんか拒否るかもなー、とは思ってたよ。
「一之瀬と同じのにしとけば? まーた負けちゃうかもよー、柳くん?」
高井君がニヤニヤしながら超イケメンを挑発する。やっぱり何度見ても違和感ある光景だ。何事も柳君が一方的に負けるってこと自体がすごく珍しいからだろう。
そんなニヤニヤ筋肉を、柳君は冷ややかに見詰めた。
「馬鹿。転べ」
なっ……あの柳君が子供みたいな悪態を吐いただと……!? なんて違和感ある光景だ!
八十一第二公園前から横断歩道を渡り、八十一商店街へと入る。
……うん、なんか、まばらな人通りよりも、エプロンしたお店の人たちが目立つね。
店先に立ってて、明らかにこっち見てるよね。
前の「九月十二日」は、何があるのかわからないまま店まで行ってしまったのでこういうのには気づかなかったが……そうか。
商店街に足を踏み入れた瞬間から、僕らは捕獲者に狙われていた。
無償労働者を捕まえんがために、おっちゃんおばちゃんにーちゃんねーちゃんは、大の大人たちは、本気なのだ。
今だに悪ふざけとしか思えないのだが、逃げる方と捕まえる方の間には、割と本気しかないんだよね。
イベント自体はふざけているのに、参加する当人たちは結構熱が入ってるんだよね。
静かにリベンジに燃える柳君に、今「おーい柳君。今度もうちの手伝い頼むよ」と八百屋のおっさんが声を掛けた。あの盛況っぷりは僕も見ていたよ。若い女から熟女まで柳君に群がっていたっけ。
――ああ、これで彼の意気込みは更に増すだろう。
高井君も松茂君も、ただ「食らう」という非常にシンプルな、しかし抗いがたい人間の欲求に突き動かされてここに来ている。
原点に触れるのであれば、彼らのような連中がこれを始めたのだ。
かつて飢えていた大人たちが、今飢えている子供たちのために用意した、二十年以上の歴史を持つイベント。
もしかしたら、どんなに時が経とうと、時代が変わろうと、子供の本質なんて大して変わらないのかもしれない。
そして僕は……僕だけが、そんなに本気ではないと。
いや、だってしょうがないだろう。
僕は今回は柳君に付き合って参加しているのだ。だいたい食った後に走るとかしんどいし、捕まったら何日か強制労働でしょ? リスクが高いよ。そこまで食にこだわるわけでもなし。
前回だって、最初から全貌を知っていれば、参加はしていなかったはずだ。知ったのが現地だったから、もうしょうがないと諦めたのだから。
でも、こんな心構えじゃ、きっと今回は捕まっちゃうだろうなぁ……
一人だけ蚊帳の外にいることを悟った僕は、溜息を吐き――直後に燃えた。それはもう一気に燃え上がった。心の中に所持する量の少ないガソリンに火種が落ちたかのように。
少し前方に、茶髪のマッシュルーム頭を発見したからだ。
……赤ジャージだ。
忘れもしないあいつの後ろ頭だ。
あいつ、懲りずにまた来やがったな……こけしみたいなシルエットしやがって! 何偉そうに制服着てんだよ、おまえ今日休みだろうが!
「ちょっと先行く」
僕は三人に断り、ただでさえ早足だった移動スピードを更に上げた。もはや競歩である。決して走らないところに美学がある……だってあんな奴のために走るなんて無駄な労力使いたくないし!
「――っ」
奴にしては珍しく無警戒で、僕は無防備な肩にドシッと肩をぶつけて通り過ぎた。
吐息のような声を上げた赤ジャージから、「チッ」と舌打ちしたのが聞こえた。へっ、ざまーみろ! バーカバーカ!
「あ、ルーキーだ。久しぶりー」
あ。
振り返らず行こうと思っていたが、その声に思わず振り返ってしまった。
振り返った先、赤ジャージの隣にいたのは、前回「九月十二日」の食い逃げでちょっとだけお世話になった『知恵ある者』こと山羊さんだ。
僕は赤ジャージにしか目が向かなかったから気がつかなかったが、山羊さんは最初から憎き赤ジャージの隣にいた。たぶんなんか話してたんだと思う。だから割と勘の鋭いこけしカットの赤ジャージが僕の接近に気づかなかったのだ。
「結構結構。ルーキーにしてはなかなか生意気な挨拶するじゃん。燃えてるね」
燃えてる?
僕が?
――いや、確かに燃えている。燃え上がっている。さっきまで腑抜けていた自分が嘘のように。
そうだ。
僕が「食い逃げ」に参加する理由なんて。
赤ジャージと勝負し、勝つため。
たったそれだけで、でも決して譲れないそれだけの理由で充分じゃないか。
なぜか赤ジャージと睨み合いながら進み、すぐにそこへと到着した。
本日の食い逃げ場所は、ここ、青海庵。
青海庵は、うどん・そば専門店である。