163.十月一日 土曜日 汁
十月になった。
平和だった夏休みから一ヶ月が過ぎ、季節は移ろいまた冬服になった。
そして、僕らが高校生になってだいたい半年が経ったことになる。
八十一高校の実態を知った初日、最初の内はどうなることかと戦々恐々とした毎日を過ごしていたが、人間慣れれば慣れるものである。
慣れれば慣れるもの。
あたりまえのことかもしれないが、その「あたりまえ」が「普通」だと感じているなら、それは絶対に違うと声を大にして言いたい。
あたりまえっていうのは、様々な要因が重なり、支え合い、迎合したり反発したりして成り立っている、案外もろいものなのだ。「あたりまえ」に甘んじていると、いつかきっと痛い目に合う。
僕はすっかり、毎日があたりまえじゃないことに慣れた。
よくよく考えれば、毎日は同じ日の積み重ねじゃない。
一日一日が、決して戻ることのできない、尊い時間の積み重ねなのだ。
……なんてことを考えるくらいには、この劣悪な環境に順応することはできているみたいだ。
あたりまえ?
それ、毎日八十一で生きていくのに必要な知識なの?
そんなものより、毎日を平和に過ごす方法を知りたいよ。本当に。
今日の平和は、僕から破らねばならない。朝っぱらから。
いや、根本的なことを言うなら、これは僕のせいじゃないんだけどね。
……でも、無関係かと問われると、強く否定はできないな……
とりあえず事を進めようか。このままうじうじ考えていても何も始まらない。
「柳君」
隣の柳君は、集中したい時や考え事をしている時は、何か読んでいることが多い。たぶん彼の癖だ。
今日の放課後には本番とあって、柳君はイメトレに余念がないのだろう。朝の挨拶をしたら「今俺に話しかけるな」と、教科書を睨みながら答えたものだ。
始めて見た当初は、元々愛想がない柳君が更にそっけなくなるので「不機嫌なのかな?」と思ったものだが、今ならわかる。傍目には本(普段は小説が多い)を読んでいるだけだが、実は本の内容はあまり追っていないのだ。よく見るとページを捲ることも少ない。
僕と違って頭のできも高スペックな柳君だ。きっと僕の想像もつかないような高度な思考を展開しているに違いない。
あんまり邪魔したくはないけど、でも、それでも、あれだけ真剣だからこそ。
現場で急遽イレギュラー要因が増えてイメトレやシミュレーションが無駄になるよりは、今ここで告げておく方が親切だろう。別に僕は柳君の邪魔がしたいわけじゃないし。
「柳君」
反応のない彼を再び呼ぶと、柳君は教科書を見たまま「なんだ?」と答えた。
「今日のアレ、月山さんが参加するらしいよ」
「……!」
うわ、こっち見た!
「まずいだろう」
しかも第一声がそれだった!
――うん、僕もそう思う。マジでそう思う。
昨日、僕も月山さんを説得しようとは思ったのだ。
やめとけと。
君が考えてる以上に過酷だからと。
仮に負けたとして、学校に黙ってバイトとかするのかと。
そもそも九ヶ姫の生徒が参加しちゃダメだろと。
バレたら停学じゃないか? 最悪退学になるかもしれないぞ、と。
そんな思いつく限りの反対要素を出しては月山さんに辞意表明を求めたのだが、しかし、
「説得しきれなかった」
「そもそも学校はどうする。学校を抜け出してくるなんて九ヶ姫じゃ無理だろ」と。
僕としてはこれで決めるつもりだった。
だが、致命傷を狙った一撃を放った瞬間、まさに燕返しのような一撃必殺の返し文句で、逆に僕がやられたのだ。
――「うち土曜休みだけど?」ってね……!
何が悲しいって、どっぷり八十一男子であることが骨身に染み付いた思考をしていたことだよ! 世間の学校はもう週休二日があたりまえだよ! 八十一高校だけじゃないか、近隣で土曜も登校なんてさ!
「……」
柳君は小さく溜息を吐いて、教科書を閉じた。
「月山は誰から知ったんだろうな。一之瀬、話したのか?」
「いや、話したのは一部」
「一部?」
うわ、睨まれた! おいおい僕は犯人じゃないぞ!
「月山さんはエサの魅力に負けたんだよ。僕はそのエサのことを話したけど、どうしてそうなったかは……たぶん自分で調べたんだと思う」
「エサとはなんだ? 何を話した?」
「君がバイトしてるって話を向こうから出した」
「……」
「どっちかと言うと僕は話さずに誤魔化したよ。九ヶ姫のお嬢様に話せることじゃないと思ったから」
何せ「なぜそうなったのか」は、話していないから。
食い逃げで負けてそうなりました、とは話していないから。
月山さんは、どうにかして自分で調べたんだと思う。どうやったのかはわからない……でも、ないか?
「よく考えると、一発でわかる方法も、なくはないね」
「……確かにそうだな」
そう、かつて柳君が強制労働していた店なりなんなりで聞き込みすれば、うまく交渉できれば当時の状況から経緯までしっかりわかるだろう。
店側は無償のバイトとして柳君や三十三高校の『跳ねる者』とかこき使っていたんだから、さすがに理由や経緯を知らないとは思えない。というか、八十一商店街で店を出しているところは、全員ちゃんと知っていると思う。
月山さんは、僕から軽々とガトーショコラやモンブランを取り上げるくらいには、話し上手だ。その辺のおっさんくらいなら簡単に口を割らせそうな気がする。有り余る美貌で。
「君と一緒にバイトしたいから参加しようと思ったんだろうね」
そして柳君の「案外負けず嫌い」っていう性格を知っていれば、必ずリベンジとして次回の食い逃げも参加するだろうと予想できる。
月山さんは、柳君と一緒にバイトできるかも、という夢のような魅力に負けたんだと思う。
「柳君、僕に何か言うことは?」
「……すまん」
うん。ならよし。
月山さんの参加は僕のせいじゃない、ということはちゃんと伝わったようだ。
「あんまり余計なこと言いたくないけどさ、もう少しだけ優しく……いや、構ってあげたら? そうすればいきなり接触してくるようなことも減るんじゃない?」
「変に構うと期待するだろう。その方が残酷だと俺は思う」
いやあ……
「もうそういうレベルの話じゃないと思うんだよね……」
月山さんのあの執着具合を鑑みるに。もう絶対に逃がさないって気持ちだけで、執念どころか命さえ燃やして柳君を追い回している気がする。
命を燃やしているってのも、案外誇張ではないと思う。
だって月山さん、確実に乙女の命的な「かわいらしさ」とか「愛嬌」とか、その辺は確実にすり減らしているから。
そうじゃなければあんなに残念な美少女になっているものか。
「ごめんね。本当に口は出したくないんだけど、でも月山さんの気持ちだけはいつも伝わってきてるからさ。時々どうしても応援したくなるんだ」
僕はもう、月山さんの応援はしないって決めている。
でも、それでも、彼女の気持ちを汲んでやりたいとちょいちょい思うのだ。僕の決意が弱いのか、それとも単に月山さんとの友人としての情が深くなってきているのか、いまいちよくわからないが。
「気にするな」
柳君は再び教科書を広げた。
「おまえの話は半分しか真面目に聞いてない。だから大丈夫だ」
「いや聞けよ! 全部! 真面目に!」
地味に衝撃的なこと言いやがって……何さ! このイケメンめ!
……つか、ちゃんと考えろよ。
すげー冷静に見れば、イケメンと美少女の間で右往左往してるフツメンが隣にいるんだぞ……
月山さんのことも僕のことも真面目に考えてよね! バカ!