162.九月三十日 金曜日 戦
時刻は六時半を回ろうとしていた。
明日から十月というこの晩秋最後の日、空は彼方を焦がすだけでもう藍色に染まっていた。
陽が出ている時は大丈夫だが、この時間になると若干肌寒くもあるので、僕は明日から始まる衣替えで冬服を着ようと思う。
八十一商店街は、だいたい五時から七時くらいが一日のピークを迎える。
僕ら八十一校生がクラブを終える時間、会社勤めのサラリーマンやOLが帰宅する時間、そして他校の生徒もちらほらと……最近は九ヶ姫の女生徒もたまに見かけるんだよな。たぶんうちの手伝いに入っている女神の関係者だと思う。迎えに来た友達とか、その辺かな。
主婦なんかは、さすがにこの時間はちょっと少ないかもしれない。もう少し早めに買い物に来て、今頃夕飯の支度でもしているのだろう。
さて。
ここ八十一商店街を通るのは、僕の帰宅ルートだが、今日はちょっと寄り道をしなければならない。まあ別に門限なんて特に決まってないので、寄り道自体は問題ないのだが。
問題は、寄り道の理由だ。
人に会うのだ。
八十一高校の生徒に一緒にいるところを見られたら殺されかねないような相手と。
月山凛と。
この厄介事の発端は、二時間半くらい前に遡る。
ちょうどONEの会が合流した演劇同好会、通称第二演劇部として動き出そうとしていた矢先、一般参加として学園祭にやってくる予定の三人目の三大美姫・月山凛より電話が入った。
結構良いタイミングだ。
あと五分遅れていたら、早速作業を始めた頃に出鼻をくじかれただろう。同じ裏方に回されている前原先輩とマコちゃんもいい顔はしなかっただろう。
この時期に月山さんからの連絡だなんて、ちょっと嫌な予感がした。
たとえば、学園祭に出られなくなったとか。
お金がないから貸してくれとか。
ケーキおごれとか。
そろそろ柳君に会いたいからセッティングしなさいよグズ、ブタ、言うこと聞かないと二度と罵ってあげないからね、とか。
特に最後のは難しいミッションとご褒美が一体化しているという、断ることが困難な要求である。そんなことを言われたら僕はどうしたらいいんだ。僕に柳君を売れと言うのか……!
まあ、今までそういうことも何度かあったから、なんとか知恵を絞って上手いこと柳君を売る方法を考えることだろう!
何、柳君が怒ったら「これはイケメン税だ! 恨むならイケメンに生まれてきた己の運命を恨むんだな! 畜生!」と逆ギレする用意はいつでもできてるさ!
携帯のディスプレイに羅列されている「月山凛」の名前を見て、僕は瞬時に嫌な予感とともに色々考えたが、出ないわけにもいかないので通話ボタンを押した。
「月山さん? どうしたの?」
向こうからの第一声は、これだった。
「今暇!? 暇だよね!?」
いいえ暇じゃないです。ちょうど今から作業が始まるところです。
どうやら月山さんは僕に何か用事があるようで、「準備があるからいつ帰れるかわからない」というこちらの都合に合わせ、この八十一商店街で待ち合わせすることになった。
ここで会うのは、一種の賭けである。
だってあの月山凛と一緒にいるところを愚者たちに見られたら……僕は絶対にただじゃすまない。
正直だいぶ遠回りでも、駅前とかまで出張っても良かった。
ここでハラハラしながら密会するくらいなら、リスクの少ない場所の方がいい。僕はできれば余計な波風は立てたくないのだ。
だが月山さんは、どうしてもここで会いたいから、と待ち合わせ場所を変えることを拒否した。
ここで会う理由……か。
やっぱり嫌な予感しかしなかったが、この期に及んですっぽかすわけにもいかないので、僕はやや重い足取りで落ち合う場所へと向かっていた。
目指すは、この商店街で相当浮いている、でも繁盛しているコンビニだ。
約束のコンビニの外から店内を覗くと、うち含む近隣の高校生やら大学生やらが本を立ち読みしていた。さして珍しくもないいつもの光景である。
その中に月山さんは…………あ、いた。
いつも駄々漏らししている美少女オーラを完全に消した、ジーンズに黒のジップアップパーカー、そしてデニム素材のしゃれたキャップを目深にかぶるという非常に目立たない格好だった。
本当にあれか、と目を疑うくらい別人にしか見えなかったが、あれで間違いないようだ。……バレないもんだな。全然注目されてないじゃん。
彼女はファッション雑誌を見ていた。もしかしたらだいぶ待たせたかもしれない。
僕は外から月山さんの目の前の窓をコンコンと叩き、合図した。月山さんはすぐに気づき、さっとコンビニから出てきた。
「ごめん。待たせた?」
「ちょっとだけ。それよりいきなり呼び出してごめんね」
そんな会話を皮切りに、彼女は歩き出した。僕もそれに従う。
「清水さんは一緒じゃないんだ?」
「うん。今日は一人。清水ちゃんも暇じゃないからね」
僕も暇じゃないですけどね。
「一之瀬は学園祭何やるの? たこ焼きだっけ?」
「いや、色々あって劇の手伝いに回された。今日はずっと小道具作ってたよ」
僕は刺繍関係は全然できないので、前原先輩とマコちゃんは衣装作り、僕は小道具作りという役割分担になった。まあ小道具って言っても、僕がやったことはすでにできあがっている道具の着色とか、そういう簡単な作業だけどね。
「あ、そうだ。食券渡しておくね。清水さんと食べに来てよ」
「え? ほんと? いいの?」
「僕はいないかもしれないけど……」
「柳君がいるならそれでいい」
Oh……地味な格好してても、まさに月山凛という発言だな。
そう、柳君はウェイターとして参加するからね。当日は会おうと思えば会えるだろう。……それ以上のことは月山さんのがんばり次第だけど。
それから徒然なるままに「メールの返信はあった?」「最近の柳君はどう?」「ふと思ったんだけど清水さんのフルネームってなんていうの?」「清水ちゃんは清水ちゃんだよ。何言ってるの?」という会話をしたりしなかったりして。
ついに月山さんは、路地裏に入った。
そして僕は、いよいよ聞かずにはいられなかった。
「どこ行くの?」
待ち合わせしてまで会う用事だ。
目的の場所に向かっているのは聞かずともわかっていたが、ここまで来るとさすがに気になった。
「もう見えてるよ。そこ」
月山さんは、一瞬でひとけの少なくなった狭い路地の奥で、煌々とくすんだ光を漏らす店を指差し……僕の嫌な予感は瞬時に状況を教えてくれた。
「ちょっと待って!」
「あ? どした?」
「どした」じゃないだろ! おい! おいおい! ちょっ……え? なんて聞いていいかわかんねえ! でもちょっと待て!
僕は本気で痛みが走りそうな額を押さえ、まず何を言うべきか考えた。
月山さんはなぜかキャップのつばを押し上げ、不思議そうな顔で僕を見ていた。
なんでそんな顔だよ。
こうなるよ。
目的を察したらこうなるよ!
君の好きな柳君でもこんな感じになるよ!
「……あのさ、月山さん」
搾り出すような声で、僕はうめく。
「もしかして、明日、参加する気なの?」
「うん! する!」
それはそれは迷いのない笑顔で、月山さんは参戦の意を表した。
明日は「食い逃げの日」だ。
僕はもう、自分の嫌な予感が当たりすぎて生きるのがつらいです。