014.五月十二日 木曜日
身体が痛い。
昨日の夜からなんとなーく足が重い気がしていたが、寝て起きたら太股やふくらはぎがものすごく痛かった。
筋肉痛である。
「……フッ」
どうやら昨日のジョギングで、はしゃぎすぎたようだ。
だが悔しくはない。惜しくもない。
だって勝ったから。
だって勝ったから!
僕は目覚ましをセットしなおして二度寝した。がんばった自分へのご褒美に。
ジョギングはまた明日からやればいい――本当にやるよ? 三日坊主以下じゃないよ?
適当な時間に起き、重い足を引きずってリビングへ行き、妹の「ジョギングは?」という冷塊でしかない言葉と冷徹きわまる視線をたくみにかわし、早々に家を出た。妹は今日もいつも通り残酷だ。兄は疲れたから休んだんだよ。辞めたわけではないんだよ。
足どころか地味に身体中が痛い以外、問題なく八十一高校に到着。
「新人狩り」は今日も猛威を振るっている。まだ狩られていない一年生たちが、やはり戦々恐々として校門前に溜まっている。
僕が言えることでもないが、本当に、なんで校門にこだわるんだろう?
いつも野球部が走っている八十一第二公園の奥から、八十一山に入ればすぐに八十一高校の裏手に出られるのに。
「公園から回れば旧クラブハウス付近に出るわよ」と、ONEの会でもっとも性的な意味で守備範囲が広い魅惑の絶対領域・前原先輩が言っていた。先輩の家は正門から出入りするより裏山を突っ切った方が早いらしく、時々そっちから帰るんだそうだ。
校門前に立っている応援団団員(守山先輩は見えないところで「新人狩り」を見張っているようだ。残念)に所属証明を提示し、昨日と同じく大乱闘をスルーした。
もうあれには関わりたくない。命がいくつあっても足りない。幸いC組のアイドルしーちゃんも、一昨日の朝以降、裏山経由で登下校しているそうだ。ちょっと遠回りになるが「新人狩り」に関わるくらいなら安いものだ。
それにしても、本当に身体が痛い。
「じゃあな、一之瀬」
「十回でもいいから腕立てくらいやっとけよ」
早々に放課後となり、柳君と高井君が連れ立って帰宅。いつもなら僕も入るが、「『新人狩り』を避けるために同好会に入ったから」という説明をしているので、今週いっぱいは誘われないし、僕も帰れない。
掃除ジャンケンを勝ち抜き、僕は教室を出た。背後で、黒光りする肌が眩しい、最近柔道部に入ったイケメングループの一人、ジャンケンの弱い大喜多君が「誰か助けろー」と叫び声を上げていた。どうやら今日も負けたらしい。……大喜多君は、最初にグーを出す癖があって、みんな知ってるんだよね。いつ気付くのだろう。
そういえば、だ。
やるつもりも確かめるつもりも怖いもの見たさで訊いてみるつもりもないが、放課後のONEの会への集まりは、僕は特に来るようには言われていない。
言い方だけじゃ誤解を生みそうだが、僕は自発的に通っている、ということになる。
だが、行かなかったらどうなるのだろう?
そんな疑問もなくはないが、それを試してみるつもりはない。
というのも、先輩方がどんな動きを見せるのかわからない。その事実が大きかった。
果たして基本的にアクティブなのか? パッシブなのか?
その傾向によっては教室まで迎えに来る可能性がある。
想像してみてほしい。
身長百八十オーバー、体重百キロは超えるであろう、服の上からでもわかる鋼のような筋肉ムキムキの大男、どこかの国の傭兵でゲリラ戦が得意と言われても疑う余地がないようなゴリマッチョ・五条坂先輩が堂々やってきて、クラスメイトが何事かと注目している中、しなを作って「一之瀬クーン★ 来ちゃった★」とか言った日には……言った日にはっ……ぐっ、ダメだ! 僕の脳みそがっ、身体がっ、これ以上の想像を拒否してやがるっ!
とにかく、いらない噂が立つこと請け合いである。
まだ一年生の一学期、今後の高校生活を左右しかねない大事な時期でもある。だから、そういった噂は、やはり避けたい。よって僕は逃げるという選択肢を最初から捨てていた。素直に歩んだ方が方々丸く収まるだろうから。
いい人たちなんだけどね。わりと。キャラが濃いだけで。
月曜から水曜の放課後、もう三回ほどONEの会の部室にお邪魔させてもらっているわけだが、時々五条坂先輩の言動がヘヴィー級のボディブローのように鳩尾に突き刺さるのを気にしなければ、案外普通に付き合える。
今なら言える。
僕はあの人たちが嫌いじゃない。どっちかと言えば好きだ。……性的な意味ではなく。いや念のため。
最初は人目を憚っていたが、今はそんなに気にならない。たぶん慣れたんだろう。
周囲に誰がいるとか伺うこともなく、旧クラブハウスへ向かい、迷いなくONEの会の部室の前に立った。
仮入会は土曜日までだ。
それまではちゃんと通おうと、最近は結構前向きに考えられるようになった。一皮剥けたからだろう。……下半身的な意味ではなく。
僕はドアノブを握り、ドアを開いた。
「ちわっ……おぉ」
「え?――きゃっ」
おぉ……おぉ、神よ……神よ、神よっ……神、神よ…………神よ……!
「んもう。一之瀬クンのエッチ★」
God is derd.
僕は世界を呪う。
悪魔よ、僕に兵器をくれ。この狂いきった残酷なる世界を浄化する力を与えてくれ。たとえ世界一の大罪人になろうとも構わない。たとえ世界中の人間に軽蔑されても構わない! それが叶わないならせめて僕の記憶を消してくれっ……!!
――いや、やってる場合じゃないな。
ケツだよ。うん。
五条坂先輩がパンツ履き替えてる最中だったんだよ。
身長百八十オーバー、余裕でK-1とか出られそうなむくつけき男のケツが丸出しでこっち向いていたってだけだよ。ああ、うん、それだけさ。正直男のケツなんてどうでもいい僕にとっては、ケツ見たことよりケツ見られた五条坂先輩の悲鳴と、上も裸だったので胸元隠すしぐさと照れたような表情の方に世界を呪いたくなっただけだよ。それだけだよ。
僕は今朝の妹張りに冷徹に、部室に入りつつ言った。
「いいから着替えてください。早く。迅速に」
「え、え? 入ってきちゃうの? ちょっとぉ。外で待っててよぉ。どんだけぇー」
五条坂先輩は主張とは裏腹にきゃーきゃー嬉しそうだった。
……知ってるんだよ、こうした方が五条坂先輩は喜ぶってさ。
別に知りたくもなかったけど。
あの人は結構Mだから。
……そんなこと知りたくなかったよ……!!
「……」
僕から死角になっていた入り口の脇から、誰かが出てきて僕の腕を取った。
先に来ていた超イケメン・東山先輩である。……なんか露骨にむくれている。きっと僕が五条坂先輩の裸とかケツとか見ちゃったから「ほかの娘見ないで。私だけ見て。もう。やきもち焼いてるんだゾ★」というポーズなのだろう。……自分で考えてエグすぎて胃酸が逆流するんじゃないかと思ったが、まあ当たらずとも遠からずだと思う。
東山先輩は、なぜか僕を気に入っている。そしてこの三日間、僕は先輩の声を聞いたことがない。恥ずかしがりやかどうかはあやしいが、無口なのは確かだろう。
それと、この先輩は女装もしない。
「先輩は着替えないんですか?」
「……」
なんとなく問うと、首を横に振った。
「その子は着替えないわよ。タチだから」
振り向くと、五条坂先輩は着替え終わっていた。市販のバナナくらいあるんじゃないかって太い指でネクタイをいじりながらこちらを見ていた――紺のベストとブラウス、チェックの赤いミニスカート……今日は女子高生風ですか……相変わらず五条坂先輩の女装は鳩尾にズシンと重いぜ……!
「たち、って?」
「ああ……攻めって言えばわかる?」
攻め? ……攻め……攻めっ!?
ま、まさか、東山先輩は僕のケツ狙い……いや、待て。
僕が東山先輩に身体を許す(この表現は我ながらどうかと思うが)のは、東山先輩に、こう、みだらだったりふしだらだったり、エロティカルな意志を感じなかったからだ。一切。たとえるなら、父親に甘える女の子のような感じで邪気や下心を感じない。
本物のみだらな邪気は、目の前の傭兵部隊の隊長みたいにゴツイ女子高生もどきに幾度となく向けられたアレだ。そして身も心も蝕まれた者としては、東山先輩にはまったく危険を感じない。
もしかしたら、始めてここに踏み込んで東山先輩を見た時も、案外そんな安心感を得ていたからかもしれない。
僕も、その、こういう趣味嗜好というか、これまでこういう生き様の人たちに触れたことがまったくなかったから、いまいちどう解釈すればいいのかわからないのだ。
まあとにかく言えることは、話は通じる。
だから僕はここに通える。
それだけだ。
「前原先輩はまだですか?」
「ええ。真面目に掃除でもしているんでしょ」
なるほど。
僕らは思い思いの椅子に座り、適当にすごす。
このONEの会、特に活動内容がないらしい。
強いて言うならメンズ雑誌をめくっては「この男タイプだわぁ」とか「こういう男ダメ!」とか、某おす●とピー●を彷彿とさせるテンションで、男の品定めをしつつだべるのが主な活動なのだそうだ。僕は男ではなくファッションを見て過ごしているが。「胸毛がセクシーよね」と同意を求められても答えられません。
普段の活動はあってないようなものだが、学園祭では針係として演劇部の衣装を縫ったり、自分たちの出し物として服を作ったりするそうだ。
「歴史ある部じゃないからね。今年はどうなるのかわからないわ」
「そうなんですか」
「それに、私が卒業した後も、ね」
そうか。確か同好会は三人からしか受け付けないんだよな。
三年生である五条坂先輩は卒業するとして、来年から前原先輩と東山先輩はどうするんだろう。
「それより一之瀬クン、考えてくれたぁ?」
うぉ、五条坂先輩が甘えるような胃にズンと来る声を……!
「うちに本入会するハ・ナ・シ★」
「お断り申し上げます。何度問われてもお断り申し上げます」
「一気に二度も拒否ったわね……」
「断るでござる」
「え、武士!? なんで武士!?」
ほんとそれだけは勘弁して欲しい。
僕はこの人たちが嫌いじゃない。むしろどっちかと言えば好きだ。
でも僕はノーマルだ。
そしてここに来た時の想いは今も変わらない。
「ここは先輩たちの聖域でしょう? 僕の居場所なんてないじゃないですか」
五条坂先輩は重苦しい溜息をついた。
「それを言われると、無理に誘えないわねぇ」
なんとなく無言になった。
化粧に余念のない五条坂先輩と、僕に寄り添う東山先輩。だが沈黙はそこまで続かず、すぐに前原先輩がやってきた。
「ごめんなさい、遅れちゃった」
前原先輩が来たのを合図に、いつものように取り留めのない話をする。
お菓子が配られジュースが回り、それなりに楽しい時間を(五条坂先輩のセクハラ付きで)過ごす。今日は前原先輩は着替えなかった。望むところだ。
どうでもいい、だが大切な時間を過ごしていると、ふと前原先輩が言った。
「そういえば一之瀬くん、ノーマルなのよね?」
「え? はい、そうです」
「じゃあ、なんでうちの高校に来たの?」
「ああ、そうね。駅二つ向こうに共学校があるわね。偏差値もそんなに高くないし、向こうでも良かったでしょう?」
ふ……そうだった。
このバカだらけの高校での日々が忙しすぎて、聞かれるまで忘れていた気がする。
そう、僕がこの八十一高校を選んだ理由は、当然男子校に通いたかったからではない。むしろ男子校なんて異常な環境だとさえ思うのだから。
「八十三町の九ヶ姫女学園」
五条坂先輩と前原先輩は「ああー」と納得し、東山先輩は自分を主張するように強く僕に引っ付いた。……ちょっと暑い。
「九ヶ姫狙いね。ああ、そう。わっかりやすいわねぇ」
五条坂先輩は冷やかすようにニヤニヤ笑う。本物の女子高生だったらと願わずにはいられない。
――私立九ヶ姫女学園。
有名な小中高から大学まで一貫しているお嬢様校だ。清廉潔白、清楚にて可憐をモットーに、ホットパンツでちょっとケツとかパンツとか出ても全然平気な今時の女子高生とは違う、古き良き大和撫子が今でも息づくという希少価値の高い女子校である。……まあ僕はホットパンツも決して嫌いではないけど。むしろ好きだけど。大好きだけど。チラ見せも含めて好きだけど。むき出しになった太股も見ちゃうけど。
その有名女子校が、この八十一高のすぐ近くにあるのだ! その事実を知った時、僕は狂喜に震えたね! 狂喜乱舞したね! イェーイって言ったね!
「でも一之瀬クン……」
いつもやたら明るい五条坂先輩の顔が曇る。憂いを帯びた男の顔として見るとなかなか渋い。
「……あなたちょっと、お顔がお嬢様受けするタイプじゃないわ……」
「かっこよくないことくらい知ってますからほっといてくれます!? 憧れるくらいいいでしょ!? 夢くらい見させてくださいよ!」
というかあなたがよくそれ言えたな! あなたが男捕まえるより僕が女捕まえる可能性の方が高いと思いますけど!?
前原先輩が笑いながら僕を指差した。
「超必死♪」
「それもほっといてくれます!?」
ああ必死さ! 彼女欲しくて必死さ! でもいいじゃないか必死でも! あと東山先輩、さすがに顔近づける不満アピールやめてください! 下手したらA的な意味で事故ります! あなたは良くても僕はさすがに嫌です! 始めての相手が男なのは嫌です!
……とまあ、ONEの顔の部室で、毎日こんな風に過ごしているわけだ。
幸い隠し通したかった筋肉痛のことは、僕自身も忘れていた。それなりに楽しいからだろう。
そして、あたりまえのように僕は知らなかった。
今こうしてちょっとアブノーマルな平和を謳歌している間に、ある陰謀が動きつつあることを。
僕の知らないところで、僕を中心にして。
新たな絶望が忍び寄ろうとしていた。