143.――She said,"He is special." 九月二十三日 金曜日
「詳しくは聞いていないけれど、あなたは特別だ、って話よ」
簡単な自己紹介を終えた後、九ヶ姫女学園の女性教諭・香取先生はそんなことを言った。
香取先生。きちっとベージュのスーツを着た、落ち着いた大人の女性だ。
やや地味な印象はあるが美人だと思う。化粧も薄く佇まいも控えめで、清貧という言葉と教師という職業がよく似合う。歳はたぶん三十歳前後だ。……この人を見て思ったのは、八十一高校の体育教師である魔女こと中野先生がどれだけ異常かってことだ。あの人、子供いるのに弥生たんより年下に見えるからね。
この人は歳相応だ。……と思う。
女性の年齢なんて聞かないし、聞く気もないから実際はどうだかわからないけどね。
だいたいの待ち合わせ時間である十一時を少し過ぎた頃、校舎から出てきた香取先生が僕の前にやってきた。てっきり追っ払われるかと心配したが、この人が学園の案内をしてくれるらしい。
香取先生が詰め所にいる警備員に話を通し、晴れて僕は九ヶ姫女学園の敷地内へと踏み込んだ。
……こんな周囲からバシバシ非難げな視線を感じる針のむしろ状態じゃなければ、それはそれは心ときめかせて「僕こんな脈拍早くなってるんだけどトキメキで心臓麻痺起こして死ぬんじゃないか?」なんて嬉し恥ずかしいことを考えたことだろう。
うん、今は違う意味で心臓麻痺起こすんじゃないかと思ってるけどね!
この胃に穴が空きそうなほどの居心地の悪すぎるプレッシャー……二時間もここにいたら頭の毛が十円間隔くらいで抜けると思う。抜け散らかすと思う。
「特別って何がですか?」
歩き出してすぐ、香取先生は「僕は特別だ」と言った。だが僕はいたって普通の男子である。特別などという言葉から一番かけ離れている存在だとさえ思う。
特別ってのは、良し悪しに関わらず普通じゃない、ってことだから。
「私が言ったことじゃないから、正確な意味はわからないわね。でも特別だと思われているから、私が迎えに行くよう頼まれたのよ。生徒同士の話し合いに来たんでしょう? それなのに教師を引っ張り出すんだから、相応の意味があると思うわ」
……ですよねーアハハ。
うん、ちょっとは考えていた。
僕はあくまでも天城山飛鳥と話をしにきた。なのに、交渉を行うに当たって提示された条件から今教師に案内されている現状までを考えると、これは一生徒ではなく九ヶ姫女学園としての対応だろう。
なんなら校門の前でサラッと済ませてもいい話なのだ。個人的な話を個人同士でするだけなのだから。僕が個人的に天城山飛鳥に頼む、という形になるのだから。
でもこの扱いはもう、八十一高校と九ヶ姫女学園の交渉という、かなり大きな事件になってしまっている。
そして恐らくは、一対一で話し合う場は設けられない。
そう、確か――
「天城山さんは、生徒会の人間でしたよね」
「ええ、そうよ」
――つまり僕は、これから、九ヶ姫の生徒会を相手に話をしなければならなくなる、と思う。
一対一で話すだけなら、ここまで大事にはしないだろう。
それに、だ。
「今日はお休みですよね? どうして九ヶ姫の生徒が多く登校しているんでしょう?」
「文化祭の準備よ。――もっとも休日登校までするほど遅れているクラスはないはずだけれど。何か用事があるんでしょうね」
……この人、隠す気ないみたいだな。話せないことは沢山あるみたいだけど。
口調や態度、それに面白そうに笑っている顔を見るに、僕の敵というわけではなさそうだ。聞いたら色々教えてくれるかもしれないが、校舎に入ったらこんな風に話せなくなるかもしれない。
晴れた日ならさぞ綺麗に見えたのだろう、よく手入れされた芝や背の低い木々……いつだったか閉まっていた正門から覗き見た九ヶ姫女学園は、門から校舎の間にちょっとした公園のようなスペースが設けられている。噴水とかあるからね。敷石は歩きやすい煉瓦調で、校舎も赤煉瓦作りである。
門から校舎まで結構距離があるが、もうだいぶ近くなってきている。
話せる機会がまだ続くとは限らないので、一つくらい、どうでもいいことではなく有意義そうな質問をしてみようか。
「僕がここに来た理由は聞いてますよね? 香取先生のご意見は?」
「そうねぇ……」
香取先生は笑いながら、少し考える仕草で雨が降る空を見上げた。
「楔は入っていると思うわよ?」
「くさび?」
というと……何かと何かの間に詰める物だよな? 割ったりくっつけたりするために必要なものだ。言い換えると「要」でもいいかもしれない。
「一之瀬君はもう、前例を成功させているでしょう? 私はそこにいて、あなたを見ていたのよ?」
前例?
というと……あれしかないよな?
「肝試しですか?」
「そう。あなたはもう楔を打っている。――それがさっきの質問の答え」
……なるほど。
確かに噂は聞いていた。あの肝試しには「九ヶ姫の先生が見張りとして来ている」となんとか。それはきっとこの香取先生のことだったのだろう。
そして先生はどこからか、あれを計画した僕を見ていた……と。
僕は全然気づかなかったが、どうやらアレで、僕は多少この先生から信頼を得たのだろう。
この人はどっちかと言うと味方だ。
生徒たちは別として、九ヶ姫の教師陣には取り付く島も無いってレベルで嫌われていると思っていたから意外だが、この人は味方だ。
だって、もし敵なら案内役なんて引き受けないから。
そしてこの人に僕の案内を頼んだのが天城山さん……というより生徒会かな? 生徒会が頼んだ以上……恐らく、きっと、交渉の答えはもう出ている気がする。
「はっきり口に出さないのは、やはり立場的な問題があるからですか?」
「それもある。でも本心は、」
来客用玄関に踏み入り、香取先生は傘を閉じた。
「正式な生徒同士の話に教師は不要でしょう?」
そのセリフに痺れた。
いつか弥生たんが、言葉は違うが内容的に似たようなことを言っていたから。
こんなところで、こんな状況で、いつもだらしないあの担任の言葉を思い出して励まされるなんて思わなかった。
――生徒の祭りに大人の出る幕はない。
こと祭りというキーワードにおいては、ゲーマーで放任主義で説教より愛のムチを好む荒んだ男子校で教鞭を取るうちの弥生たんと、どこまでも上品で生徒からの信頼も厚いであろうお嬢様学校で教鞭を取る香取先生は、同じ意見を持っているわけだ。
なんというか、ちょっと意外だ。
……また恩師に差し入れでもしようかな。たぶん冬休みも補習やるだろうし。
外来用玄関から校舎に上がったところで、そこで待っていた月山凛と清水さんに会う。
「先生、ここからは私たちが」
「ええ。九ヶ姫女学園の生徒として、お客様に失礼のないようにね」
清水さんの言葉に僕の受け渡しを了承し、「それじゃあ」と僕にも挨拶して香取先生は行ってしまった。……やはりここからは生徒が案内を引き受けるか。こういう流れもあるんじゃないかと思っていた。
一応香取先生の意見を聞けてよかったな。総意では絶対ないが、教師陣総員断固として超反対、というわけでもないというのがわかったのは、ちょっと嬉しい。気分的に楽になった。
だって僕がこれからやろうとしていることは、「男子校に遊びに来てよ」と、箱入り娘も多いであろう九ヶ姫の女生徒たちに悪魔のささやきを漏らすがごとき所業だから。
僕が九ヶ姫の先生だったら、助走付けて殴り飛ばして追い出すくらいするかもしれない。やったあとで「不審者と間違えた」なんて苦しい言い訳を貫き通すかもしれない。……まあそれくらいしたいのは僕が男だからかもしれないが。
香取先生を見送り、僕らも移動を開始した。
「ごめんね」
清水さんが言った。
「だいぶきつかったでしょう? 私、男子校の前で同じことをやれって言われたらたぶん無理」
やはりあれらの交渉条件とさっきまで味わっていた孤立無援状態は、故意に起こされたものだったと。
だが一つ訂正しなければならない。
あの状況を作り出した理由は、悪意ではない。
正解はまだわからないが、悪意ではないことだけは確信している。
「そう? 私はできるけどね」
「凛は下心があるからできるんだよ」
「そう言われるといやらしい感じがするね?」
「実際いやらしいからいいじゃない」
「えっ!? 清水ちゃん私のこといやらしい娘だと思ってたの!?」
「だって三言目には柳くんのケツを追いかけたい旨の発言が五割くらいの確率で発せられるし」
「いいじゃん別に! 柳くんのケツは私が予約済みなんだから!」
この二人は相変わらずだなぁ。すごくほっとする。……でもケツとか言うな。
口を挟む必要がなくなったので、二人の漫才を聞きながら周囲を見る。
校舎の外観は新しい感じだったが、中は温かみのある木造である。歴史的にも古い九ヶ姫女学園なので、安全性を考慮して外装や梁や柱や、建物を支える部分だけはリフォームしたりしたのかもしれない。……巧の仕事かな? スペースを上手く利用した物置とかこっそり作られてやしないだろうか?
多くの女生徒の視線を浴び、擦れ違いながら、三階へと上がる。
僕はこの時、心底思ったね。
――イェーイ! 今現在九ヶ姫女学園に男子は僕一人! イケメンもフツメンも羨ましいだろー!……と。
でもね、当事者になってみるとね、あんまり嬉しくはないんだよ。
むしろ胃がキリキリしてくるんだよ。
ちょっと気を抜くと膝からストーンと崩れ落ちて泣き出しそうになっちゃうんだよ。
早めに交渉を終えて帰りたいところだが、……なんだか長引く気がするなぁ。
この時間、午前十一時前後を待ち合わせ時間に指定した理由は、昼を跨いで午後までじっくり時間をかけるから……って気がするんだよね。
でも、こっちから話すことなんてそんなにはないんだけどな……
僕が色々考えている間に、最終的に月山さんが清水さんのパンチを食らった時、僕らはそこにたどり着いていた。
生徒会室。
まるで中にいる人たちの持つ緊張感が漏れ出しているかのように、その年季の入った木製のドアは、近寄りがたい雰囲気を発していた。
「凛、ちゃんと立って」
「……ごめん無理……今清水ちゃんにアバラの下から内臓えぐられたから……」
うん。ドズッ、ってサンドバックを殴った時のような音がしたから。そしてあれは八十一でも危険視される角度からのボディブローだったから。
……清水さん、惜しい逸材だぜ。これで男に生まれていて八十一に通っていたら、うちの学校を応援団ごとシメて頂点に立っていたかもしれない。もしくは僕がアイパッチおじさんだったら今まさにボクシングの世界にスカウトしてるところだ!
壁に手を付いてわき腹押さえて中腰になっている超美少女を、失笑して「だらしない」の一言で切り捨てた清水さんは、僕の心の準備も待たずに生徒会室をノックした。
「失礼します。お客様を連れてきました」
「どうぞ」
中から許可の声が聞こえると、清水さんは僕を見た。
「私たちは一応同席を認められているけれど、どうする?」
同席。
どうする、って。
それはもちろん――
「ありがとう。でも一人の方がいい……かも」
かなり自信なさげで情けない顔をしていたと思うが、清水さんは笑って「確かにその方がいい、かもね」と頷いた。
清水さんが開けたドアから、僕は「失礼します」と一人室内に踏み込んだ。
まず紅茶の匂いと室内の温度が、僕の身を包んだ。雨のせいか今日は少し寒かったので余計にそう感じられたのかもしれない。
ここまで歩いてくる間に見た教室と同じくらいの大きさで、違うのは中央に大きな円卓が置かれていることだ。何人がけだろう? 少なくとも六人以上は座れると思うが。シミ一つ無い白いテーブルクロスが掛けられ、中央には控えめに花が活けられていた。
そんなテーブルには、四名の女生徒が座っていた。
一際目を引くのはやはり天城山飛鳥だが、他の三人も負けていないくらいの魅力を放っている。
その中の一人が……うまく言えないが、品を感じさせる所作で立ち上がり、微笑んだ。
「――九ヶ姫女学園にようこそ」