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絶望高校帰宅部  作者: 南野海風
五月
14/202

013.五月十一日 水曜日




 眠い。

 とにかくひたすら眠い。

 耳をつんざく目覚まし時計を止めれば、代わりに外からスズメのさえずりが聴こえる。歌うように、踊るように、その声は軽快で小気味良い。

 ――よし。

 意識が半分眠っていて、残りの半分が「もう少し寝ようや」と睡魔とタッグを組んで僕をベッドに縛り付けようとするが、なけなしのやる気を使って勢いよく飛び出すことで魔の手を逃れた。


 フローリングの床が冷たい。少しだけ眠気が醒めた。寝間着の長袖シャツを脱ぎ、立ち上がる。昨日の内に用意しておいた中学時代のジャージに着替える。このジャージは間に合わせだ、近い内にちゃんとしたものを買いに行こうと思う。靴下を履き、充電器に刺さっている携帯をポケットに突っ込み、伸びをしながら部屋を出た。

 洗面所に向かい顔を洗って歯を磨く。

 これで身支度はできた。


 玄関へ行き、これまた昨日のうちに用意しておいた中学時代の運動靴に足を突っ込んだ。このくたびれもせず汚れはそこそこの運動靴こそ、僕が中学でどれだけの運動してきたかを物語っている――サイズが合わなくなって三年生の時に買い換えたけれど。まあとにかく完全に運動不足であることは間違いない。


「……うるさいよ」


 スリッパを引きずる音から、誰かが近付いていることには気付いていた。背後からの声に僕は振り返る。


「ごめんな」


 妹である。

 妹は寝間着だった。僕と同じように長袖シャツを着た楽な格好で、完全に起き抜けらしく頭は寝癖でボサボサだった。特に後頭部の毛の逆立ちっぷりがすごい。

 たぶん、僕の部屋でわめき散らしていた目覚まし時計で、目を覚ましてしまったのだろう。部屋が隣同士だから。

 妹は眠そうにまぶたを擦る。


「どこ行くの?」

「ジョギングだよ。今日から始めるんだ」

「へー」


 昨日の「新人狩り」で僕は思い知った。自分の肉体的弱さを。

 というか顔にピンポン食らってすっ転ぶほど軟弱なんてさすがにダメだろう、と。


 僕はしゃがみ、片膝をついて靴紐を結ぶ。

 これから先、八十一高校ではバカな習慣や伝統やその他諸々で、きっと僕は振り回される。それもちょくちょく振り回されるだろう。だから本気で身体を鍛える必要があると思ったのだ。昨日のように、自分の力ではどうにもならない、どうにもできないピンチの時、そうそう都合よく柳君や高井君が助けに来てくれるはずがない。駆けつけてくれるはずがない。というか助けを期待するのもたぶんダメだ。頼りにするのはいいかもしれないが、頼りすぎるのは絶対よくない。


 というより、僕も彼らが困っていたら、助けになりたい。守られるだけなんて絶対嫌だ。彼らが友達として僕を守ってくれるなら、僕だって友達として彼らを守るべきだろう。

 残念ながら僕には強靭な肉体はない。運動神経的な問題もあるだろうから、鍛えたところであの二人には追いつけないかもしれない。


 でも、何もしないよりはましだ。

 幸い帰宅部、多少時間の捻出はできる。

 だから今日から走ることにした。

 つまり逃げ足を磨くことにしたのだ! 彼らを守るために、まず自分の身を守れるようにならないとね!


 きゅっと紐を引き、気合いを込めて固く結わえる。これで準備完了。今自分にかつてないほどのやる気が満ちていることがわかる。


「妹よ……」


 僕は立ち上がり、右手の親指を立てて振り返った。


「僕はやるぞ!」


 返事はなかった。

 だって……そこにはもう誰もいなかったから。

 廊下の奥でがちょんと冷蔵庫を開く音が「早く行け」と言っているように聴こえた。


 ……まあ、知ってたよ。

 僕の妹はそういう奴だってさ。こういう時だけわざわざ足音消して移動するんだからさ。だから別に悲しくないし。別にこれが一之瀬家の普通だし。ほんと平気だし。





 表に出てみた。

 いつも起きる時間より一時間早い朝。

 少し肌寒いが、身体を動かせばすぐに気にならなくなるだろう。人気はない。なんとなく空気が澄んでいるように感じられる。今日も快晴、はるか彼方に純白に輝く大きな入道雲があるだけだ。でも確か今週末は天気がくずれるとかテレビで言っていた気がする。


 さて。

 屈伸したり身体を捻ったりして適当な準備運動をすると、僕は歩くようにゆっくり走り出した。

 もやしっこな見た目通り僕は体力がない。だから無理をせず、最初はペースを落として長く走ることを意識してやるつもりだ。中学時代のマラソン大会では後日必ず筋肉痛になっていた。年一回のことならそれもいいかもしれないが、継続しなければいけない以上、最初はゆるくてちょうどいいと思う。


 ……それに、今「身体が痛い」だの「筋肉痛で走れない」などという困った状態になろうものなら、ONEの会の三人が、特に五条坂先輩が僕を放っておかないだろう。

 おお、考えるまでもなく暗雲たちこめる未来が見える。

 あのムキムキのマッチョが「湿布を貼ってア・ゲ・ル★」などと善意を盾にして嬉々として僕の衣類を剥ぎ取っていく未来が見える……僕の抵抗する力、抵抗する拠り所(服)を一枚一枚無常に奪っていく様が手に取るようにわかる! なんとおぞましき未来だ! そしてその後僕は確実に前原先輩に女装させられ、東山先輩にむきだしの太股撫でられたりするだろうよ!


 僕は首を振った。

 朝も早くから頭に浮かんだ、縁起の悪い未来予想を振り払うように。


 八十一町と八十三町を隔てる八十一大河を上って行く。河沿いのこの道は、ジョギングコースとして使える公園として市が管理しており、とにかく車が入らないのがいい。

 ウォーキングしている老夫婦より若干速いくらいのスローペースを維持し、登校時に曲がる交差点をまっすぐ進路を取った。あそこを曲がれば八十一商店街なのだが、向こうは帰りに通ろうと思っている。商店街入り口には恰幅の良い大柄のおっさんが不似合いなくらい小さな犬を散歩させているのが見えた。確かミニチュアダックスって犬種だったかな?


 しばらく行くと、遠くに八十一町と隣町とを繋ぐ八十一大橋が見えるようになった。あそこが今日の目標地点だ。このペースなら二十分から三十分くらいで辿り付けるはずだ。

 スローペースとはいえ運動不足の身体である。早くも額に汗が浮かび、身体が熱を持ち、それなりに息も切れてくる。寒さはもう気にならないが、代わりに暑くなってきた。


 ――うん、これなら続けられるかもしれない。

 想像以上につらくない。マラソン大会のように義務ではなく、自発的に走っているせいかもしれない。それともペースが遅いからだろうか。


 遠かった八十一大橋が徐々に近付きつつある中――風が僕を追い抜いた。

 長袖の赤いジャージに赤い短パン。すらっと伸びた白い足。僕の履いている学校指定のホワイト一色運動靴のダサさをはるかに凌駕したカラフルなカッコイイ運動靴は、もしかしたらバスケットシューズかもしれない。明るい栗色の髪は短く、一歩一歩に合わせて躍動する。


 僕を追い抜いたのは女の子だ。それもたぶん同年代。

 まあジョギングくらい女の子だってするよな、と思いつつぼんやり見ていると――その女の子が走りながら肩越しに僕を振り返った。


  ニヤリ


 笑った。

 確かに笑った。

 見間違いなんかじゃない。

 なにせその笑いは、さわやかな柑橘系の香りが漂うようなあまずっぱい笑顔ではなく、嘲笑だったからだ。


 ――小六頃から妹が僕を見る目に似ていた。

 要するに、絶対に見間違いや勘違いなどではないということだ。


 恐らくは、奴の心の中では、こうだ。

 「男のくせにそんなスローペースで走ってるの? ださーい。そのシューズ何? ださーい。つか全体的にキモーイ。あとくさーい」と。


 あの笑いには、絶対にそんな意味が含まれていたはずだ! 何せ小六頃から妹が僕に言っていたことだから間違いようがない!


 つまり、アレだね?

 これで走らない奴は男じゃないってことだね?

 やったろうじゃねえかこらぁ!


 僕はペースを上げた。全力疾走に近いレベルで一気に上げた。血が巡る。身体が酸素を求め、心臓がどんどん速くなる。

 そして、無警戒だった赤ジャージを簡単に追い抜いた。きっと僕が追いかけてくるとは思ってもいなかったのだろう。よっしゃあ!


 今追い抜いた背後の足音が、即座に速くなった。

 赤ジャージは僕に釣られるように速度を上げ、僕の隣に並んだ。すごい。貧弱とは言え僕は男で、しかも全力で走っているのに。それに難なくついてくる。

 いや、追い抜いて行けないから、難なくではないのかもしれない。


 ――同レベル。


 そんな言葉が浮かんだ。

 もちろん男と女である。無遠慮に横一列に並べて比べるものではないだろう。率直に僕より赤ジャージの方が運動はできるんじゃなかろうか。

 でも、この勝負は男も女も関係ない。

 だいたいケンカ売ってきたのは向こうだ。不公平だなんて言わせない。


 全力だった。

 本当に全力で走った。

 息切れも気にせず、とにかく意地だけで走り続けた。

 メタボ気味のおっさんを追い抜き、角から出てきたジョガーが僕らの剣幕と速度に驚き引っ込み、散歩中の大型犬が落ち着いて僕らを見送り、やんちゃな中型犬は僕らを追いかけようとテンションを上げて吠え立てる。景色が飛ぶように過ぎていく。酸素が欲しくてたまらない。


 八十一大橋は、すぐそこだ。

 あと三十メートル、二十五メートル、二十、十五……


 赤ジャージはついてくる。しかし僕を追い抜けない。それは僕も一緒で、赤ジャージを引き離すどころか、一馬身も前に出ることが出来ない。

 まさに互角だった。

 だが、僕の身体はかなり限界近い。膝が折れそうだ。これ以上は、維持することさえ難しい。

 ――だから使おうと思う。


 さあ、絶望を考えろ。


 想像しろ最悪を。妄想溢れる十代半ば、思春期男子よ、想像をリアルに描け。

 僕は走っている。

 全力で走っている。

 なぜ?

 なぜ走る?

 追われているからだ。

 何に?


 僕の頭には、両手を広げキスを迫る五条坂先輩が具現化した。


 背筋が凍る! そして這いよる絶望から逃げるために僕の身体は限界を超えた!


 ほんの一瞬、時間にして二秒以下、距離にして五メートル、僕は世界最速の男より速くなる――僕調べの僕比で。まあ気合い的な意味で。


「うおっしゃああああ!」


 わずかに、たぶん二十センチほどのリードを取って、僕は八十一大橋というゴールを駆け抜けた。足を止め、思わず両拳を固めガッツポーズ。だらだら出ていた汗がはじけた。

 このガッツポーズは、赤ジャージとの勝負に対するものではなく、五条坂先輩から逃げ切ったことに対する勝利の雄たけびだった……妄想だけど。


 絶望のイメージは、いわゆる火事場の馬鹿力に類するものだと思ってくれればいい。ONEの会で強烈に迫る先輩方から身を守るために最近生み出した一種の自己暗示だ。僕の身体は絶望を想像すると、ほんの少しだけ無理に答えてくれるのだ。昨日の「新人狩り」でも割と同じ原理が適用されていたと思う。

 ただの自己暗示でもいい。オカルトでもいい。小学生のごっこ遊びのような幼稚なものでも構わないし、ただの思い込みでもいいさ。この身が守れれば。この貞操が守られるのならば、喜んでそれを受け入れよう。


 傍目も気にせず吠えた僕を、明確なゴールを知らず走っていた赤ジャージが、呆然と前方で立ち止まっていた。

 栗色の前髪が汗に張り付き、目元を隠すような陰険な髪型になっていた。


「……チッ」


 聞こえたのか、態度でわかったのかは自分でも判断がつかない。だが赤ジャージは確かに舌打ちすると、そのまま八十一大橋を超えて八十三町の方へと駆けて行った。


 フッ……勝った!





 そして僕は、日課にしようとしていたジョギングを、二日目で休んだ。

 なぜって?

 ひどい筋肉痛的なことになってしまったからだ。

 ムキになって走るんじゃなかった。


 ONEの会、どうしよう……僕はついに裸にされるのだろうか……









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