133.九月十三日 火曜日
彼女の存在を目にした瞬間、僕は色々な意味で窮地に立たされたことを悟った。
なんで、とか。
どうして、とか。
そんな疑問はさておき、とにかく重要なのが、自分がすでに新たなる事件に巻き込まれているということだ。それを瞬時に理解できたのは、やはり境遇から発達した危機察知能力の賜物だろう。
僕は、すでに事件に巻き込まれたことを自覚しているがゆえに、もう避けられないことも自覚している。
選択肢はただ一つ。
――さあ、行こうぜ。地獄へ。
八十一第二公園の出入り口付近に、二十名くらいの人垣ができていた。といっても、いるのはここを通学路にしている八十一高校のむっさい野郎どもばかりだ。
通学の途中で迷子の幼女でも保護しようとしてるのかな、としか思わなかった僕は、同級生やら先輩やら入り乱れているその人垣を素通りしようとした。
だってこの状況で、僕の出る幕はないだろう。中の様子も見えないし。
過ぎる時に「何やってるの?」とか「名前教えて」とか「何やってるの?」とか「名前教えて」とか「名前教えて」とか「俺、美少女の電話番号聞かないと一時間以内に死ぬ病気に掛かってるんだけど俺の命救ってみない?」とか「名前教えて」とか、やたら名前を聞きたがる声と命を救ってほしいという声は聞こえた。
幼女……よりは大きいかもしれない。彼らの守備範囲に入るくらいには。
でもあの人たち、というか僕らは、ほとんど女性慣れしてないので、同級生から上だと萎縮して囲むなんてできないからね。たぶん年下だろう。
朝っぱらから年下の女の子囲んでナンパするなよ……と思いながら、僕はその場を通り過ぎた。
――彼らが誰を囲んでいたか、それを知ったのは校門前に着いてからだった。
追いかけてきた自称情報通の渋川君が教えてくれたのだ。
「ヤバイんじゃないか?」と。
そこで僕は、囲まれていた女の子が柳君の妹だったと知らされ――
「ごめんお願い!」
渋川君に鞄を預け、通学路を逆戻りした。
そこはただの地獄である。
そして僕は、自らその地獄へと足を踏み入れていた。
何人か増えている人垣の隙間からなんとか中を伺うと、聞いた通り、藍ちゃんがすごく困った顔をして俯いている姿が見えた。
そりゃ困るだろう。
アイドルのお忍びショッピングがバレた時くらいのレベルで興奮気味の男たちに囲まれているのだ。これは中学生の女の子にはキツイ状況だろう。つか逆の立場で僕が女子に囲まれてもテンパるわ。……そんなこと生涯一度もないだろうけどね!
なぜここにいるのかとか、理由とか原因とか、そういうのは今はどうでもいいのだ。
今はただ、藍ちゃんを助け出すことしか、僕の選択肢はないのだから。
ただ問題があるとすれば、この状況でどう助け出すのか、だ。
だってこの状況で彼女の知り合いが声を掛ければ、僕らの関係を知られる。知られたらそれこそ地獄の扉が開いてしまうだろう。
嫉妬に狂った彼らが僕に何をするか。
色々アレしたりコレしたり紹介しろと迫ったり合コンのセッティングを迫ったりした上で、僕に……僕に「素っ裸で授業の刑」を決行してしまうだろう! ああ恐ろしい! マコちゃんのいやらしい視線が身体に突き刺さるだろう! そして弥生たんの男の自信を後押ししないさげずむような視線を想像するだけで……その……自分の新たなる可能性を見つけてしまうかもしれない!
まあ八割くらい本気の冗談はさておき、関係や身元がバレると藍ちゃんが今後も八十一高生にいらない迷惑を掛けられる可能性は高い。
できるだけ穏便に、そして迅速に処理したいところだが、さて……
あ、そうだ。
――あの人のことだから、後から事情を話せば許してくれるだろう。ダメでも鉄拳制裁で後腐れはないはず。
ここで藍ちゃんが複数名のストーカーに粘着されることになるよりは、僕が一発殴られるだけで済む方がよっぽどいい。
よし、じゃあ、やるか。
僕は少し離れたところで電柱の影に姿を隠し、大きく息を吸い込んだ。
「逃げろ! 団長が来たぞ!!」
こうかは ばつぐんだ!
彼らは蜘蛛の子を散らすかのように一目散に逃げていった。――見たか! これが僕らの団長の威光と恐怖だぜ!
あとで面倒なことになったらそれこそ面倒なので、団長にはあとで、勝手に名前を使ったことを謝りに行こうと思う。あの人は筋が通らないことは許さないだろうからね。逆に言えば、筋さえ通せば文句は言わないはずだ。溢れんばかりの男気と男の器で許してもらおう。
とにかく思った以上に上手くいった。
あれだけいた男たちが一斉に走り去ったのだ。藍ちゃんは「状況がわからない」といった表情でポツンと取り残されていた。
新たな取り巻きに囲まれない内に藍ちゃんを移動させよう!
「藍ちゃん。こっち」
「あ、一之瀬さん」
緊張感に顔をこわばらせていた藍ちゃんが、僕を見て緊張感にこわばっていた顔を崩した。……かわいいなぁ。これで彼氏がいなければなぁ……彼氏早くヤバイ性癖がバレて捨てられればいいのに。
僕は藍ちゃんを連れて、公園の中へと入った。
公園内は、普通に通学する者なら誰も通らない。ただ毎日走っている運動部のランニングには注意が必要だが。
できるだけ公園の入り口付近から見えないベンチを選び、二人並んで座る。
ふう、と溜息が重なる。
言わなくてもわかる。
僕も彼女も、ある意味窮地を切り抜けられたから安堵したのだ。
なんとなく呆けて空を見上げる。
大きな入道雲が一つ、遠くの空に横たわっている。
……ああ、やっぱ朝一で何かあると疲れるなぁ。一日の気力と活力をごっそり持っていかれるなぁ。
「制服」
「はい?」
「藍ちゃんの制服姿、始めてみた。六永館だよね」
「はい。六永館中学校です」
落ち着いた群青地のチェックのスカートに白いブラウス。青いネクタイ。学校指定のソックスも群青色で、全体的に落ち着いている制服だ。藍ちゃんは更に襟にラインの入ったクリーム色のベストを着ている。
「肌が白い藍ちゃんにはピッタリの制服だね。……ところで結婚を申し込んでも?」
「それより一之瀬さん、お話があります」
ワーオ。スルースキル発動だね!
……会話に一服の冗談を加えたい僕の気持ちよ、今は伝われ! いつも柳君が傍にいるからまだ意識しないのに、こんな美少女と一対一で話すなんて僕にはハードル高すぎるぞ!
僕は極力、隣の美少女を視界に入れないよう、努めて空を見上げる。
ほんとは網膜と記憶にガチで焼き付けたい至近距離美少女だが、それをやったら本気で好きになりそうなのでやらない。というかできない。横向けない。……今見たら藍ちゃんと目が合いそうだし。
「柳君のことでしょ?」
「はい」
「そのことを聞くために僕のことを待ってたんでしょ?」
「その通りです」
――だろうね。だと思った。
藍ちゃんには秘密だが、もしかしたら藍ちゃんが僕にコンタクト取るかもしれないからその時はよろしく、って柳君に言われていたのだ。
柳君は、自分が負けた話を妹にはしたくないのだろう。同じく妹がいる僕には気持ちがよくわかる。というか、妹じゃなくても身内には言いたくないよね。わざわざ言うことでもないしね。
しかし柳君は大人……というよりはお兄ちゃんというべきか、妹に心配かけるのが嫌なのだろう。自分からは話さないが、それを伝えることは辞さないと決めたのだ。
だから彼は、自分からは話せないが代わりに僕からは説明していい、という「よろしく」を言い残したのだ。
もし藍ちゃんが接触するようなことがあったら、僕の口から真相と、心配はいらないということを伝えてくれ、と。
まあ心配したくなるよね。
妹じゃなくても、僕だって心配になったよ。
あの柳君が、昨日、思いっきり笑ってたから。
あまりゆっくり話す時間はないので、要点のみを手短に説明した。
「く、食い逃げ……って、無銭飲食ですよね……?」
昨日何があったのか。
その説明をすれば、普通の人なら「おいちょっと待て」と言いたくもなるだろう。藍ちゃんだって今にも「ちょっ、待てよ」と似てないキ●タクのモノマネでツッコミを入れかねない怪訝な顔をしているし。
「色々言いたいとは思うけど、昨日はそれが合法でできる日だったんだ。深くは聞かないで。僕も詳しくないから」
「は、はあ……それで、兄は?」
「負けた」
そう、単純に言えばそれだけだ。
――昨日、筋肉男高井と三十三校の女生徒『|跳ねる者』が予想した通り、柳君は限界近く胃が重い状態で急に激しい運動をしたので、身体がついていかなかったらしい。
そもそも柳君は、たくさん食べた直後に運動をするなどというはしたない真似をしたことがなかったようで、やればどうなるかを知らなかったそうだ。
動けなくなるほどの内臓関係の痛みにうずくまり、そのまま捕まってしまった。
――ちなみに柳君の名誉のために触れるが、彼は絶望の亀甲縛りを受けていない。そもそもあれは捕まえた奴が逃げないようにするためではなく、捕まえた奴を放置して次の獲物をすぐ狙えるようにするため、だ。制限時間ギリギリに捕まった柳君に縄は必要なかった。
更にちなみに言わせてもらえば、誰に対しても亀甲縛りは必要ない。脱がす必要もない。普通に縛れ。
僕は柳君が負けただなんて信じられなくて、結局五時間目の授業を休んで「ユキノベーカリー」の前で柳君を待っていた。高井君と一緒に。
柳君が来たのは、昼休み終了から二十分後だった。他の捕まった連中と一緒にやってきた。
その時点で、僕は信じがたい事実を信じるしかないことを悟った。
あの柳君が負けるだなんて信じられなかった。
だが、この状況は、どう見ても彼が負けたことを示していた。
掛ける言葉が見つからないくらい動揺した。
衝撃的でもあった。
だって柳君が負ける光景なんて、一度も見たことがなかったから。
何事も軽くこなしてみせる彼は、僕の憧れでもあったのだ。柳君と友達であることが誇らしくもあった。本人には絶対言わないけど。
僕の中の柳蒼次に、敗北はない。
そんな自分勝手な幻想が崩れたというだけの話だ。
でも、ショックだったな。本当に。
柳君が僕らの前に来て、
僕は何も言えなくて、
なんとなく気まずい沈黙が流れて――
「イエー! ざまーみろ! ようやくおまえに勝てたぜ! やーいバーカバーカ!! だっせえ!!」
両手で指差しという敗者には屈辱のポーズで、高井君は柳君を笑った。そしてディスった。
――そうだよな、と思った。
柳君はどんなに高スペックでも、僕と同い年の人間だ。僕の目から見てどんなに完璧に見えても、所詮まだ高校生なのだ。
友達なら、高井君の反応が正しい。
高井君の反応は、デリカシーはまったくないが、柳君を対等の相手として見ているから。
僕は今まで、柳君を色眼鏡で見て特別視していたのかもしれない。
こんな時に言葉を失うなんて、それこそ友達じゃない。
屈辱的な言葉を浴び、……柳君は笑った。
「面白いな、高井。たまたま勝てただけで随分調子に乗っているじゃないか」
「調子に乗ってる? そーお? 別にいつも通りよ?」
いや調子に乗ってる。筋肉ムキムキのドヤ顔すげーうぜえ。
「でも一之瀬でも勝ち抜いたのにまさか柳サンが負けるなんて……あれ? これってもしかして夢かな? 俺まだ寝ちゃってるのかなぁ! 一之瀬でも勝てたのになぁ!」
僕でもってなんだよ。……いやわかるけど。
「次はいつだ?」
「あれ? まだやるの? また負けるからやめといた方がいいんじゃない?」
「いつだ?」
「来月の頭だ。学園祭と少し日程がかぶるんだよな」
「それが? 何か問題があるか?」
お、おい! 柳君が静かに燃えてるぞ! 本気すぎる目がこええ!
……ってこっち見た! こええ!
「一之瀬、今日俺はおまえに付き合った。次は俺に付き合え」
……Oh……
「――というようなことがあってね」
藍ちゃんは言葉もなく目を丸くしている。
「あの兄が、そんなつまらないことでムキになってるんですか?」
まあ確かにつまらないわな。
「なってるねぇ」
でも、男ってそんなもんなんだよね。つまんないことでムキになって意地張るんだよね。
普段の柳君なら、高井君の挑発なんて無視していただろう。あのくらいなら隣のA組のカリスマ・矢倉君の方がいつだってムカつくし。
そんな柳君が、普段と違っているというなら、間違いなく昨日の負けが原因だろう。柳君って本人曰く負けず嫌いらしいしね。
「家でもなんか違う?」
「違いますね。……よく笑ってますから。思い出し笑いしてよく笑ってますよ」
普段の兄は基本無表情で、表情の変化なんて週一回見るかどうかくらいですから、と藍ちゃんの証言。
ならば、今の柳君は兄の友達に探りを入れたくなるくらい心配にもなるだろう。……というか思い出し笑いはちょっとアレだよ柳君。あまりおすすめできないよ。たとえ超イケメンでも不気味だよ。
「家でもあの怖い目で笑ってるの?」
そりゃ災難だな。あの本気の目すげー怖いのに。
「いえ」
藍ちゃんは首を横に振り、バカやってる子供を見ている母親のような苦笑を浮かべた。
「やたら楽しそうに笑ってますよ」
「今後こういうことがあるかもしれないし携帯かメルアド交換しようよ」というもっともな僕の言葉を、「それじゃ失礼します。ありがとうございました」と余裕でかわされ、僕と藍ちゃんは別れた。
結構ギリギリになってしまったので、僕はダッシュで一年B組へと駆け込む。
半ば予想していたので、別にいい。
今朝のアレは、通学途中の八十一高生の真っただ中で行われていた。
ならば必然だろう。
ああ、わかっていたさ。
僕が藍ちゃんを連れていく姿を誰かに見られることは……最初から覚悟の上だったさ。
「一之瀬君、ちょっと聞きたいことあんだけど、ここに来て正座してくれる?」
ああ、ヤンキー久慈君の声が不思議なほどに優しいぜ……
さーて。
それじゃ、地獄を味わうとするかな!
――そして僕は、高校生活三回目のパンイチ授業の刑を執行されたのであった。
マコちゃんのセクハラ丸出しの視線を堂々受けつけながら、「結構軽い刑だったな」なんて思ってしまう辺り、僕がどれだけこの環境に毒されているかが窺い知れるだろう。
全然嬉しくないけどね!