132.九月十二日 月曜日 双
先導する『知恵ある者』は、僕の予想に反して、最短ルートを走る。
裏道は妙な具合に曲がりくねっているので、彼女はジョギングしているかのように走るスピードを抑えているが……うーん……なんというか、無駄のない綺麗な走り方をしている。それに昨日……じゃないや、土曜日に背後を取られて驚いたように、足音がしない。
彼女の足元を見ると、やや大きめのスニーカー……バスケットシューズか? 恐らくエアが効いている非常に良い運動靴を履いているみたいだ。
運動部かな? たぶん赤ジャージとは同じクラブだったりするのだろう。
「食い逃げ」という僕らを焦らせるフレーズが嘘のように、『知恵ある者』の遅い先導に気持ちが揺れる。
もっと急いだ方がいいんじゃないか?
もっと早く走らないと後ろから捕獲者がやってくるんじゃないか?
走り出して一分もしない内に、僕はそんな不安に駆られていた。
「焦らないし急ぎすぎない」と言っていた彼女が、それだけ取ってもベテランというか、場慣れしていることは薄々ながらよくわかった。今僕が抱えているような不安や心配を彼女は克服しているということだ。
しかし、逃げている以上、進行が遅いのはやはり不安だった。
ほどなく、彼女がわざと遅く走る理由の片鱗が、やっと見えた。
「おっと。ストップ」
中途半端な場所で彼女は止まり、後ろを走る僕を強制的に止めた。「どうかした?」と訊く前に、その理由がわかった。
前方から足音が聞こえ、そいつが視界に入ってきたからだ。
「――よっ。何? 迷ってるの?」
前方からやってきたのは、真っ先に店から飛び出した『跳ねる者』だった。……優等生みたいな堅そうな見た目に反して口調は軽い。『跳ねる者』だけに身も心も軽いのかもね! 『跳ねる者』だけに!
同じ三十三高校なので、どうやら『知恵ある者』とは顔見知りのようだ。
「うん、まあ。どんな感じ?」
「やっぱ九月十二日は気合入ってるね。いたるところ罠ばっか。三ヶ所回ったけど全部塞がれてたよ」
と、『跳ねる者』は肩をすくめた。――この「食い逃げ」の歴史が始まった将龍亭のイベントだけに、捕獲者たちは並々ならない威勢をもって臨んでいる……とか、そういう感じだろうか?
僕はここで『知恵ある者』の思惑を察した。
先行者たちの動向を探り、また情報を収集するためにあえて遅れていた。そういうことだろう。
……なるほど、高井君が言っていた「同じ逃走者は味方だと思ってもいい」という言葉を思い出した。
形式的に、積極的に手を組むことはなさそうだが、進路を妨害するような邪魔はしない。必要とあれば情報交換もするし、……たぶん他の逃亡者の妨害はしないが、そいつを囮に使ったりはするのだろう。
敵ではないが、まるっきり味方でもない。
それがこの「食い逃げ」に見る、逃亡者たちのスタンスのように思えた。
……たぶん山羊さんは、ヤバイ状況になったら、僕を切り捨てて逃げるだろう。山羊なのに僕を身代わりの羊に使ったりするかもしれない。
さすがに疑心暗鬼になりすぎだろうか?
でもはずれている気がしない……八十一高校で培った僕の勘はそう告げている。
大通りに出たら、『知恵ある者』とは別ルートを行こう。広い場所を逃げるなら、二人で逃げ回るよりは効率的だろうしね。
僕が密かに計画を練っていると、ベテラン同士でも話が付いていた。
「簡単に抜けられる道はないと思う。俺はこれから『跳ぶ』ところ」
「お、ラッキー。喜べルーキー、楽に裏道抜けられそうだよ」
そう言われても何がどうなってるのかわかりません。
路地の角から、曲がった先をうかがう。
「うわぁ……」
ただでさえ狭い路地なのに、そこには高さ一メートルはあろうかという大きなダストボックスが道の半分を塞ぎ、もう半分をエプロンを掛けた日焼け後もあざやかな屈強なおっさんが待ち伏せしていた。半袖シャツの袖をまくり、高井君より太い腕を見せ付けるように組んで仁王立ちだ。
なるほど、路地裏のいたるところが、こんな感じで塞がれているのか。
「んじゃお先」
とか言いながら、『跳ねる者』は先に行くどころか、僕らが走ってきた方へ行ってしまった。進行方向違わない?
「ルーキー、構えといて」
「え?」
「あいつが『跳んだ』隙を狙って、あのおっさんの脇を駆け抜けるから」
……えっ!?
「そ、そんなことできるの?」
「タイミングを間違えなければね。私はおっさんの左を抜けるから、あんた右脇を狙って」
後ろから「ジェットストリー●アタックみたいだね」と『跳ねる者』の軽い声。その言葉を聞いて、ああなるほど、と僕も納得できた。どういうものか想像できたのだ。
先頭を行くであろう『跳ねる者』と二番目の『知恵ある者』が囮役を努め、僕が本命として駆け抜ける。
たぶん僕が初めてだから一番楽なポジションを譲ってくれたのだろう……あるいは自分のことだけ考えていればいいポジション、かな?
一番目はともかく、二番目は三番目に注意が行かないよう完全におっさんの目を自分に向けさせる必要がある。もしかしたらおっさんは三番目に気づきながらも二番目を優先的に捕まえようとするかもしれない。
……つまり、僕も二人に甘えてばかりはいられない、ということだ。
特に危険な二番目を努める『知恵ある者』の援護ができるのは、その後方を走る僕だけだから。なんとか負担を減らしてあげたい。
「よし、行くわ」
そんな軽い宣言があり……『跳ねる者』が後ろに消えた理由がわかった。
助走だ。
『跳ねる者』が路地裏の角を曲がった時、その先をうかがっていた『知恵ある者』が「今!」と、彼を追うように飛び出す。そして僕も続いた。
先程までの抑えていた走りとは桁違いの速さで前を行く『知恵ある者』は、できるだけ目立たぬようにか、体勢を低くしている。
おっさんが、まず最初に飛び出した『跳ねる者』を視認し、腕組みを解き――
「よっ!」
まるで全てがスローモーションのように見えた。
軽い掛け声を発して地を蹴り『跳ねる者』が『跳んだ』。
瞬間、おっさんが驚きに目を見開くのがはっきり見えた。
だがそれには完璧なタイミングで後続した『知恵ある者』の存在を認識したせいもあるだろう。おっさんは一瞬で二回驚いたことになる。
地を蹴った『跳ねる者』は、今度は壁を蹴って更に高く飛ぶ。
まるでマンガで見たような見事な三角跳びを再現しておっさんを翻弄する『跳ねる者』は、ダストボックスに片足を付き、大きく前方に『跳ね』て封鎖を突破した。
すげえ。マジで野生のウサギのような身軽さだ。
見ている僕でも驚いているのだから、それを間近で体感したおっさんの驚きたるや相当なものだっただろう。
完全に虚を突かれて『跳ねる』彼の背中を目で追うおっさんを、第二波が襲う。
『知恵ある者』と僕だ。
二番目の負担を減らしたい――とは思っていたのだが、『知恵ある者』の走り出す合図が、タイミングが完璧だったので何も問題はなかった。
僕にできることは早めに『知恵ある者』の背後から横にスライドし、おっさんの視界にわざと入ったことだった。更に驚かせるように。
でもおっさん見てないもん。
おっさんが『跳ねる者』を目で追って後ろを向いた時、僕らはすでにおっさんの両脇を抜いていた。
ここまで綺麗に抜けるものなのか……
僕はベテラン二人が見せた隙のないコンビネーションに感動さえ覚えていた。
おっさんをぶっちぎった勢いそのまま、僕ら三人は、お魚くわえたドラ猫並の全力疾走で路地裏を走っていた。
先導する『跳ねる者』は熟練者の動きで、細い路地の急カーブもスピードを落とさず駆ける。方向からして八十一第二公園方面に向かっていると思う。
このまま路地裏伝いに商店街を抜けるつもりなのだろうと僕は当たりをつけたが、そう上手くはいかなかった。
「あー、ダメだな。やっぱ大通り出ないと」
狭い通路に詰め込まれたポリバケツやダンボールという、荷物を積み上げたバリケードが、逃走を許さなかった。
「……」
『跳ねる者』と『知恵ある者』は無言で頷き合うと、走り出す――違う方向に。どうやら二人が協力するのはここまでのようだ。
僕はまた少し迷ったが、やはり『知恵ある者』を追うことにする。
これ以上路地裏にいても意味がないと考えたのか、彼女はあっさり大通りへと進路を取った。急に開かれる視界と、目に痛いまでの光に一瞬目がくらむ。
顔をしかめて一秒ほど固く目を瞑り、開くと……Oh!?
日の当たらない路地裏の先、太陽に照らされた眩しい世界のすぐそこで、八十一高校の男子が二名ほど、上半身裸で縄で縛られて転がっていた。
――亀甲縛りで。
そして、夕飯の買出しだろうか、数名のマダムが女子高生のようにキャッキャはしゃぎながら、若き男子高校生の痴態を嬉々として写メで撮っていた。動画も撮っていた。
男たちは泣いていた。
それはきっと、あんなところやこんなところ、男として大切にしたいところや男として守りたいところに、無遠慮かつ無作法にグイグイ食い込む縄の締め付けが苦痛なだけではないだろう。
絶望だ。
僕は間違いなく絶望を見た……!
あれが捕獲者に捕まった哀れな食い逃げ犯の姿だというのか……あんなの強制労働がかわいらしいテディベアに見えるほどのペナルティじゃないか!
くそ、絶対捕まらないぞ! 絶対捕まらないからな! 絶対捕まってたまるか――ハッ!?
目の前のまばゆき絶望に目を奪われていたが、ふと周囲を見ると、僕らは完全に包囲されていた。
路地裏から飛び出した僕らを囲むようにして、六人のおっさんおばちゃんと、見覚えのある若いにーちゃんが待ち構えていたのだ。……あの若いにーちゃん、確か商店街にあるコンビニの店員だよな? そうか、コンビニで強制労働という末路もあるのか……それはそれでまあいいけど。
でも亀甲縛りだけは勘弁してもらいたい!
「……どうする?」
彼らはじりじり間を詰めてくる。
焦る必要がないのだ。制限時間を越えたら捕まえるまでもなく逃亡者は負け扱いになるから。むしろ捕まえるより逃がさないように注意を払っているようだ。
こそこそ『知恵ある者』の背に隠れる僕の問いに、彼女は答えた。
「私は突破できるけど、あんたは無理かも」
Oh! No!
「僕に亀甲縛りされろと言うのか!?」
「はは。そうなったら記念に撮ってあげるね」
「なんの記念だよ!」
「大丈夫。写真はあんたにも送るから」
「嬉しくねえよ!」
ああ、畜生。やはりこいつも所詮は赤ジャージの友達か! ……いや、もう充分世話になっちゃったから、ここからは自分でがんばらないとな。
「……さらば!」
進むことはできない。だが戻ることはできる。
僕は出てきた路地に再び入り込んだ。『知恵ある者』は暢気に「がんばれよー」と振り返らずに答えた。
さて。
やるべきことは、さっきの応用だ。
様子を見る。
『知恵ある者』は本当にこの状況を抜ける自信と余裕があるらしく、じりじり包囲網が狭くなって追い詰められても動かない。
――動いたのは、相手が動いた瞬間だ。
もはや一歩前に出て手を伸ばせば触れられるという至近距離で、左側のおばちゃんが手を出す。その時彼女は初めて動いた。
前に一歩出ておばちゃんの手を避けると、前方のおっさんたちの動揺を誘い……まるで背後が見えているかのように、横にズレるターンでコンビニのにーちゃんの身体に背中を密着させるようにしてかわし、包囲を突破した。
かなり速い複雑な動きのような気がしたが、今の動きは見たことある。
やっぱりバスケだ。
確か、姿勢を低くして動くダックインと、スピンムーブ。どっちもドリブルの技術だったと思う。――名作マンガ「スラ●ダンク」に普通に影響されてバスケやろうかなと思い仕入れた知識だ。普通スペックの僕はすぐ諦めたけどね!
それより、『知恵ある者』が包囲を突破した以上、僕も様子見なんてしている場合じゃない。
行くぞ!
カサカサカサカサカサ
僕は思い切って、視界を塞いだままカサカサ路地から飛び出した。
今だ。
今が勝負時なのだ。
「な、なんだおまえ!?」
包囲していても突破した『知恵ある者』の動きに驚愕し、捕獲者たちが追おうかどうかと逡巡している間に僕が現れたのだから、これまた驚きもするだろう。
野太いおっさんが戸惑いの声を上げたと同時に、僕はついに本性を現した。
――いや、かぶってたダンボール捨てただけなんだけどね。
僕は某スネークのごとく、バリケードに使用されていたダンボール箱をかぶってさりげなく様子を見ていたのだ。そして『知恵ある者』が抜け出したのを確認すると、ダンボールをかぶったままある程度まで出てきて、虚を突く形でそれを脱ぎ捨てた。
ただでさえ『知恵ある者』に突破されたせいで、包囲網さえ崩れている状態である。更に驚くべき子供のいたずらレベルのダンボール作戦をリアルに決行した僕の胆力にド肝を抜かされたに違いない!
ああそうさ!
僕はどんな恥を掻こうと亀甲縛りは嫌だったのさ!
それを回避するためならダンボールだろうがゴミ袋だろうがかぶってやるさ!
動けない彼らをおいて駆ける僕は、それこそ『跳ねる者』とは違う意味で、脱兎のように見えていたに違いない。
僕の覚悟が、捕獲者たちの気持ちを超えた瞬間。
僕の勝利は確定していた。
「おっしゃー!」
先に行っていた『知恵ある者』に追いつくようにして、「ユキノベーカリー」横の信号付き電柱に手を付き、僕は勝ち鬨の声を上げた。追跡していたおっちゃんとにーちゃんがすごすごと退散していく。「ダンボールめ……」と呟きながら。
「おー。ルーキーのくせにやるじゃん」
『知恵ある者』が拍手をしてくれた。
「そんな君にKA・N・SYA!」
「あ?」
テンションが上がっている僕なので、ちょっと変なのは許してほしい。
「おまえも無事抜けたか」
おっと。気づかなかったが、近くにいた男子はバイソン高井だった。まあ彼なら普通に抜けるだろう。――ふと周りを見ると、遠くに八十一魂を刻んだ白い背中が見えた。さすがは団長といったところか。
「よう『筋肉男』。来月のアレ参加する?」
「わかんねえ。うちの学園祭と日程が若干かぶってんだよ」
「へーそうなんだ」
やはりベテラン同士らしく、高井君は『知恵ある者』と顔見知りのようだ。
仲良さげに話しているが、僕はそれどころじゃなかった。
「松茂君は?」
「あいつは速いぞ。見た目によらず先行逃げ切り型だからな。たぶん授業に間に合うように先に行ったんだろ」
マジかよ! そりゃすげえ……なるほど、隼か。ちなみに僕らはもう、どんなに急いでも午後の授業は遅刻確定である。むしろもうこのまま五時間目くらいはサボりたい気分だ。
……まあ出るけどね。高井君は知らないけど戻るけどね。僕は。
「じゃあ柳君は?」
「――わかんねえ」
その答えは、僕の想定外だった。
あの柳君が逃げ損なうわけがない。運動神経抜群の高井君と同スペックかそれ以上なのだ。僕だって(ダンボールで)逃げ切れたのに、彼が逃げ切れない理由なんてないだろう。
「気が付いたらはぐれててよ。あいつどこ行ったんだ?」
それこそ僕が聞きたいが。
「誰? 一緒にいたイケメンのこと?」
「そうそう。『知恵ある者』見た?」
「見てない。けど――」
彼女は腕組みして、まだ勝負の最中にある商店街を振り返る。
「あの子もルーキーでしょ? だったら罠にハマッたんじゃないかな」
え?
「柳君が罠にハマッたって?」
そんなバカな。柳君は洞察力もあるんだぞ。そう簡単に罠になんてハマらない。
「いや、物理的な罠じゃなくてね。言ってみればこのイベントそのものが罠なんだよ」
……? どういう意味だ?
「あ、あれか! そうか! ……そうだな。柳はハマッたかもな。俺も最初はやったもんな」
な、なんだと……!?
「冗談やめろよ高井君!」
「冗談じゃねえよ。……そうだよな、おまえは平気だよな」
「何が!?」
「――柳さ、たぶん食ったあと走ったから腹が痛くなったんだろ」
……あ。
言われてみれば心当たりがありまくるわけで。
柳君と言えば、昼食はいつもコンビニのサンドイッチと缶コーヒーのみ。そこからわかるように結構小食なのだ。
にも関わらず、今日はがっつり定食を食べている。
僕は(意図せず)チャーハン一品を、半分くらいしか食べていない。だから全然問題はなかったが……
腹いっぱいになった直後に走ろうものなら、そりゃ腹も痛くなるだろう。
二人の予想通り、腹痛を抱えて路地裏で立ち止まっていた柳君は、捕獲された。
僕にとってはすごく衝撃的な事件だった。
……あの柳君がしくじるなんて……