131.九月十二日 月曜日 無
驚いた。
今日だけで、それも短時間で何度も驚かせてもらったが、地味にこれが一番大きな驚きだった。
「うっま!」
将龍亭。
最初から聞き覚えのある屋号だと思っていたが、メニューを見た時点でどこで聞いたか思い出した。
いつか八十一高校の職員室で、担任・三宅弥生たんに聞いたのだ。
エビチリチャーハンという料理名とともに。
メニューにその名を見つけた時、僕の中から選択肢は消えた。漠然とだがいつか食べたいと願っていたのだ、ならば迷う理由はない。
最初はただの野草、ただの野にある命である。
はるか昔から存在するそれらに、人間は名を付け、意味を見つけ、意義を見出す。薬、毒、虫寄せに虫除け、蜜、香料に染料、防腐剤、保存剤、肉、皮、骨……数え上げたら切りがない。
そんな素材の中でも、特に人間の欲求に密接しているのが、味覚――味だ。
最初は香辛料だ。
そこから交易が行われ、国が発展し、大航海時代が始まり……僕は、人は未知なる味を求める探究心とともに歴史を歩んできたのだと思う。
数え切れないほどの素材を組み合わせ、混ぜ、融合させ、新たなる味を生み出す……この進化は紀元前から行われていたものの、現代においても未だ果ては見えておらず、今まさに新たなる味――料理が生まれ続けている。
かつては命だった食材に、再び職人が命を吹き込む。
混沌たる素材の集まりが、渾然たる一になる時、そこに料理という人類の文化に根付く単純にして思慮深い魅惑の……
いや、これくらいにしておこう。
美味いものを前にして考えるべきことなど、目の前の美味いもので腹を満たすことのみだ。
……決して面倒になったわけではない。
思わずわけのわからないことを考えてしまうくらいに、エビチリチャーハンは衝撃的だったのだ。
これはうまい。本当にうまい。
半球型に盛られたチャーハンの半分に、エビチリ……エビのチリソース和えが掛けられて。カレー的なものを想像すると早いだろう、そんな感じだ。
赤いとろみのある餡に泳ぐエビは、一センチくらいにぶつ切りにされている。僕は姿そのままのアレを想像していたのだが……しかしいざ食べようとした時に、なぜ小さく切っているかの理由がわかった。
チャーハン、餡、そしてエビの三つを、一口で食べやすくするためだ。確かにエビが大きいと、三つの要素を蓮華に乗せるのは難しく、それ以上にあまり口の大きくない普通の人が食べるには更に難しい。
そんな三位一体の味は、味は当然としてエビのはじけるような触感とかすかに残る味噌の香りも格別だった。一つ一つなら「それはそれでうまい」と言えるだろうが、三つを同時に食べると、似た味に覚えがあるのにそのどれとも違うような気がする。
よく見ると、焼き色綺麗なチャーハンに、黒い何かが混ざっているのが目に付いた。これはなんだろう?
「焦がしネギだ」
蓮華にすくってじっと見ていると、松茂君がそう教えてくれた。――追加で頼んだ八宝菜とカニ焼売を待ちながら。
「調味料の一種。薬味といってもいいかもしれない。この将龍亭のオリジナルで、俺にも作り方はわからない」
「へえ」
そう、これがこの料理のアクセントになっている。少しの苦味と味噌のややしょっぱい旨みがあるのだ。チリソースがピリリとするが全体的に甘めの味付けなので、味の調和を崩しているようだが不思議と妙に合う。
「エビチリは、元は辛い料理でな。中国から渡ってきた当初は日本人にはあまり受けなかったそうだ。そんなある日、豆板醤が手に入らなかった中国の料理人が苦肉の策としてケチャップで代用したのが、今おまえが食べている甘いエビチリの発生と言われている。――ちなみにその料理人の名前は、たぶん一之瀬も聞いたことがあると思う」
へえー。
「詳しいね」
「好きだからな」
まあ、知ってるけど。
「ところで一之瀬、それ一口くれてみないか?」
「カニ焼売一つくれる?」
「……仕方ない。一つだけだぞ」
松茂君は苦々しい顔でそう答えた。……そんな苦渋の決断を下したかのような顔するなよ……焼売一個の話だろ。滅多に食べられない貴重品ならまだしもさっきもバクバク食ってたじゃん……
僕が皿を松茂君に差し出すと――こいつがやった!
「俺も俺も!」
「ぎゃーーーーーー! 君何やってるよ!?」
松茂君が皿を受け取る寸前で、彼の隣にいる高井の野郎が中華そばの蓮華を無遠慮に突っ込んで三回ほど口と皿を往復させた。
なんという早業。反応が遅れたわけじゃない、高井君が早すぎたのだ。
「貴様ぁ!」
松茂君が激昂した。
「俺が目をつけていた一番大きなエビを食らいやがったな! 侘びとしてチャーシューを献上しろ!」
え!? そういう怒り!? ……つか人の物なのに勝手に目をつけるなよ!
皿が戻ってくる頃には、チャーハンはもう半分ほどになっていた。松茂君が蓮華の限界に挑戦した結果である。なんだかんだで二口ほどしか手をつけていなかったのに……
「はぁ……柳君も味見してみる?」
「いいのか?」
「うん。もういいや」
こんな惨状にならなければそれなりに独り占めしたかっただろうが、すでに半分くらいやられてしまったので、もういい。
「あと、変なことに誘ってごめんね。迷惑だったでしょ?」
ずっと気になっていて言えなかったことを、ようやく伝えることができた。雰囲気的にずっと言えなかったんだよね。
「気にしなくていい。本当に嫌だったらもう立ち去っている」
まあ、柳君が言うなら本音だろう。今更遠慮する関係でもないし。
柳君が食べている酢豚と良心的なトレードをし。
追加でやってきた松茂君の焼売を全員で取り合ってまた激怒させるなどして。
ついにその時はやってきた。
高井君の中華そば大盛りと餃子、柳君の酢豚定食、僕のエビチリチャーハン。
そして松茂君の坦々麺、、天津飯、麻婆豆腐、餃子、焼売、追加で八宝菜とカニ焼売、更に追加でやってきた杏仁豆腐は、早々に完食となった。
「おまえ大丈夫?」
さすがの高井君でも引くほどの量を、松茂君は軽々と食べ尽くしていた。
「何がだ? ああ、焼売五個ほどは食べ足りないが」
焼売五個は僕らが彼から奪って食ったものだ。カニ焼売おいしかったです。だが食べ物の恨みとは恐ろしいもので、きっと松茂君は焼売五個の恨みを生涯忘れることはないだろう。
「いや、まあ確かに腹具合の話なんだけどよ。おまえもう腹いっぱいだろ。逃げられんのか?」
高井君の心配はもっともだ。松茂君はめちゃくちゃ食っていた。見てるだけで腹いっぱいになりそうなくらいめちゃくちゃ食っていた。
しかし、松茂君はそんな彼を鼻で笑う。
「なぜ俺の限界をおまえが決める?」
で、出た! 松茂君の超渋い発言出た! 超カッコイイ!
「俺はまだ腹八分だ。さすがにこれ以上はまずいがな」
すげえ……ただの高校生が言ったところで冗談にしかならないのに、松茂君の貫禄があるとただただかっこいいだけである。
まあ彼は色々すごいが、僕がすごいと思ったのは、松茂君は早食いではあるが食べ方が下品ではなかったという点だ。
犬食いのように皿に顔を近づけることもなく、器を持って掻っ込むこともなかった。むしろ食べ方だけ取るなら高井君の方が汚い。豪快に麺をすするから汁が飛び散りまくっている。
僕がそのことを言うと、彼は「普段はもう少しゆっくり食べる」と答えた。
「その皿は同じ味は再現できるかもしれないが、この世で唯一の一皿だ。同じものは世界中を探しても存在しない。唯一無二の出会いに礼を失してどうする。そしてそんなせっかくの料理、味わって食べなければ申し訳ない」
お、おいおい……ほんとに同い年かよ……ほんとに同い年の奴が言うことかよ! それが!
「――無駄話はここまでだ」
戦慄に震える僕を見る松茂君の目は、獲物を狙う鷹となった。
松茂君の鋭い視線を合図に、この場の雰囲気が変わったのがわかった。
ついに始まるのか……食い逃げが。
当然僕には食い逃げの経験はないし、これに参加するのも初めてなので、わからないことだらけだ。
だが、それでも予想だけは立てられる。
たとえば、満腹状態では走れない、というあたりまえのこととか。
だから僕は一品だけで我慢したし、何品も頼んだ挙句に追加までした松茂君の食らいっぷりが異端だと思ったのもそのせいだ。高井君も、大盛りとはいえラーメン一杯と餃子くらいでは足りないはずだ。
どんなものかがわからない。
僕はだいぶ食べる量を(意図せず)抑えたので、走る分にはあまり影響はないと思う。
……僕は後でいいだろう。
様子見も兼ねて、僕は逃亡者の先頭に立つような一手は控える。鬼役が何人いるかわからないし、どれほどの精巧、精密、速度で追いかけてくるかもわからない。
そこかしこに敵がいるとして、無警戒で敵や罠を突破できるほどのスペックは、僕にはないのだから。
――唐突だった。
目の前にいた松茂君が、消えたのだ。そして脳が目の前の光景を異常と認識するより早く、僕の視界の端、ほぼ真横を黒い影が駆け抜け……僕はようやく始まったことを理解する。
僕がハッとしてそう判断した時、松茂君の背中は遠く、僕の横を通り過ぎた三十三高校の学ラン『跳ねる者』は細い路地に駆け込むところだった。
そして、すでに高井君と柳君は立ち上がっていた。
この時点で、僕は誰よりもワンテンポ遅れた。
しかし遅れることをすでに想定していた僕に焦りはなく――ワンテンポ遅れて走り出す……と。
「いでっ」
まさに走り出そうと椅子から離れ通路に出た途端、後ろから誰かが衝突してきて僕はよろめく。
「――チッ」
赤ジャージこと『駆ける者』は、よろめきながら数歩を行き、忌々しげに僕を振り返り睨んだ。そして舌打ちしてまた駆け出す。……っておい! 舌打ちしたいのは僕の方だぞ! ……たぶん今のはわざとじゃないと思うけど! 僕が急に飛び出したからぶつかったんだろうけど!
これでツーテンポの遅れである。
スタートダッシュを潰された僕は、足を止めていた。
早くも迷ったのだ。
すでに松茂君の姿はない。まあ誰よりも先んじた彼が見えないのは当然として、高井君と柳君がどのルートで逃走したのかも見失ってしまったのだ。
指針を失った僕は、ここから自分でルートを決めなければならないことを悟った。
『駆ける者』……いや、赤ジャージには絶対に付いて行きたくないので、奴のあとを追うのは却下だ。あいつを追って逃げ切るくらいなら、捕まって強制労働した方がマシだ。ああマシだね!
ここから八十一第二公園側に最短距離で抜けるには、表通りに出る必要がある。だが表通りはきっと捕獲者が張っている。安易に飛び出せば袋小路に迷い込むようなもの。
できれば裏通りから商店街を抜けたいが……裏道は結構入り組んでて道がよくわからないんだよな。行けると思ったら行き止まりだったりするみたいだし。
それに、たぶんそんなに簡単に抜け出せないよう、荷物か何かで道は塞いであるような気がする。だってそうじゃないと全員勝ち抜けだって簡単だから。それがないってことは、その時々によって通れる道が違うからだと思う。
つまり、大通りに出ないと、将龍亭付近からの商店街脱出ルートは存在しない……と思う。それが捕獲者が逃亡者を大通りに導く罠なのだと。
これが正解かどうかはわからないが、僕はこの方針で行こうと思う。
ふざけているとしか思えないイベントだが、これで二十年もの歴史があるのだ。多くの人間と同じで、年月を重ねた分だけ洗練され研磨されるものだ。そう甘いものであるはずがない。
となると、どこから大通りに出るかが問題だろうか……どの裏道から大通りに出ればいいんだろう? いや、そもそも、選べるほど裏道知らないんだよな……
少なくとも、ビンビンにヤバイ臭いがするのは、最短距離――僕らがやってきたルートだ。
この道は絶対にヤバイと思う。道が塞がれてるなら幸運で、もしかしたら待ち伏せさえあるかもしれない。裏道は道自体が狭いから、一人立っているだけでもすり抜けるのは困難だろうし……
「おいルーキー」
赤ジャージの友達、三十三校の灰色ブレザー『知恵ある者』が、いつの間にか立ち尽くす僕の隣に立っていた。
「逃げないの? 急がないとじーさん出てくるぞ」
じーさんとは、ここ将龍亭の主だ。御歳六十六歳の料理人で、結構気性が荒いらしい。……絶対捕まりたくない人である。会ったことないけど。
「そういう山羊さんは?」
「焦らないし急ぎすぎないのが私のやり方」
なるほど。短絡的かつ粗暴で粗忽な赤ジャージとは正反対ってわけだね! 友達選んだ方がいいですよ!
「でも最後尾は嫌だからもう行くよ。――付いてきてもいいぞ。ちょっとだけなら面倒見てやるから」
僕の肩を軽く小突いて、『知恵ある者』は走り出す。
少し迷ったが、最後尾が嫌なのは僕も同意するので、思い切って付いていくことにした。