130.九月十二日 月曜日 逃
九月十二日。
出来の悪い「9・12」の語呂合わせに併せて作られた、わりと普通じゃないことの多い八十一町でも特に奇異なイベントの日である。
起源はおよそ三十年前くらいにさかのぼる。
その頃の八十一高校の制服は学ランで、短ランだの長ランだのボンタンだのといった改造学生服が全盛期を迎えていた。
僕は今でも八十一高校は元気すぎる、むしろ元気すぎて生きるのがツライ、とまで思うのだが、その頃はもっともっと活気があって、商店街も賑わっていたそうだ。つまり当時なら僕は生きていけない環境であったと見るべきか。
事の発端に触れるのであれば、単純な話である。
簡単に言えば、その頃の不良の八十一高生(OB)が、ここで食い逃げをやらかしたのだ。
はっきり言ってバカである。
だって最初から八十一高校の生徒だって丸わかりのバレバレだったのだ。しかもそいつらはここらが地元の連中だったから、商店街のおっちゃんやおばちゃんとも顔見知りだった。直接的な関わりはないが、ここ将龍亭の主も顔くらいは知っている、というくらいに。
逃げた彼らは、当然のようにとっ捕まった。
結束の硬い商店街の皆さんが、商店街から一歩も逃がすことなく確保したのだ。
彼らは語った。
金はない。だが腹は減った。だから食って逃げた、と。
現代ならば警察……は地域密着型としてはまだ呼ばないにしろ、学校には連絡を入れて担任に引き渡すとか、その辺の処置を取っただろう。あるいは親に連絡を取るとか。
情状酌量の余地があるのかどうかは僕には判断できないが、正直短絡的すぎてどこか憎めない。
もちろん悪いことだとは思う。だが、なんて言えばいいんだろう……うーん……なんかどこを取っても一言「バカ」としか言えないからかもしれない。悪知恵みたいなものが見えたらまた印象も違うのだろうが、どこを見ても「バカ」しかないからだろう。
育ち盛りの男子高校生が腹を空かせている。
現代より、そして三十年前の当時より、物流が豊かで溢れて残して捨てるほどなかった時代を生きてきたおっちゃんおばちゃんたちは、彼らの「腹が減った」という気持ちは強く共感できた。
共感できたがゆえに、不良たちへの罰は「金がないなら食った分は働け」という寛大な処置が取られたそうだ。
そこから話は発展する。
その場の解決はしたものの、根本的な解決には至っていないと判断した商店街の会長は、無銭飲食してもその分商店街のどこかの店で働けば……つまりバイトして補填すれば許してやるよ、という地元ルールを作ったそうだ。
実はこれ、今も生きているらしい。
ただ、八十一高校の生徒でも知っている者が少ない、歴史に埋もれたローカルルール、というだけで。
そして現在に繋がる。
そう、根本には「金がないなら食った分は働け」というルールがあるのだ。
当時そのルールを活用していた八十一高生は、じゃんけんで負けた奴に払いを任せたり、「クラブの先輩が後輩たちにおごる」という形でこっそり請け負ったりと、ある種変則的な払い方というものが普通にあった。
そこから派生したのが、「食い逃げ」だ。
要するに、捕まった奴が全員分の支払いをするのだ。逃げ切った奴はそのまま放免、捕まった奴は全員の支払い分強制労働、という天国と地獄の縮図のような明暗分かたれるハードな勝負事である。
当時の不良たちは、よくこれで他校の生徒まで巻き込んで勝負していたらしい。「俺借金十時間くらいあるよー」みたいな会話が普通に繰り広げられるほど、それはそれは流行した支払いスタイルだったそうだ。
そんな時代から三十数年の時が流れ。
飲食店の数々が時代に取り残されて店をたたみ。
八十一高生も、そこまでやるバカはさすがに少なくなった。
まるで立ち消えのように、自然とこのルールは廃れていったのだ。
が、なくなったわけではない。
そしてそれをやるバカがいなくなったわけでもない。
強制労働で支払う高校生がめっきり減り、最近では他にも色々と問題があるとして「食い逃げ」での支払いは全面禁止になってしまった。
だが知っている者は知っている――特定の日時のみルールを解禁していることを。
「食い逃げ」発祥の地である将龍亭では、毎年九月十二日がルール解禁の日となっているが、僕が知らないだけで今年だけでも商店街の飲食店で何度かやっているらしい。
「今年はもう七回ほど……おっと。どうやらおしゃべりの時間は終わりのようだ」
興味深い、というより単純に驚くべき八十一高校のバカの歴史を語っていた松茂君は、ふわりとやってきた美味しそうな匂いに口を閉ざした。
「お待ちどうさま。坦々麺。天津飯。麻婆豆腐。餃子と焼売です」
おお……!
三十代くらいの、なんというか、大人らしいというか熟女らしいというか、成熟した女性が持つ魅力を余すことなく見せ付ける店員さんが、細腕の上に乗せたお盆から、料理を並べていく。この店の娘さんか、息子の嫁さんとかそんな感じだろう。
しかし、すげー。うまそー。すげー。
小さな輪になった鷹の爪の赤が見た目に刺激と食欲をそそる、ネギや豆板醤などで味付けしてあるのだろう肉味噌がたっぷり乗った坦々麺。汁がないタイプなのでちょっと深い平皿である。きっと甘辛く肉の旨味と麺の歯ごたえを堪能できるのだろう。
天津飯は、黄金色の薄焼き卵の上にかかったとろみのある褐色の餡が輝いていた。日当たりの悪い路地裏の野外だと言うのに、それでもきらびやかとさえ言えるような贅沢な光沢を放つそれは、一口でいいから味見したいと願うには充分すぎた。
麻婆豆腐なんかは、家庭で見るのとほとんど変わらない。だが決定的に違うのは、その気高い匂いである。辛いことと熱いことをこれ以上ないくらいに見た目で表現し、気安く触れるなと言わんばかりのもうもうと上がる湯気。しかし今すぐ触れたくなるその匂い。ああ、今すぐ蓮華ですくい上げてみたい。そして食べてみたい。
餃子と焼売は、……うん、見た目は普通だ。でもきっと味は格別だろう。
「美味そうだな……」
高井君がごくりと喉を鳴らす。視線は麻婆豆腐に釘付けだ。
「触るなよ」
パチンと割り箸を割った松茂君の目は、やはり鋭かった。
実はこの五品、全部松茂君の注文した料理なんだよね。
「それより高井、二人にルールでも話しておけ。俺は食う」
宣言通り、松茂君は食らい始めた。それはもう体格に見合う見事な食べっぷりで。
「チッ……先に食うなよ」
高井君は一言ぼやくと、僕と柳君にルールを話してくれた。
「いいか、ルールは五つだ。
一つ、注文した料理は完食せよ。
二つ、制限時間を厳守せよ。
三つ、逃げる際に怪我をしないこと、また誰かにさせないこと。
四つ、一度捕まったら無理に逃げようとしないこと。
そして最後に、商店街を出れば勝ち抜けとなるが、横断歩道が危ないから信号のある電柱に触れた時点で逃げ切り完了する。
……と言ったところだ。
一つ一つ説明すると、料理完食は当たり前だわな。注文する時も言ったけど、完食してからじゃないと逃げられないからな。忘れんじゃねえぞ」
うん、これは注文の段階で聞いていた。……だから松茂君の明らかな頼みすぎ具合を見て、「これいいのか?」と思ったわけだ。
「時間厳守ってのは、開始時間と終わりの時間だな。俺らで言うところだと、八十一高校の昼休みが終わる五分前がタイムアップだ。それまで座ってたり逃げきれず商店街に残ってたりしたら自動的に負けになる」
ふむふむ。五分前というと……あと十五分くらいあるな。
「逃げる際に怪我云々ってのは、参加者同士の足の引っ張り合いや妨害行為の禁止だ。てゆーか同じ逃走者は味方だと思ってもいい。全員逃げ切れば商店街のおごりになるからよ。……ま、長い食い逃げの歴史において一度もないらしいが」
全員逃走で完全おごりか……夢のある話だな。
「あと商店街でエプロン着けたおっちゃんおばちゃんは、俺たちの逃走の邪魔をする。まあ捕まえようとするわけだ。その人たちにも怪我させるなよ、ってことだな」
なるほど、エプロン着けてるおっちゃんおばちゃんは、いわゆる鬼ごっこの鬼役なわけだな。
「四つ目もそこに掛かってるな。捕まったら大人しく観念しろよ。これは商店街の人たちの厚意の上で成り立つイベントだからよ、必要以上に迷惑かけちゃいけねえ」
もっとも最近は縛られるけどな、と高井君は耳を疑いたくなるようなことをポロリした。……縛られるのか。女の子に縛られるのはやぶさかではないが、おっちゃんおばちゃんに縛られるのは嫌だな。ここの熟女的店員さんなら、うん、まあいいけど。
「最後のは説明いらないよな? 車道に飛び出すなってだけだから」
それはわかる。八十一第二公園前の横断歩道は、この時間は車の交通量が多いから。飛び出したら冗談抜きで轢かれるだろう。
「なんか質問あるか? もうすぐメシ来るから、二つ三つくらいなら答えられるぜ?」
まあ、ルールも特に特殊なものがあるわけじゃなし、とにかく商店街から逃げ切れば「食い逃げ」成功ということになるらしいから、ルール方面では聞きたいことはないかな。
……まさか食い逃げなんてすることになるとは。人生ってわかんないもんだね。
いや、一番わかんないのは、八十一高校か。
昔の僕らもバカだった。
今よりずっとバカだった。
ただそれだけだ。
「おまえは」
と、柳君が口を開いた。
「どんな二つ名なんだ? あと大層な二つ名が付けられている理由も教えてくれ。……まさか自称じゃないよな?」
じ、自称だと?
ファルコンとかエンペラーが自己申告だと!?
……柳君、なんて恐ろしいことを平然と訊くんだ……!
「俺は知らない間に『筋肉男』って呼ばれてた」
バイソン!? って……野牛か。確か西部時代にアメリカで乱獲されて絶滅した……いや、してないのか? とにかく、高井君に似合わないかと言われればそうでもないな。もっと大柄な人を想像したくもあるけど、似合わなくはないと思う。
「誰が付けてるかは知らねえわ。……松茂知ってる?」
「――-」
松茂君は食事に夢中で聞いてない。すげーがっついてる。……美味そうだなー。なんだよー。美味そうだなー。美味そうに食うなよー。つかどんな味なのか説明してみろよー。
「おーいそこの男子たちー」
ん?
背後からの声に振り返ると、赤ジャージの背中……の向こう、向かいの席に座る赤ジャージの友達が、赤ジャージの身体を避けるようにして身体を斜めにしてこっちを見ていた。
「二つ名はね、『食い逃げ』の歴史を作った人の一人が決めてるんだよ。今は商店街の一住人でね、毎回捕り物に参加してるよ」
どうやら話が聞こえていたらしく、彼女は柳君の疑問に答えてくれた。ちなみに赤ジャージは振り返っていない。
「二つ名の由来は?」
柳君が重ねて問うと、赤ジャージの友達……えっと、山羊さんは打てば響く鐘のように答えた。
「後世に残すためのはったりを利かせてるんだって」
「はったり?」
「うん。新しい『食い逃げ』世代に伝えるよう、名前的にすごそうな奴がいたって歴史に残すため。――まあ名前決めてる人が当時の自分の偉そうな二つ名で自慢話したいだけ、ってのが真相らしいけどね」
……ああ、昭和世代の不良だもんね。始めたの。伝説とかそういうの好きそうだもんね。
「山羊さんはどうして山羊さんって二つ名を?」
ついでに僕が聞いてみると、彼女は苦笑した。
「苗字みたいだから、せめてゴートって呼んでほしいんだけど。……いや、まあいいわ。一応二つ名はその人の逃走スタイルが由来になってるから。私は逃げ方が山羊っぽいんじゃない?」
山羊っぽい逃げ方?
「紙むしゃむしゃ食べながら逃げるとか?」
ブハッと吹き出し、むせ始めたのは赤ジャージである。たまたま水飲んでいたらしい。……てゆーか何笑ってんだこの野郎! これがパンサーだと? 偉そうに……キノコでいいよ。こいつはキノコでいいよ! マッシュルームを略してマッシュでいいよ! いやそれだと名前っぽいな……そうだ、シュルだ! シュルでいいよ! それかエリンギ!
「で? あんた私になんて言ってほしいの?」
山羊さんはすこぶる笑顔である。もしかしたらちょっとムカッとしたのかもしれない。
「普段ダンボール食べてます、って言ったら、僕は尊敬しますけど?」
「食わねーよ。ホームレスの中学生か私は」
ちなみにあれは、厳密には食べてはいないらしいが。
色々教えてくれた山羊さんに礼を言うと、僕らは無言になった。
一心不乱に食べまくる松茂君を恨みがましく見る。
腹減ってるのに。僕らだって腹減ってるのに、なぜ彼だけ今食べているのだろう。
「高井君、僕らの料理遅くない?」
というか、外のテーブルにいる連中は、松茂君以外誰も料理が来ていない状態だ。なんだ? 松茂君だけ特別扱いなのか?
「ああ、バランス取ってんだよ」
「バランス?」
「そう。注文の数が多い奴は先に、少ない奴はあとに回してるんだ。食い終わる時間にそんなに差が出ないように店側が調整してんだよ」
あ、なるほどな。
これから僕らが何をするかを考えると、食べ終わる時間に差がつくと、明確な差がついて誰かが有利になったりするのだろう。
てゆーか、やっぱり松茂君は頼みすぎなんだね? そうなんだね? 食い逃げ界ではある意味異端なんだね? ……食い逃げ界ってなんだよ。どんな世界だよ。
「あと基本的に店内の奴らの方が優先だからな。中にいると周囲の様子がわからないから、やっぱ不利なんだよ」
ということは、店内の連中はもう食べているのかもしれない。
ああ、お腹空いたな……
僕らが注文したものがやってきたのは、それからほんの数分後のことだった。
そして、もうすぐ僕らの逃走劇が始まろうとしている――