012.五月十日 火曜日 後半
足が動く。
今まで動かなかったのが嘘のように動く。
持っていた生徒手帳を所属証明と一緒に固く握り締める。
僕の中の何かが壊れてしまったかのように、だが恐怖に追われて走り出す。
怖いのはやはり相変わらずだ。僕より身体が大きい人ばかりで、中には格闘系のユニフォームの者も少なくない。一発でも強いのをもらったら即ノックアウトするんじゃないだろうか。僕は貧弱だからね。
でも、もう、止まらない。
というより、止まれない。
「しーちゃん! いるか!?」
飲まれたのは、確かこの辺だったはずだ。喧騒に割り込みながら僕は叫んだ。目を凝らし、小さな身体を必死で探す。
「……一之瀬君!?」
うおっと!? 案外近くにいやがった!
右手側のすぐ横にしーちゃんがいた。そして、日焼けして真っ黒なテニス部っぽい二年だか三年だかが、しーちゃんの腕を握って「確保ー! 確保ー!」と叫び、仲間を呼んでいた。まさに「新人狩り」である。
テニス部の先輩は、僕より身体も大きいしガタイもいい。
どうする?
どうすればいい?
どう――ああもう怖い! 怖い怖い怖い! こんなところで一秒だってじっとしてられるか!
「すんません!」
とっさに出た言葉はそれで、限界まで力を込めて放った右拳はまともに入った。どぶ、と全力で肉を打った感触に全身にしびれる。僕に気づいていなかったテニス部の先輩は、腹筋を緩めていたらしく「うぉごぶっふ」と嗚咽を漏らし、身体を折る。
だが、そんなものを確認している余裕はない。僕はガチガチに固まって開かない右手に戸惑い、右手を使うことを諦め、左手にあった鞄を投げ捨ててしーちゃんの手を取った。
「走って!」
「う、うん!」
強引に引っ張りテニス部先輩の拘束から逃れ、走った。
いろんな人にぶつかりながら、とにかく走った。
気がついたら大乱闘の奥である下駄箱側ではなく、脇の方に出ていた。校門から見た団長が目の前にいて、「範囲から出るな」と言わんばかりに、飛び出してきた僕らをジロリと睨んだ。
その鋭すぎる眼光に走る足が緩んだ、その直後だった。
ピキョンっ!!
「おぶっ!?」
間の抜けた高い音が鼓膜を揺らす。
頬に何かが当たった。
反射的に殴られたと思った。
速度が落ちていたとは言え走っていたのでバランスを崩して足がもつれ、無様に転倒した。しかも手を離さなかったからしーちゃんまで巻き込んで。最悪だ。唯一の救いは、僕がしーちゃんの下敷きになったことくらいだ。
い、いてえ……でも殴られた割にはそんなに痛く……な…………い……?
倒れた僕の視界の真ん中、どセンターに、そいつはいた。
少しゆったりした緑の短パンに、襟の黒い緑のポロシャツには胸には「八十一」の文字が誇らしい。そして手にある丸いしゃもじのような真紅のラケット……
まさか、まさか……!
「ピンポン球かよ!」
思わず叫んでしまった。
今僕の頬を殴り抜けたのは、あいつが放ったサーブかよ! ピンポイントで狙ったんだとすればすごいよ! 確かにすごいさ! すごいけど、でも、僕はそれで転んだってか!? しーちゃんまで巻き込んで!? それならほんとに殴られて転んでいた方がまだ言い訳として立ってたよ! ピンポン球かよ! 卓球の球顔に食らって転んだのかよ僕は! なんか情けないよ! 卓球部かよ! つか直で来いよ卓球部!
奴はニヤリと笑った。
見たか、これが俺の卓球だ、これが俺のスマッシュだ――そんなことを言いたげな勝ち誇った笑みだった。
そして、誇らしげな笑みを浮かべたまま、胸毛と角刈りが男らしい空手道着のいかつい人に殴られて、横っ飛びで大乱闘の中に飲み込まれてしまった。
目の前で行われた圧倒的弱肉強食に呆然としていると、胸毛と角刈りが男らしい先輩が、はっきり僕らを見た。僕らを認識した。重なるように倒れたままの僕らを。
ゆっくりと歩み寄ってくる。
ゆっくり、ゆっくり。
道着に書いてある「高石」の字がはっきり読める。
僕は上に乗っているしーちゃんに構わず立ち上がる。しーちゃんはなんか力が抜けてしまったのかへたり込んでいた。
「しーちゃん、行って」
「え?」
「僕がなんとか時間を稼ぐから」
しーちゃんがへたり込んでいる理由は、あの高石先輩の胸毛が怖いからかもしれない。逃げ切れないと悟ったからかもしれない。絶対強者の視線に腰が抜けたのかもしれない。
「で、でも」
「早く行けって! 僕は三秒持たないぞ!」
正拳一発、きっと一秒で沈む。走ったところですぐ追いつかれるだろう。
でも、なぜだろうか。
今僕の頭には、逃げるなんて発想は、一切なかった。もちろん一矢報いたいとかそんなことも考えていない。というかそれも無理だろう。高石先輩めっちゃめちゃ強そうだし。つか気持ちですでに負けてるし。すがり、まとわりつくことさえ許してくれないかもしれないし。
たぶん、この大乱闘の気に刺激されて、僕の中の慎ましやかで弱々しい獣が生意気にも騒いでいるからだ。僕の雄のDNAが理性を麻痺させているからだ。アドレナリンが今だけ恐怖を忘れさせてくれているからだ。……もう少しがんばれよアドレナリン。まだ怖いじゃないか。
それに、こう考えたら、余計に怖くなくなったからだ。
――あのゴリマッチョ・五条坂先輩と比べるなら、胸毛が男らしい高石先輩だって幼児みたいなもんだ、と。
「行け!」
もう一度僕が怒鳴ると、――僕の目の前に二人の背中が割り込んできた。
「おっす。かっこいいな、一之瀬。もやしっこのくせによ」
「島牧はおまえに任せる。だからおまえも行け」
な、……なんだよ……いたのかよ……
「高井君、柳君……」
なんて頼もしい背中だろう。
泣きたくなった。
本当に泣きそうになった。
感動した。
ここで来るとかどっかで見てたんじゃないかと疑いたくなるくらい良いタイミングだった。
「行こう!」
もう一度しーちゃんの手を取り、僕らは今度こそ「新人狩り」から逃げ延びた。
僕らは下駄箱に飛び込み、膝に手をつき息を整える。普段なら息切れなんてしない距離だが、必死すぎて形振り構わず駆けたせいだろう。精神的な余裕もなかった。
校門から校舎まで。
ゆっくり歩いても五分くらいのものが、こんなにも恐ろしい道のりになるなんて想像もしていなかった。
これが一週間続くとか、絶望的である。誰だよ「新人狩り」とか始めた迷惑な奴は。ほんとバカだよ。
「……はあ」
軽く息をつくと、「お疲れさん」「大丈夫か一之瀬」と言いながら高井君と柳君がやってきた。さすが運動神経抜群同士、余裕の生存である。それを知っているだけに、僕もこの二人は心配していなかった。遠慮も心配もなく逃げることができた。
「今日も逃げ切ったな、柳」
「ああ」
いいよなぁ、運動神経いいって。羨ましいなぁ。
「一之瀬君!」
「お、お?」
すごい勢いと剣幕で、しーちゃんが僕に詰め寄った。僕は思わず下がってガシャンとステンレス製の傘立てに足をぶつけた。
「ありがとう! でも危ないことしないで! 怪我したらどうするの!」
心配顔である。うわめっちゃかわいいな。しかも近い! ……いやいやだからその顔をやめろ好きになるだろ! やめろ! 好きになっちゃうだろ!
「あの……すみません……」
大乱闘通過とかこの急接近とかで心臓が痛い。結局そんな気の利かないセリフしか出てこなかった。
いや……危ないとか怪我したらとか、こっちのセリフだ。だから僕は行ったんだ。……守山先輩に押してもらったけど。
僕はすでに「新人狩り」は回避しているのだ。「ONEの会入りましたー」とはONEの内容的に大っぴらには言えないが、正式な所属証明をゲットしている。……貞操の機器と引き換えに。
だがしーちゃんは帰宅部だ。だから入れず困っていてあそこにいた。
つまり、僕はせいぜい殴り倒されるくらいで済むのだ。でもしーちゃんは、殴り倒されるような毎日が続くようなクラブに所属させられるかもしれない。具体的に言うなら胸毛がすごい高石先輩がいる空手部とかに捕まってしまうかもしれない。
しーちゃんがそんなつらい目に合っているのを見ているくらいなら、僕が殴られた方がまだマシだ。
――と、喉元すぎた僕はカッコイイことを考えてみる。
本当は理由なんてそんな複雑じゃない。しーちゃんが巻き込まれたから行った。それだけだ。しーちゃんが逆に迷惑に思うとか、そういうのも考えなかった。……僕はお節介なのか? 普通だよな?
「一之瀬、右手に何を持っている?」
柳君に言われて、しーちゃんが心配そうな顔のまま僕から離れた。たぶん柳君はしーちゃんの気を逸らすために話題を振ったのだと思う。
でも、確かに、僕は何かを握り……あ。
「生徒手帳だ」
守山先輩に見せた時から持っていた。
思いっきり力強く握ってしまったせいで、中ほどで完璧に横に折れていた。顔写真を保護するプラケース部分にも折り目が出来て、深く白い跡がくっきり残っている。
……四月に貰ったばっかなのに。
まあいいや。
僕は生徒手帳をポケットに収め、……改めて、両手に顔を伏せた。
「超こえぇー! 超怖かったー! うおおおぉぉ……もう二度と行かない! もう二度と行かないから! 身体の震えが止まんないよ! 高石先輩胸毛こえー!」
小声だが、でも語気は強く、とにかく両手の世界にぶちまける。
心の中に留めておけない恐怖の感情を、表に出さずにはいられなかった。
僕は普通なのだ。
いや、もしかしたら、普通より弱いのかもしれない。
だから言わずにはいられなかった。
「泣くなよ」
「泣いてない!」
高井君の声は優しく、本物の兄、あるいは親父のように僕の肩を抱いた。でもほんとに泣いてはないよ? 半泣きではあるけど。
鞄を捨ててきた僕は、大乱闘が終わるのをその場で待つことにした。
柳君も高井君もしーちゃんも、僕に付き合ってそこに留まった。
ふと「昨日はどうしたの?」と、しーちゃんに月曜日のことを訊いてみた。「新人狩り」は月曜日から始まっていたはずだ。
しーちゃんの答えは「遅刻寸前まで待っていた」と、非常に合理的なものだった。今日はたまたま人込みに揉まれて前にいたので、団員に捕まったらしい。
そうだよな。別に遅刻してもいいよ。アレに参加するくらいなら。
大乱闘が下火になってきたかな、というところで、騒ぎを余裕でスルーしてきた三年生らしき二人組が入ってきた。
聞くでもなく、二人の会話が聞こえた。
「今年の一年もバカばっかだな」
「おまえもバカの一人だったけどな」
「そういうおまえもな」
「つかなんで気付かなかったんだろうな、あの時の俺ら」
「ああ、必死だったよな。無駄にさ――」
「裏山から入りゃいいだけなのにな」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
……僕らは呆然とした。声も出なかった。
そうだ。
なぜそんな簡単なことに気付かなかったのだろう。
なぜ校門にこだわる必要があったのだろう。
――恥ずかしい! 猛烈にさっきの僕が恥ずかしい! 何が「早く行け」だよバカか僕はバカだよ僕はええはい僕はバカですけど何か!? 畜生! ただ「裏から入ればいい」なんて単純な方法で回避できたあのバカ騒ぎに真っ向から立ち向かった僕はバカだよ本当に! ONEの会にも入る必要なかったじゃないか! 畜生! 僕はなんのために五条坂先輩のセクハラ視線に身体を捧げたんだよ! 五条坂先輩の頭の中の僕は確実にAは済まされちゃってるんだぞ!
その後、しーちゃんは普通に裏山から登下校して難を逃れた。
そして僕は「新人狩り」の難からは逃れたが、ONEの会からは当然逃げられなかった。
……なんだろうね、この運命の皮肉は……