122.九月二日 金曜日
どこの高校もそうだと思うが、八十一高校は始業式翌日から通常運行だ。
夏休みという超大型連休でなまりきっている頭と身体では、午後までフルタイムの授業というのはかなりの重労働である。教室には文明の利器もないしね。
普段と違うところと言えば、今日明日は各教科で夏休みの宿題を回収するところか。
今しがた登校してきた僕は、鞄の中から、今日回収するであろう科目の宿題をチェックしていた。プリント、問題集、ノートと多岐に渡るので、うっかり忘れてしまいそうだ。記入漏れはないと思うが、忘れ物の方がちょっと心配で、こうして今チェックしている。
まあ、もし今忘れ物が発覚しても、取りに帰る時間なんてないけれど。
「……一之瀬くん、数学……」
覚醒した乙女マコちゃんが泣きついてきたので、数学の宿題を渡した。きっとこうして「宿題見せて」的な声が上がるだろうとは予想していたから。
だが僕の予想は、半分以上ははずれる。
マコちゃんが言い出した以外は、拍子抜けするほど静かなものだったからだ。
――実にB組の七割が夏休みの宿題に丸々手をつけていないというとんでもない、でも納得はできてしまう大事件が発覚するのは、今日の放課後である。
彼らは宿題に見向きもせず、宿題の存在を無理やり忘れ、もはや「宿題をしなければいけない」という現実さえ否定していた。
僕が宿題の整理をしていてもチラッと見ただけで無視するのだ――そう、見たくないから見ないのだ。今更慌ててももう手遅れだと悟っているのだ。
その清々しい潔さだけは認めようと思う。
だがどうして痛々しくも見えてしまうのだろう?
……それに対する罰を受ける覚悟さえも見えているからか。
だがそれはただの前奏曲である。
この問題は、我ら一年B組の中だけに留まらず、高校全体で起こっている現象だったからだ。
まあそれでも、もうあんまり驚かないかなぁ。
だってそういう学校だって知ってるから。今更別にもういいと思う。
それより、もっと驚いたことがある。
いや、驚いたというより、……なんだろう? なんて言えばいいんだろう?
それは……そう、ただシンプルに「奇跡」と呼べば良いだろうか。
というか、それ以外言いようがないと思う。
事の発端は、登校してきた柳君にあった。
「おはよう柳君」
「ああ」
彼はいつも通り感情の見えない顔で返答し、席に着いた。
「宿題やった?」
「やった。おまえは……聞くまでもないか」
うん。今机に広げてるしね。
「一之瀬、明日の放課後、空いてるか?」
え?
今なんて言った?
「明日の放課後?」
「ああ」
「空いてるかって?」
「そうだ」
「……柳君がそんなこと言い出すなんて珍しいね」
というか、初めてかもしれない。だから耳を疑ってしまった。
僕から誘うことはあっても、誘われたことはなかったと思う。強いてあげるなら球技大会の時に行ったバッティングセンターくらいだったはずだ。まああれは柳君が行くっていうから付いて行っただけだが。
「どこか行きたいの?」
「ああ、ちょっと…………ん?」
ん?
柳君は鞄から出した教科書を机に入れようとして、そのまま不自然に止まった。
固まること五秒。
「一之瀬、頼む」
「え?」
柳君は巻戻しのように今出した教科書を鞄に戻し、その鞄を僕に預けた。……いやほんとなんだよ。何事だよ。
わけがわからず黙って見ていると、柳君は席を立ち、机を持って窓際に移動した。
そう、窓際に移動した。
その一学期中にたびたび見た憶えのある行動に、僕もようやく柳君に何があったのか理解した。机を持っていったのは初めてだが、たぶんはずれではないだろう。
――机の中のパンだ。
柳君はその有り余るイケメンっぷりのせいでいやがらせを受けている。本人は全然気にしていないので解決することもなく悪化することもなくそのまま放置されていた。
今や食べかけのパンを机の中に突っ込まれるのは、ただの日常の光景と化している。そして彼が窓の外にパンを蒔くのを、今か今かとなんとなーく餌付けされつつある鳥が待ち構えているのだ。
無駄な需要と供給が成り立っていた。
本当に無駄な需要と供給が。
この時点で色々疑問はあるが、疑問があると同時にすぐ解決もしてしまった。
柳君が机を持っていったのは、両手で抱えきれないほどぎっしりパンが入っていたからだろう。それは一日に突っ込まれた量ではなく、何日にも渡って詰められたからだ。
いつ詰められたかって?
それはもちろん、夏休みの補習期間中に決まっている。
ああ、手に取るようにわかる。
クーラーのない暑い教室。
世間一般の学生には夏休みだというのに学校へ出てきて。
苦手な勉強でストレスを溜めた彼らは、八つ当たりを兼ねて柳君の机の中にパンを放り込むのだ。
なんとも悲しい現象である。そんなことをしても気が晴れるとは思えないが、でもきっと、やらずにはいられなかったのだろう。
……その無駄にするパン、普通に食べつくした方がよっぽど自分の小さな幸せに繋がると思うんだけどな。なぜそれに気づかないのだろう。
自分の幸せを投げ打ってでも他人の不幸を願う瞬間は確かにあるけれど……いや、理屈で計れないのが人間だよな。
そして事件は起こった。
「うわっ、ちょっ、柳!」
「おいおい何やってんだよおい! おいって! おっ……おおおおおおお!?」
「あぶねっ!? あぶっ、あっぶね!」
うわーすげえ! つかやべえ!
僕はいち早く机の下に避難した。理性より本能の行動だった。
柳君が一学期の頃と同じように窓を開け、パンを放り投げようとしたところで――無数の鳥が窓から飛び込んできたのだ!
まさに縦横無尽の無差別兵器!
鳥たちは、クラスメイトの胴体をズバーンと貫きそうなほどの勢いで、ためらいなく教室を飛び回った!
久しぶりの配給だからか、単純に机の上に山盛り乗せられたパンに目がくらんだのか、それとも単純に餌付け親の柳君に会えて嬉しかったのか……それは誰にもわからない。
教室中を狂ったように飛び回った鳥たちは、最終的には一斉に柳君に襲い掛かり彼を覆いつくすと……気が済んだのか、外へ飛び出していった。
時間にして三分くらいだったと思う。
もしかしたら、今教室にいる僕らは、奇跡というべきものを目の当たりにしたのかもしれない。
誰もが予想しない、冷静ではいられない現象が嵐のように去ってゆき、何事もなかったかのように静まり返る教室。
まさか夢でも見ていたのかと疑いを抱く光景だったが、確かにあれは現実だったのだ。
だって、ほら。
「柳君、大丈夫!?」
髪はぼさぼさ、身体にはたくさんの鳥の羽、この世の深淵でも垣間見たかのような真顔でフリーズしている柳君は、どう見ても鳥に襲われた直後の人である。
たくさんの鳥に襲われ、見事にエサを奪われた人そのものである。
この日、元々口数の少ない彼は、もっと口数が減ってしまった。
外から見ている分にはよくわからないが、鳥に襲われたのは柳君的にも、かなりショックだったのかもしれない。
肝試しの時の月山さんのこととか色々聞きたかったんだけどな……
明日は柳君が何やら用事があると言っていたので、明日なら聞けるだろうか?
それにしても、鳥か……
鳥まで規格外か。この八十一町は。恐ろしい。