121.九月一日 木曜日 始業式
何度か躊躇したが、断腸の思いでカレンダーを捲る。
九月一日。
望まなかった九月一日。
溜息しか出ない九月一日。
もう憎しみさえ感じる九月一日。
一年の中で、小中高生に一番嫌われている日であろう九月一日。
ああ、ついにこの日が来てしまった。
今日も嫌味なほどに暑い。
恨めしくなるほど青一色の空に、朝から溜息が止まらない。
溜息を吐くと幸せが逃げるそうだが、今日は最初から幸せなんて欠片も存在しないので別にいい。
休みが終わるのも憂鬱だが、何より、あの高校生活がまた始まるかと思うと……いやもうほんと、溜息しか出ません。
腐ってばかりもいられない。それはわかっている。
というか、今のままじゃ色々まずい。
こんな溜息ばかり吐いて下を向いていては絶対にまずいのだ。
前を見つめ、周囲に耳を澄まし、いつでもアクションを起こせるようリラックスしたまま意識だけ高く保つ。
僕は一学期中盤から後半は、このスタンスで周りから降り注ぐトラブルをできるだけ避けていた。それでも全ては避けられないのだから、どれだけあの高校に事件が溢れているか知れない。ほんとに。一学期だけでどれだけのことがあったのか……もう思い出したくもない。
……夏休み、安寧に過ごしすぎたのだ。
エサを貰うことを当然のようにして育った太った猫くらいの楽な生活を送ってしまった僕の感覚は、僕の本能と野生は、だいぶ鈍っていると思う。
恐らく、この奮い立たない戦意という名のやる気のなさこそが一番の不安で、僕の憂鬱の一番の理由だろう。
足取りは重くとも、歩けば前には進んでいく。
たとえ気持ちは後ろを向いていても。
僕はすでに八十一高校の前に立っていて、今や不吉にしか見えない校舎を、敷地に入ることもできずただただ見上げていた。
この鈍った感覚のまま学校に行って大丈夫だろうか? この高校は、始業式だからと油断できる環境ではない。どの方角からでも事件という名の凶弾が襲ってくる特殊極まりない危険地帯である。
今日もきっと事件が起こる。
僕の勘では、七十パーセントくらいの確率で何かが起こる気がする。
それが安全なものならいいが、もし違ったら……
でも、まあ、行かないわけにも行かないし、うだうだ考えてないでそろそろ行くか。
一度は身に付け培った感覚である。失ったわけではない。何かが起これば僕の本能がきっと思い出すだろう。
「おはよう」
約一ヶ月ぶりの一年B組は、七月の終業式と何も変わらない。来ていたクラスメイトたちが口々に挨拶を返してくる。
久しぶりだからか、それとも平和ボケしているからか。
どことなく懐かしい感じがして、記憶にある一年B組より色鮮やかに感じられた。たった一ヶ月の空白と言うべきなのか、一ヶ月も来なかったと言うべきなのかはわからないが、僕の感覚では後者が近いのかもしれない。
「おはよう一之瀬君」
「おっす」
斜め前の席のゲーマー・池田君と、何やら雑誌を広げて話していた大沼君が、席に着こうとする僕を振り返っていた。
「DS買った?」
池田君の問いに、僕は首を横に振りながら椅子に座る。
「いや、資金がだいぶ少なくなっちゃって。まだ買ってない」
「えーなんだよー。一緒にポケ●ンやろうぜー」
やりたいのは山々なんだよ、大沼君。僕だってポ●モンマスター目指したいわ。「ピカ●ュー、十億ボルトだ!」とか一度でいいから言ってみたいわ。
球技大会でワーストナインに選出され、一緒に野球をやったこの二人とは、あれ以来よく話すようになった。何度かゲームして遊ぼうと誘ってくれている。
ただし、我が家には初代PSしかないので、最先端を行く彼らとは二世代くらいゲームに関しての意識の差があるので、未だ実現はしていないが。
「あ、そうだ」
僕は鞄から、夏休み前に二人に借りていたPSソフトを出した。
「これ、ありがとう」
名作と名高いだけあって、どれも面白かった。敵を罠に掛けて戦うアクションと、隠れながら進むっていう忍者のゲームと、ラブを集めるRPGと、アトリエシリーズと呼ばれる今も続編が出ている長寿ソフトの一作目と二作目。
「もういいのか?」
「うん……というか、妹がすごく気に入ってね。全部ソフト買ったんだよ」
受験のストレスか息抜きか、妹はよくリビングでゲームをやっていた。特に罠ゲーはよくやっていたっけ。
「花瓶が好きだって言ってた。頭にガポッてハマるたびに笑ってたし」
「おお」
「妹、通だな。おまえは?」
「見てるだけで楽しかったから、やってない」
「「やれよ!」」
そんな話をしている間に、来ていなかったクラスメイトたちがどんどん席を受めていく。
中学時代、いつも夏休みを超えたら豹変している夏休みデビュー的な女子とかいた気がするが、男子の場合はその傾向はあまりないらしい。
強いて言えば一学期より日焼けしてる奴が多いくらいだろうか。
あと久しぶりに会ったクラスメイトに、夏休み中にあった話をしようとして、全体的にテンションが高めかもしれない。
「よう」
「おはよう」
隣の柳君もやってきて、
「おーっす」
筋肉高井もやってきた。
懐かしいと思っていた一ヶ月ぶりの教室が、一年B組が、今の現実に塗り替えられていく。
一度は順応したこの環境に、感覚が少しずつ追いついていくのを感じていた。
大丈夫っぽい。
眠ったままの僕の本能というか野生というか、危機回避の感覚がちゃんと覚醒してくれそうだ。
いつになく騒がしい朝は、担任の襲来で沈静化する。
「席に着け」
担任・三宅弥生たんだ。白いブラウスにジーンズという、その辺にいるお姉さんのような力の抜けた格好である。ああ、この人も変わらないな。
「弥生たーん!」
「弥生たん弥生たん!」
「弥生たんフゥーウ! 弥生たんフゥーウ!」
「毎日俺の夢見てくれた!? ずっとそう呪ってたんだけど!」
「呪うってなんだよ! 俺の弥生たんだぞ!?」
「あ? うっせーよ! 俺は弥生たんの家知ってんだぞ!?」
「は? 俺なんかスリーサイズ知ってるぜ!?」
「うそ!? マジで!?」
「昨日は弥生たんが寝かしてくれなかったから実質二時間しか寝てない俺に何が言いたいわけ?」
「はあ!? おまえが二時間なら俺一時間だし!」
「俺十五分!」
「俺九分!」
「二分!」
「それより弥生たんの下着の色って黒が多いってほんとか!?」
「「誰か今そんな話したか!?」」
これまた久しぶりに会ったのだろうクラスメイトは、久しぶりに見た美人の担任にテンションが上がる。もはやバカ騒ぎである。……というか思考がストーカー的な方向に行ってる奴がいるような気がする。
夏ってほんとに怖いね。
きっと暑さのせいだろうね。
……相手が誰で、どんな存在なのかさえ忘れてしまうのだから。
彼女はあの八十一町の伝説・五条坂光と肩を並べるほどの強者であることを、みんなすっかり忘れているようだ。
僕としては、五条坂先輩の無類の強さと教師権限を持ち合わせた、この高校で最も敵に回したくない人なんだけどな。
「――はいうるさいうるさい。人の名前連呼するな」
弥生たんは軽いセクハラくらい慣れたものなのか、鬱陶しそうに前髪を掻き揚げた。
「盛り上がってるところ悪いが、私は夏休み中に彼氏できたんだぞ」
え?
「「ええーーーーーーー!?」」
この斉唱には、僕の声も入っていた。
だって、あの弥生たんに……七夕の日、恋人のいない寂しい女を集めた女子会で飲んだくれて管を巻くと言っていたあの弥生たんに、彼氏ができただなんて……!
男たちは泣いた。
わりと本気で泣いた。
「俺というものがありがなら」という全然根拠も理由も存在しない、でもなぜかわかるような気がする嘆きの声が、そこかしこから聞こえた。
「せんせーそいつどんな奴!? 俺よりいい男!?」
立ち上がったのは、我がクラスのイケメングループが一人、黒光りする肌が一層濃くなった大喜多君だ。
「ああ、いい男だ。身長は百八十近くて頭は良くて運動もできてモデルもやってる高スペックで、趣味は昼寝とシルバーアクセ作り。もちろんモデルだからかなりイケメンだ」
え、えぇぇぇ……どんな完璧超人だよ!? そんなの実在するのかよ!?
……あ、隣にいたわ。対抗できそうなイケメンが身近にいたわ。まあ柳君はそんなに背は高くないけど。
「ちなみに初デートは森林公園に行ったかな。どんな会話したか教えてやろうか?」
弥生たんは得意げに笑う。男たちはさめざめ泣いた。
……なんか悔しいな。
別に「弥生たんは僕のものだー」なんて意識は全然なかったが……そう、そういう意識はなかったが、この一年B組のものだ、とは思っているのかもしれない。だって担任だから。僕らが学校で一番に頼れるのはやはりこの人で、だからこそ誰かに取られたようで面白くないのだろう。
「弥生たん、そいつの名前は!? 別に見つけ出してボッコボコにしてやろうとか考えてないから教えてくれよ!」
と、次に立ち上がったのはヤンキー久慈君だ。……彼は絶対に見つけ出してボッコボコにしてやろうと考えているだろう血気盛んな顔をしていた。
クラスメイトとしては止めるべきだろう。
でも今は、今だけは、彼を応援したい自分が抑えきれない。
「名前は葉月君だ」
弥生たんは予想外にもすんなり答えた。は……葉月君?
皆が顔を見合わせる――「知ってるか?」「いや知らない」「渋川! おまえ知ってるか!?」「さすがに社会人は管轄外だが……だが待て。身長百八十近くて頭良くて運動もできてモデルやってるって限られるなら探せるかもしれない」「マジか!?」「さすが自称情報通だな!」というやり取りが繰り広げられる中、
「……あ」
池田君が、どこか怒気をはらんだ皆の声とは若干ずれた声を上げた。恐らく同じ声のトーンだったら埋もれていただろう普通の声だったが、今教室に飛び交っている声とは種類が違うそれは、容易に音の隙間を通った。
「先生、それってもしかして、小さい頃に教会で出会った葉月君ですか?」
「なんで知ってんだよ。面白くない」
え?
一気に気分を害したようで、弥生たんは今日のこの後の予定を告げると、さっさと教室を出て行った。
池田君は簡潔に語った。
弥生たんの言っている葉月君とは、恋愛ゲームの元祖とも言われている、某ときめくメモリアルの女の子向けバージョンのキャラクターらしい。
みんなが「なーんだゲームかよ」と安堵している中、僕はどうして池田君が女の子向けのゲームのキャラクターを知っていたのか微妙に気になった。
聞けば「ゲームならなんでもやりたいから」と彼は答えた。
その顔はどこか誇らしげだった。
……でも別に誇ることではないだろ、と思った。
「ちょっ、待てよ」
誰かが言った。結構似てるキ●タクっぽい声で言った。――これまたイケメングループの一人、ピアス付けすぎ小田君だった。
「おまえらそれでいいのかよ? ――俺は嫌だね! たとえゲームのキャラでも、弥生たんは渡せねえ!」
な……何を言い出すんだ彼は!
――彼の言葉を聞いた瞬間、僕の眠りこけていた本能が、野生が、危機回避能力が、背筋が凍るような嫌な予感とともに完全に目覚めたのを自覚した。
僕は一瞬にして、この後の彼らの行動を見抜いていた。
そして、それと同時に、僕には彼らを止められないことも理解できた。
「……そうだよ。たとえゲーム内の話でも、弥生たんは渡せねえよ」
「だよな……葉月君がナンボのモンだよ……!」
「つか高スペックなのが許せねえ!」
「モデル? 身長百八十? そんな奴趣味の昼寝しか共感できねえよ!」
「おい待て! おまえの昼寝とイケメンの昼寝には超えられない壁が存在している!」
「そうだ! おまえの昼寝はキモイだけ、イケメンの昼寝は寝ている彼にキスしたくなるイケメンの寝顔だ!」
「おまえら俺を本格的に泣かせたいのか!? すでに半分は泣いてるから、もう……やめろっ……!」
「――なあ、そろそろ殺しに行こうぜ……幻想をよ!」
ああ……ああ、そうか……
僕はこのバカな日常に、帰ってきたんだな……
……帰りたくなかったな……ずっと、ずぅっと夏休みがよかったな……
一年B組、二学期始業式にて突発的聖戦発動。
この後、体育館にて行われた始業式には、一年B組はほんの数名しか参加しないという前代未聞の惨状を晒してしまうも、僕は特に気にならなかった。
だってこんなの、本当に、ただの日常茶飯事だから。
二学期が始まった。
返り討ちにされたクラスメイトの大半以上が、職員室前に正座したまま二学期を迎えた。
また絶望の日々が始まったな、と僕は溜息を吐いた。