120.ある夏休みの一日 其ノ漆 り
僕の隣に、僕の好きな人が立っている。
左右に跳ねるショートカットのクセ毛は、今日は前髪にピンを着けて七三分けになっていて、白地にひまわり模様の浴衣がとても似合っていた。
祭り効果とか浴衣効果とか言われても否定はしない。
僕の目には、彼女はいつもより綺麗で、かわいく見えている。
今まで出会った誰よりも。
澄んだ鳶色の瞳は吸い込まれそうなほどに透き通り、暗がりにいてもその美しさはよくわかる。
僕は知っている。
その瞳が連想させるように、この人がとても優しい人だということを。
彼女を好きになったきっかけも、彼女が優しかったからだ。それは彼女にとっては普通にやってしまうようなとても小さな親切だったのかもしれないが、受け取った僕の印象は違う。
「当たり」の割り箸を握り締め、鼓動が早くなった心臓もそのまま、僕は言った。
「――天塩川さん。一緒に行きましょう」
前に下見に来た時は、木漏れ日が気持ちいい山の道だった。
踏み固められた地面には強い日差しと青々とした緑が作り出した影のアートが広がり、直射日光を避けられた涼しさと風が運んでくる自然の匂いが印象に残っている。
だが、夜というだけで、こんなにも違うのか。
ただ枝葉が風に吹かれる音に得体の知れないものを感じ、先の見えない山道の細さがそのまま僕らの心細さと重なるような気がする。虫の音という命を感じる音は確かにここにあるのに、それはどこか遠くにあって、それこそ聞こえないくらいに耳に入ってこない。
――まあ、それは僕が別のことに気を取られているからかもしれないが。
複数名での出撃が多かった中、僕は天塩川さんと二人きりでスタートした。
残っていた連中に「ヒューヒュー」とか「足元気をつけて」とか「よっ、エロ大王! 手を握るふりをして変なとこ触るなよ! スケベ!!」とかはやし立てられた――最後のは誰だ? 鳥羽か? 鳥羽だな? あのボーズ、新学期憶えてろよ。おまえが忘れても僕は忘れないからな。……絶対忘れないからな……!
「アハハ。彼は人を陥れるのが三度の飯より大好きなんです。名前は鳥羽君って言ってね。ぜひ九ヶ姫の皆さんに危険人物だから鳥羽という男には近づかないようにと注意しておいてくださいね」
「は、はあ」
思い知れ鳥羽ぁ! 貴様の悪意はこうして自らの身に返るのだ! 高校生の間に彼女できると思うなよ!
スタート前から醜い男の嫉妬を味わってしまったが、気を取り直して。
家から持って来た小さな懐中電灯の灯りを頼りに、僕たちは山道に踏み出した。
細い道を少し行くと、もう人の声は聞こえなくなった。
振り返ると、ただただ夜の帳があるだけで、他には何も見えなかった。
――でもそれどころじゃないんだけどね。
僕はホラーに強いわけじゃないし、怖いものは普通に嫌だ。
だが、正直今は、怖いとか不気味とか、そういう感情さえどこかへ行ってしまっている。
隣に天塩川さんがいる。
浴衣姿でそこにいる。
ただそれだけで、僕の思考と感情は、溢れんばかりに彼女一色に満たされていて、それ以上が入り込む余地がないのだ。
「ちょっと怖いね」
「えっ!? ……そ、そうっすね! どっちかと言うと怖いっすね!」
突然声を掛けられたので、反射的に適当なことを答えてしまった。急に話しかけるのはやめてほしい。でも声かわいいな……!
「一之瀬くん、こういうの得意なの?」
「えっ!? ……そ、そうっすね! どっちかと言うとそれどころじゃないっすね!」
「え?」
「え?」
……え?
なんか変な受け答えでもしただろうか?
いや今自分がものすごくテンパッてて変である自覚はあるが、足を止めさせるほど変なことを言っただろうか?
見ると、天塩川さんはじっと僕を見ていた。
「すごい。平気なんだ」
「……え? 何が?」
「え? 肝試しだけど……」
「え?」
「え?」
え?
……いかん。テンパりすぎてなんかよくわからなくなってきた。
僕はきょとんとしている天塩川さんから顔を背けると、思いっきり自分の顔面にパンチした――よし、ちょっと落ち着いた。だいぶ本気で殴ったから結構痛いけど、そんなのどうでもいい。
「今どうしたの? 変な音したけど」
「いえ、なんでも。行きましょう」
とりあえず、この肝試し中のどこかで告白しないと。
僕はたぶん、僕が思っている以上に彼女のことが好きなのだ。
それこそ告白してフラれるくらいしないと、諦めがつかないように思う。
「……あの、天塩川さ――」
「あっ」
ふに
突然ふにっとした暖かい何かが、腕に……え? こ、これって……これって……
「ご、ごめんなさい。躓いちゃって……」
天塩川さん……!
――今のは天塩川さんが躓いて僕の腕にしがみついてきた感触ってか……!
冷静になっていた頭が、一瞬にしてまた沸騰した。――僕はすかさず更なる一撃を顔面に見舞い、すこぶるさわやかに天塩川さんを振り返った。
「ええ構いませんとも! なんなら手を繋いでもいいですよ! アハハ!」
と、僕は紳士然とした優雅さで手を差し出す。
ここで望んだのは「やだー一之瀬くんキモーイ。アハハー。あとウザーイ」という明るい声である。彼女にキモイとかウザイなんて言われたら立ち直れなくなりそうだが、今の僕にはテンションを下げさせる一言、あるいは何かが欲しかった。
だって、自分で何言ってるかわからないくらい、取り乱しているから。
この場この時に天塩川さんがいなければ、やる気の出るスイッチを押された少年のごとく上半身脱ぎ散らかして叫び散らしながら走り散らしてもおかしくない。そんな超ハイテンションだったから。
だが、現実は時にフィクションを超える。
「――ぎゃーーーーーーーーー!!」
突然、天塩川さんが悲鳴を上げた。
天塩川さんが悲鳴を上げたことに驚き、しかも冗談で差し出していた手に身体でしがみついてきたのにまた驚き、
「――ぎゃーーーーーーーーー!!」
僕も悲鳴を上げた。
それはもう、今まで上げたことのない悲鳴を上げたとも。
しばらくして落ち着くと、僕は三発目の拳を顔面に入れて気を落ち着かせ、僕の腕にしがみついてがたがた震えている天塩川さんの対処にあわあわしていた。
こういう時、あれか?
肩を撫でるとか、あれか?
さ、触るのか?
触っていいのか?
いやそもそも触っていいか否かを問うのであれば彼女の方からほれこの通りなわけでならば今更僕が僕からささっと触れても特に問題はないと思われるわけで別にいやらしい意味で触るわけじゃないしいやらしい意味で細い肩に触れたいと思ってるわけじゃないしいやらしい意味じゃないんだから触ってもいいよねいいんだよね触るぞ触っちゃうぞイェーオレは今新世界の神に等しい存在になろうしている――
「ご、ごめんなさい」
天塩川さん……!
彼女は敏感に僕の全然いやらしくない邪気を感じ取ったのか、僕から離れた。
「うわあ恥ずかしい……年下の前なのに……」
天塩川さんは両手に顔を伏せ、羞恥に身をよじった。……めちゃくちゃかわいいな! いやらしい意味でもいやらしくない意味でも触れたくなるわ! なんだこれ! 触れたくなるわ! 僕が小動物なら擦り寄ってるわ! そして胸元に潜り込んで「ここで飼ってくれ」とねだってるわ!
「というか、どうしたんですか?」
このままじゃ後続に追いつかれそうなので、あと恥ずかしがっている天塩川さんを放置するのは見てる方は楽しいが本人的にはかわいそうなので、話を振ってみた。
「うん、なんか、冷たくてべちょっとしたものが首筋に……れ、霊の手かな!? 悪霊に触られたのかな!? レイスの手だったかな!? エナジードレインされちゃったかな!?」
レイスいねーよ。なんでこんな辺鄙な男子校の裏にそんなビッグな幽霊がいるんだよ。ここ霊的要因が一切ないただの小高い山だよ。
……と、天塩川さんじゃなければ突っ込んでいたところだ。
「こんにゃくじゃないですか? ベタに」
「こ、こんにゃく?」
「ええ。ほら」
ぼんやり何かが浮いているようなそこに懐中電灯を向けると、案の定吊るされたこんにゃくがあった。……ベタだなー。まあこういうの嫌いじゃないけどさ。
幽霊の正体を見た天塩川さんは「なーんだアハハー」と笑顔を見せたので、僕も少しほっとした。
――そして後になって後悔する。
なぜ僕はあの時「レイスだったかもよ!? さあほら触られた首筋を見せるんだ早く手遅れになるぞ!」と言わなかったのか……彼女のうなじを至近距離で見たり合法的に肩に触れたりできたのに……!
だが腕に残るこの暖かい感触……一生忘れないようしっかり心に刻み込んでおこう。
誰がなんと言うと、今日僕らは、ほんの少しだけイチャイチャした、その証拠なのだから……!
再び僕らは歩き出した。
今度は天塩川さんが躓かないよう、ゆっくり行く。やっぱりサンダル……いや、草履って言うべきか? とにかく履物が靴じゃないので、山道なんかはちょっと歩きづらいのかもしれない。
歩きながら、僕はずっと考えていた。
テンパッた頭で考えていた。
告白なんていつすればいいんだろう、と。
別にいつでもいいとは思う。こういうのは雰囲気も場所も大事ではあるが、何より大事なのは気持ちだと思う。
「どうせフラれるのに何シチュエーション選んでるの?」というツッコミはなしだ。
やっつけや思いつきでするわけじゃない。いくら答えがわかっていたとしても、僕の真剣な気持ちを伝えることに代わりはない。
適当になんてやったら、天塩川さんににも失礼だろう。
彼女は適当に告白できるような安い女性じゃない。
でもきっかけが……
……とりあえず、そのきっかけを探すために、世間話でも振ってみようかな。
「天塩川さん」
「はい?」
「年下ってどう思います?」
「は?」
……あれ!? 僕今何言った!? 今僕何言った!?
「ご、ごめん! 忘れて!」
「はあ……そうですか。わかりました」
あっぶねー! マジあっぶねー! っぶねー! 直撃はまだとして、威嚇射撃がターゲットに当たりそうになるとかどんなマヌケだ!? 僕はバカか!? ……まあわりとバカですけども!
「年下ってかわいいよね」
流せよ天塩川さん! わかったって言ったじゃない! さっき「忘れて」って言ったら「わかりました」って答えたじゃない!
「親戚の子が今度小学校に上がったんだけど、もうかわいくてかわいくて」
そこまで年下の話はしてねーよ! せめて十代の話をしてくれよ!
……つかこのシチュエーションで年下の男から「年下ってどう思う?」って問われたら「あれこいつ私に気ぃあるんじゃね? まさか告ってくんじゃね?」とわずかなりにも思ってほしいよ! それがないって相手を恋愛対象としてまったく見てないってことだろ! ひどいよ! 僕の恋心が気づかれず踏まれてしまった道端の花のようだよ! 気づいてよ! 一輪の野に咲く花に気づいてよ! そして愛でてよ! ……愛でるのは違うか。
まあ親戚の子がどれだけのものかは知らないが、僕は今それを思い出して微笑んでいるあなたの方が確実にかわいいと思いますけどね!
きっかけが掴めないまま、肝試しは続く。
先のこんにゃく(ベタ)を皮切りにここらで裏方の仕事が光る。
その辺の茂みから首なしライダー(上着を脱ぎかけにして頭のシルエットを消す。腹丸見え)が現れた。
くぐもった「首返せぇぇ」の声に天塩川さんは悲鳴を上げた。
僕は「雑だなおい。バイクないのにライダースーツかよ」と思ったが。また茂みに戻ったし。
ゾンビのマスクをした元気すぎるゾンビ?が、道の向こうから走ってきた。
彼は僕らの横を軽快に駆け抜け、天塩川さんは悲鳴を上げた。
僕は「彼はゾンビを血の通ったものと勘違いしてないか?」と思ったが。アスリートみたいなしっかりした走りだったし。
そして予期せぬ、というか反則級の巧妙なるトラップ!
「なんだあれ?」と不自然に道端に落ちているそれに懐中電灯を当てて、僕はものすごく後悔した。
エロ本だった。
道端に落ちていたのはエロ本だった。
表紙からしてエロエロしたエロ本だったよ!
「…………」
「…………」
無言になっちゃったよ!
拾うわけないだろ女の子連れで!
なぜ今このタイミングでこのトラップ仕掛けたの!?
何この気まずい空気――ハッ!? そ、そうか……わかったぞ!
これは一種の嫌がらせだな。
裏方という、おばけ役という、女の子と肝試しができないことに対するモテない彼らの抗議の形だろう。「おまえらばっか楽しんでずるいぞ気まずくなりやがれ」と、今にも茂みの中から怨嗟の声が聞こえそうだ。
よーし! あとでこのトラップ仕掛けた奴を特定して、九ヶ姫の女子に情報リークしてやろっと! こういうことするからモテないんだぞ、と教えてやろっと!
そして、さすがと言わざるを得なかったのが、最後のトラップだった。
一応ゴール地点としての目印になっていた、ぽつんとたたずむ地蔵の前に到着すると――地蔵の前にメガネが落ちていた。
「メガネだね」
「そうですね」
先のエロ本トラップから気まずいままだったものの、このメガネで天塩川さんはようやく沈黙をやぶってくれた。
僕は何気なくそのメガネを拾おうと手を伸ばし――
ぬるっ
「おわっ!?」
声を上げて手を引っ込めた。
気持ち悪かった。ただただ気持ち悪かった。手に残るぬるぬるした感触に生理的な嫌悪感がこみ上げてくる。僕は己を侵すような正体不明のぬるぬるを慌ててズボンにこすり付けた。
「どうしたの?」
「いえ、なんかぬるっとしたのがべったりついてて……」
心配そうな天塩川さんに、心底気分が悪くなった本音を隠して笑い……手にした灯りが偶然照らし出したモノに気づいた。
それは、ピンクのキャップがあやしい小ビンだった。
小ビンは地蔵の真横に立っていて、ボディには「ろ~しょん」とでかでかロゴが書いてあった。
――このぬるぬるローションかよ! つかその小ビンのローションってまさか用途は……いや、これ以上は考えまい。考えたくない。たぶん化粧品かなんかの一種だろう。そう信じよう。
ともすれば血液かとも思って一瞬で気味が悪くなった液体の正体が判明し、すっと楽になった僕は、「くだらない」とつぶやき、天塩川さんを促し先へ向かった。
でも、トラップとしてはこれ以上ないほど気持ち悪かった。
もしかしたら考えたの矢倉君かもしれないな……メガネだし。浮かれていた僕を現に引き戻し、ここまでの道のりとは桁違いに怖くなったし。
でも、なんで誰も日本風のシンプルなおばけやらなかったんだろう。こんにゃくくらいじゃないか?
気がついたら、山道が終わっていた。
僕はまだ告白していない。
僕は焦っていた。
このままじゃ、ちょっと天塩川さんと親しくなった程度で終わってしまう。
僕は、僕自身が思っている以上に、天塩川さんが好きだ。
彼氏がいるのがわかっていて、玉砕覚悟ができていて、それでも告白したいと思っているのだから重症だ。
だからこそ、ちゃんとフラれないと、きっと次の恋愛なんて無理だろう。
「怖かったね」
最後以外はそうでもなかったけど、天塩川さんは心底ほっとしたように笑った。
八十一第二公園側に出てきた先陣は、近くにある街灯の下に集まっていた。僕らを見つけた誰かが「天塩川先輩」と彼女を呼ぶ。たぶん陸上部の後輩だろう。
彼女は自分を呼ぶ誰かに手を振り、歩き出そうとした。
そんな彼女の手を、僕は掴んだ。
驚いて彼女は振り返る。
彼女の澄んだ瞳と僕の瞳を向かい合わせ、もう一度だけ自分の気持ちを確認する。
――うん、僕はやっぱり天塩川さんが好きだ。
跳ねてるクセ毛も好きだ。
細い身体も好きだ。
声も、瞳も、走っている時に見せる真剣な顔も、天然で怖がりなところも大好きだ。
そして、優しいところが好きだ。
「天塩川さん。僕は、あなたが好きです」
遠くの空に咲いた花火が、一瞬だけ、天塩川さんの横顔を真っ赤に染めた。