116.ある夏休みの一日 其ノ漆 最
夏休みも終わりに差し迫ったある日。
夏休みという貴重な時間が磨り減っていくのと比例して、もうすぐ学校始まるなぁ、嫌だなぁ、小学校中学校の時とは比べ物にならないほどものすごーく嫌だなぁ、憂鬱とかまだ遊びたいとかそういう次元じゃないところで嫌だなぁ、またあの地獄の日々が始まるのか嫌だなぁ、などと取り止めのないことを考える時間が増えていた。
始まりがあれば終わりがある。
終わりがあるから、また始まる。
わかってはいるが、しかし、終わるからこそ惜しいのである。
……ああ、また学校が始まるのか……
朝食を済ませ、僕はリビングにあるソファに座り、もうすぐ始まる学校のことを考えながらぼんやりテレビを見ていた。
宿題は終わったし、予定はないし、特にやることないし。
あの高校生活が間もなく始まろうとしている今、この時間が限りなく貴重なことは理解している。だからこそのんびりしている。何もしたくない。だってあの高校にまた通い始めたら、こんななんでもない時間がもっと貴重なものになるのだから。気の休まる時間が激減するのだから。
――そうだな、たまには昼寝でもしてみようかな。怠惰に。眠くないけど。寝ないまでもマンガでも読みながらゴロゴロしよう。
贅沢な時間の使い方を定めると、僕はソファから立ち上がった。
それはすでに訪れていた。
この夏、僕にとって最大のイベントとなる大事件は、一本の電話から始まった。
部屋に戻ると、机の上で充電器に立ててある携帯のディスプレイが点滅しているのに気づいた。どうやら部屋にいない間に誰かから連絡があったようだ。
「高井君辺りから遊びの誘いかな」などと思いつつ携帯を手に取り、ベッドに転がった。午前中は怠惰にゴロゴロするってもう決めたのだ。遊ぶなら午後からだ。
携帯を開き、着信履歴を見て……驚いた。
「月山さんだ……」
履歴にある名前は、月山凛。柳君が大好きな残念美少女だ。
彼女とはなんだかんだで携帯番号とメルアドは交換したものの、メールのやり取りしかしていない。時々どうでもいいメールを送っては実のない話をしている。もう普通に友達ってくらいには仲が良いかもしれない。
でも、電話は初めてだ。
僕からは掛ける用事はなかったし、彼女の意思がはっきりしているので、いたずらに柳君との進展を聞いたり、遊びに誘うような真似もしなかった。
遊びといえば、せいぜい「柳君と一緒なう」と写メを送って悔しがらせたくらいだ。でもそれでも月山さんは電話はしてこなかった。
履歴時間はついさっきだ。
……察するに、結構重要な話があるのだろう。メールでは追いつかないような話が。
僕はベッドから起き上がり、居住まいを正すようにベッドに腰掛けると、こちらから掛けてみた。
「あ、一之瀬? 電話出ろよー」
「ごめん、部屋にいなかった」
二コール目で、月山さんの声が聞こえた。
メールでやり取りしていたせいか、久しぶりに直接話すのにあまり久しぶりという感じがしない。まあ彼女の場合、むしろ会って話す方が緊張しそうだが。残念さは際立つけど超美少女だからね。
月山さんの声は穏やかだ。どうやら一分一秒を争うような緊急事態というわけではないらしい。
「で、どうしたの? なんか用事だった?」
「うん。……ちょっと頼みがあるの」
「柳君関係なら聞けないよ。僕は君を応援しないって決めてるから」
「えー? いいじゃない。ちょっとくらい」
「柳君、その辺は結構鋭いんだよ。すぐバレるからダメ」
僕だけ怒られるならまだしも、この場合は月山さんにも害が及ぶだろう。僕の決定事項云々もあるが、お互いのために聞き入れられない。
「用がそれだけなら、次は月山さんにはどんな格好が似合うのか話し合おうよ。そして写メ送って。上はタンクトップみたいな肩とか出てる露出の多い奴で、下は膝上十五センチ以上のマイクロミニのスカートを着てると僕は非常に喜ぶけど?」
「今起きたの? 寝ぼけてる?」
いいえ正常です。正常なる要求です。
「それより一之瀬、聞いて」
「し、下着の色を? 僕さすがにそこまでは……でもそこまで言うなら仕方ないね。月山さん今下着どんなの?」
「そんなの言うか! そもそもそんなこと聞けって言うか! 君は妄想ひどいな!」
ええ、妄想こそ思春期男子の原動力ですから。
「いいから聞きなさいよ! 真面目に!」
真面目に、って言われてもな……
月山さんの用事なんて絶対に柳君絡みだし、僕はそれを手伝う気はないってもう言ってるんだけどな。嘘でもなんでもないんだけどな。……でも「お願い一之瀬くん、今後道端の汚物を見るようなさげずんだ目で見てあげるから手伝って」と言われたら、迷わざるを得ない。
まったく。
美人は得だね!
「あのさ、月山さん。僕は――」
手伝わないよ、と言いかけたその時、受話器の向こうの世界で月山さんは「いてっ」と小さな悲鳴を上げた。……なんだ?
「――もしもし? 一之瀬くん?」
あ、声が変わった。この声は……まあ、一人しか該当者はいないか。
「清水さん、久しぶり」
月山さんの友達の、ドSの清水さんだ。どうやら彼女は、月山さんから力ずくで携帯を奪い取ったらしい。仲がよろしいことで。
ちなみに清水さんとも、たまにメールのやり取りはしていた。
清水さんは意外と付き合いが良いのだ。つまらないメールでも返信くれるし。まあ月山さんと友達やっている時点でその辺は証明されているかもしれない。
「朝からごめんね。忙しかった?」
「全然。午前中は寝ようかなって思ってたくらいだから」
「それはよかった。私なんて朝一番で凛に呼び出されちゃったわ」
ああ、だから今一緒なのか。大変だなぁ清水さん。
「で、どうしたの? なんか月山さんのテンションを上げるようなことでもあったの?」
「ええ、まあ」
ここで言葉を濁した清水さんは、僕の予想していなかったカードを切った。
「一之瀬くん、九ヶ姫に好きな人がいるって本当?」
「えっ!?」
なぜそれを!? そしてなぜ今その話題を!?
「その過敏な反応、図星ね?」
「……まあ別に隠すようなことでもないしね。その通りだよ」
肝心なのは、「誰を」好きなのか、だ。そこさえ秘匿できれば大丈夫。僕の知らないところで変な横槍は入らないし、相手……天塩川さんにも迷惑は掛からないだろう。
「取引しない?」
「と、とりひき?」
僕の人生で、リアルで初めて聞いた言葉だ。……結構違和感あるな。
清水さんは、その取引とやらの話を始めた。
思いっきり単純な話をするなら、
「つまり、集団で夏祭りに行かないか、ってことだね?」
えーと、カレンダーで言うところの八月三十日。夏休み最終日の前日、八十一町で夏祭りがあるらしい。「今日の朝刊のチラシに入ってるから、気が向いたら確認してみて」と清水さんは補足した。言う通り後で探してみよう。
「多くは語らない。どうして誘っているかなんて説明するまでもないでしょ?」
「まあ、そうだね」
これは月山さんが言いたかったことである。ならば考えるまでもなく答えは出ている。
「夏祭り、柳君と一緒に過ごしたい」
「うん」
「あわよくばデートしたいけど贅沢は言わないから一緒に過ごしたい」
「そう」
「あと浴衣姿などの普段の自分と一味違う魅力を見せ付けて『ほーらどうだい? 好きになってきたんじゃないかい? このブタ野郎め……跪いて靴を舐めたらご褒美をあげるよ! おまえは今日から柳蒼次じゃない、ただのブタだよ!』と言いたい」
「言うかバカ」という声がやや遠くから聞こえた。どうやら月山さんも耳を寄せて会話を聞いているようだ。
「――まあ概ね正解だけどね」
「言わないよ! 清水ちゃんのバカ! そんな、ブタ野郎なんて……せいぜい『逃げ足の速い銀蝿野郎』くらいだよ!」
せいぜいでそんなこと言うのかよ。君こそバカだよ。言ったらもう着信拒否レベルで嫌われるぞ。
「あ」
清水さんが妙な声を漏らすと――反射的に受話器から耳を遠ざけるような大声が鼓膜にぶつかる。
「一之瀬! この際だからはっきり言っとくけど、柳君の夏祭り初体験は私が貰うからね! 絶対私が奪ってやるんだから!」
大声でヴァージン言うな! 大声じゃなくても言うな! 君ほんとにバカだよ!
「凛うるさい。あと携帯返せ」
「これ私の携帯だよ! 私の、わっ……いたたたたたたた! ごめんなさいごめんなさい! もうえぐらないで! もうえぐらないで! えぐれちゃうから!」
「誰のために朝一番にやってきて、誰のために電話して、誰のために一之瀬くんにまで手間掛けさせてると思ってるの? もういいじゃない。少しくらいえぐれちゃえばいいじゃない」
「そこえぐれたら死んじゃうよ!? そこえぐれたら人間って簡単に死んじゃうんだよ!?」
「大丈夫だよ。きっと。凛なら。たぶん」
「きっととかたぶんって何!? 無責任なこと言わないで! 責任取ってよ!」
……朝から元気だなぁ。
清水さんの制裁と月山さんの懇願と、まだ我らの天下とばかりに騒いでいるセミの声を聞きながら、僕は「もういっそちゃんとシメといてください清水さん」と思いながらテレビを点けた。
「――ごめんね一之瀬くん。お待たせ」
制裁が済んだようだ。時々誰かが鼻をすするような音がするが、あまり気にならないので気にしなかった。
「えっと……どこまで話したっけ?」
「夏祭りに一緒に行こうって話は聞いたけど」
僕の役目は、その夏祭りに柳君を連れてくることだ。つまり柳君を普通に夏祭りに誘えばいいだけだ。
一見楽な仕事ではあるが、実はそうでもない。
僕が柳君を誘って、その出先で偶然月山さんに会うなんて出来事は、柳君は信じないだろう。僕が会わせるように画策したと思うに違いない。――実際その通りだし。
だから、下手に隠さず「月山さんも来るよ」という前提の夏祭りの話をし、その上で誘い出す必要がある。
「ちなみに柳君と月山さんの進展具合は?」
先日、喫茶店「7th」にて再開を果たし、僕を主とした清水さんと藍ちゃんの援護射撃の下、柳君の鉄壁のガードに小さな穴を空けることに成功したのだ! 具体的に言えばメルアド交換したのだ!
「メールの返信一度もなし」
Oh! 絶望的じゃないか!
「え? ……あ、一度だけあるみたい」
お、進展ありか!?
「『メールは一日五通までにしてくれ』って返ってきたみたい」
この上なく悲しい新展開があったんだね! 一日五通って……僕と無駄話してる時より少ないじゃないか!
「それどうなの? 嫌われてない?」
「そうでもないと思う。中学の時、柳君は女子に対して似たような姿勢だったから。有体に言えば、あの頃と同じく脈なし?」
そ、そっか……大変な片思いしてるなぁ。
ほんと侭ならないよね、恋愛って。月山さんだったら世の男子の半分以上は簡単に落とせるだろう。なのに落とせない方を好きになるんだから。……落とせないから好きになったのか?
ま、普通な僕にはわからない世界だけど。
「ところで清水さん、取引って言ってたけど」
「ああ、うん。一緒に夏祭りに行く代わりに――」
「一之瀬くんが好きな女の子、私たちが連れてくるよ」
なっ……なんだってーーーーーー!!
「マジで!? 連れてこれるの!?」
「可能性は高いよ。実は――」
僕はダメなところと残念なところしか知らないが、月山凛と言えば頭脳明晰、運動神経抜群の才女であって、クラブ勧誘の時は数多の部から直接声が掛かったらしい。
「……運動神経抜群はわからなくもないけど、頭脳明晰?」
「典型的なナントカとの紙一重ってやつ。まあとにかく、凛は男子どころか女子にもモテるわけ」
そっか……女子高のことはよくわからないが、月山さんのコネでなんとかなるかもしれないのか。
……そっか……
夏祭り、浴衣を着た涼しげな天塩川さんと一緒に歩けるのか……
へへっ……それならもう、答えは決まっているじゃないか!
「清水さん」
「ん?」
「この話、乗った!」
――こうして、恐らく夏休み最後のイベントになるであろう、夏祭り計画が始まった。