115.ある夏休みの一日 其ノ陸 止
浜辺の高井君を呼びつけ、僕ら四人は外から丸見えの厨房へと集まっていた。
あっつい。
ここすっごい暑い。
屋内にして日影。炎天下よりは涼しいかと思えばそんなことはなく、むしろ外より熱気がすごい。今も火を止めていない鉄板から、殺人的な熱が出ているからだ。
僕らまで焼かんとするかのような狂った熱をムンムン発する鉄板から、少し離れていてもキツイのに――
「みんな大丈夫? 水分足りてるー?」
その鉄板の前に常に陣取り、焼きそばだのお好み焼きだの作りまくっている横岳さんは、汗だくながらも平然としている。……夏波さん繋がりらしく、この人も常人とはちょっと一味違うなぁ。スペック的な意味で。
「なーんかいきなり忙しくてごめんねー。休憩あげたいんだけどそれも無理そうだわー。ごめんねー」
いや、それはもう、店の状態を見れば仕方ない。むしろほんの数分でもこうして仕事の手が止まっている現状の方が、僕は不安だ。
気持ちが一緒かどうかはわからないが、夏波さんも高井君も、休憩がないことへの不満は漏らさなかった。今は店から離れられないことくらいわかっているのだろう。
「もう少しで焼き物系は材料が終わるからさ。それまでがんばってよー」
そっか。材料切れが目処になるのか。
……だいぶ売れている気はするけれど、どれぐらい仕入れてるんだろう――そんな素朴な疑問が沸くも、これも言わなかった。
その代わりに、
「それより仕事しませんか? 店まだいっぱいですよ」
と、一番気になっていることを口にした。シフトチェンジのために集めたんだったら、早く役割を変えて仕事を割り振って欲しい。
「おーおー。見た目どーりマジメだねー一之瀬君。彼女いる?」
今関係ないだろ彼女! ……いませんけど! 何か!?
「じゃシフト変えるから。秋雨君、カキ氷作って。カナちゃんはウエイトレスね。その魅惑のボディでいだだだだだだだだだ!! めんごめんご!!」
夏波さんの制裁は早かった。
とても早かった。
めりめりとこめかみがきしむ音が聞こえるようだ。
まるでその発言が来ることを予想していたかのように……もっとやっちゃえよ夏波さん。その人どうしようもないよ。「めんご」はないよ。余裕あるよ。
一悶着ありつつも、僕らの仕事は無事チェンジされた。
高井君はその身体が示すように、力仕事であるカキ氷製造へ。
夏波さんはウエイトレスだ。やっぱり店員が女性だと華やかだよね。
そして僕は、呼び込みになった。
店の財布である大きながま口とエプロンを夏波さんに渡し、高井君から直射日光を避けるための麦わら帽子を受け取った。
麦わら帽子には「うみぼうず」の名前がでかでかと書いてある。なのでこれは一応ユニフォーム的なものに当たるのだろう。
すっかり焼けた砂浜へ降りる。
帽子で覆えない肌に射す陽光が熱い。じりじり肌を焼いているのがわかる。
朝はがらがらだった浜辺は、もはや人がいない場所を探すのが難しいってくらい混雑していた。まるで店内の混雑そのままだ。
家族連れ、若者、若者、若者、ギャル、ギャル、熟女、お姉さま、少女……とにかく人がいっぱいだ。
――うん、やっぱり水着の女性を見るとテンション上がるね!
「7th」以上の激務を要求されたウェイター仕事で疲れていた身体に、再び力がみなぎっていく。
何を言って呼び込めばいいのかはいまいち決まっていないが、そう、こう考えれば僕は大丈夫だ。。
この浜にいる全ての美女に声を掛けて店に呼ぼう、と。
そう考えれば、僕はだいたいのことはできる。
よし!
八十一高校で培った度胸とかその他諸々を見せてやる!
「いらっしゃいませー! 海の家『うみぼうず』営業中でーす! チャラいオーナーが自慢の『うみぼうず』でーす! カキ氷いかがですかー! お好み焼きもやってまーす!」
声を発するというのは、意外と体力を使うもので。
大声を出せば、意外と筋肉も使うもので。
僕の身体はすぐに汗を吹き出し、中で何かが燃え始めた。ウェイター仕事とはまた違った身体の燃え方である。
行き過ぎて怒鳴り声にならないよう、そしてあまり喉に負担をかけない程度に声を張り上げる。
呼び込みの甲斐あって、何人かは目を止め、足を止め、連れと相談しながら「うみぼうず」へと誘い込むことに成功した。やっぱり目に見える成果というのは嬉しいもので、僕は疲れを忘れて呼び込みを続けた。
どれくらい時間が経ったかはわからないが、そんなには経っていないと思う。せいぜい一時間前後だ。
「一之瀬君、ヘルプー!」
外に面している厨房から、わりと真に迫った横岳さんの声が上がった。
……なんだ?
ヘルプの声に店に戻ると、言葉の意味がすぐにわかった。
ガタガタガタガガタガタタガタガタ
店内の一部がシーンとなるほど、それは震えに震えていた。
誰もがその驚きの震えあがりっぷりに注目し、ハラハラしながら見守っていた。
ガタガタガタガタガタガタタガタガタガタ
震えに合わせてトレイの上のものが歌い、牛歩戦術もびっくりの牛歩っぷりでテーブルの間をスローモーションで歩くのは――言わずと知れた夏波さんだ。
夏波さん、ど緊張のあまりにガチガチになっていた。
なんか動きが開発初期のロボットみたいでカクカクしていて、その表情は横岳さんと再会した時以上の真顔で、真剣すぎて目が怖かった。
「か、夏波さん! 僕やるから! 交代!」
緊張しすぎて僕の接近にさえ気付いていなかった夏波さんは、僕を確認するとビクッと大きく飛び上がった。
「び、びっくりした……驚かせるなバカ!」
「店内で大声出さないのっ」
いつもなら恐ろしいばかりの夏波さんの怒りだが、今は構っていられない。僕は夏波さんかからトレイを奪うと、溜まっていた料理の数々をテキパキとさばいていった。
薄々思っていたけど、夏波さんは不器用だ。
――仕事が落ち着いた後、僕らは再び厨房に集っていた。
「カナちゃーん……」
悲しげな顔をする横岳さんに、夏波さんは「すんません、初めてだったもので……」と小さくなって頭を下げた。何でも、すでに三回ほど料理を落としてダメにもしているらしい。そりゃ落ち込むわ。
でもまあ、初めてのウエイトレスでヘルプもなし。それでこの満席状態をどうにかしろっていうのは、さすがに酷だろう。僕だって経験があったからできたのであって、初めてだったら夏波さんと似たり寄ったりの結果になったに違いない。
「カナさんドンマイ!」
「うるせえ!」
カキ氷機のハンドルをガリガリ回しながら言った高井君に、夏波さんはイラッとしたようだ。――うん、だって絶対イヤミだもんね。笑ってるし。
「僕がウェイター続けた方がいいと思います」
「そーね。そーね。一之瀬君頼めちゃう?」
頼めちゃえねえよ! どんな言葉だよ! ……と言ってやりたかったが、やはりそれどころじゃないのでやめておいた。
かぶった帽子と夏波さんの着用したエプロンを交換し、僕は再びウェイターに戻った。
……ふう。なんか違う意味で忙しいな。
店内に舞い戻った僕は、なんだか夏波さんが心配だった。呼び込みちゃんとできるかな。……まあ、さすがに杞憂か。
それから鉄板焼きの材料が全て終わる四時半まで、ノンストップだった。
「完売御礼! 料理終わりましたー!」
横岳さんが表に出て一礼しそう宣言すると、その辺にいた人たちが拍手してくれた。彼は「完売御礼」と書かれた小さな看板を出すと「カキ氷はまだやってるんでー、食べに来てねー!」とチャラさを忘れず言い放ち、店に戻ってきた。
「いやーお疲れさん! 今日はもう上がり! 休んでいいよ!」
用意してくれた焼きそばとジュースを一本ずつ渡され、僕らは三人で奥のテーブルを陣取った。さすがにカキ氷と飲み物のみの営業となっているので、店はようやく空席が出るようになっている。
「あー疲れた……」
高井君が溜息を吐くと、僕と夏波さんも溜息を吐いた。とにかく大した問題もなく無事に終わってほっとした。
カツオブシいっぱいの焼きそばを食べながら、高井君と一緒になって夏波さんの仕事っぷりをいじり。
夏波さんの失敗っぷりを慰め。
夏波さんの呼び込みの様子を聞き。
調子に乗りすぎて二人まとめて手痛い制裁を受けたりしつつ、すっかり食べ終わった頃には疲れしか残っていなかった。
「あー……ほんと疲れた……」
高井君がテーブルに突っ伏し、
「ああ、さすがに疲れたな……特に気疲れが……」
夏波さんも体力は別として、精神的な方で来ているらしく頬杖を着いて目を瞑り、
「……」
確かに疲れたな、と僕も思っていた。楽だとは思っていなかったが、海の家も大変である。横岳さんなんて未だガリガリ氷削って働いてるからね。あの人の体力もすげえ。
だが、せっかく海まで来たのだ。ここでのんびり休憩しているのは勿体ない……と考えるのは、普通ゆえだろうか。
「ちょっと外行ってきます」
どうせ休むなら水着の女の子を見ながらがいい。
そう思った僕は、二人を置いて「うみぼうず」から浜辺へ、今度こそ自由の身で降り立った。
そこで僕は、ある意味運命の出会いを果たすことになる。
まだ陽は高いが、もう五時前である。家族連れなんかは帰り支度を始めていて、だんだん浜から人がいなくなっていく。
僕は適当にぶらつきながら、眩しい肌の女の子たちをチラッチラッと堪能していた。
ああ至福の時よ、この時間が永遠に続けばいいのに……
ビーチバレーに興じる同年代くらいの男女……男はどうでもいいとして、動くたびにわずかに揺れる青い果実を、ビーチバレーに興味がある風の顔をしてじっと見つめる。最高です!
僕の横を過ぎる、歩くたびに揺れるたわわに実る巨峰を、こみ上げる感動のあまり半泣きになりながらチラッチラッと愛でていると、
「――ねえねえ、これから暇? どっか遊び行こーよ」
今まさにナンパ開始、という感じの男の軽い声が聞こえた。
僕の意識ではない。
言うなれば第六感である。
僕は反射的に足を止め、さりげなさを装って砂の上に座った。あちっ、ケツあちぃ! まだ砂あっちぃ! だが今は動けないぞ!
なにせナンパの実践である。これほど興味深いものはない。
成功にしろ失敗にしろ、必ず学ぶところがあるはずだ。ナンパ男が超テクニシャンだったら更に学ぶことは多い。後学のために見逃せるわけがない。
チラッとそっちを伺うと……うわ、ナンパ男の左のふくらはぎにヘビみたいな……いや、龍のタトゥーが入っていた。悪そうな奴だな。
男はこちらからは後ろ姿しか見えず、そして獲物に選ばれてしまった女の子は男の影になっていて足元しか見えない。青いサンダルを履いた、日焼けとはまったく縁のない白い足が伺える。
むう……偏見と言われればそれまでだが……なんか嫌な感じだな。
もしナンパ男――そう、ドラゴンタトゥーの男が強引に女の子を連れて行こうとしたら、……僕が止められればいいが無理そうだし誰か呼ぶか。まだまだ人は多いのだ、腕っ節の強い人なんてたくさんいるはずだ。
携帯さえ持ってりゃ、今の内に夏波さんを召喚してたんだけどなぁ。攻撃表示で。やっぱ携帯は常に持ち歩かないとダメだな。携帯だけに。
耳を澄ませて二人のやり取りを聞こうとするも、女の子の方は結構小声で話しているらしく、何かを言っているのはわかるが聞き取れない。
ドラゴンタトゥーの男の「いーじゃんいーじゃんー」「行こうよ行こうよー」「何もしないよ何もしないよー」と、語尾上がりの発音で二回ずつ繰り返すというチャラい発言が聞こえるのみである。……僕としては面白いと思うが、女の子からするとそれどころじゃないか。「手羽先食いに行こうよ手羽ってばよー」という僕的には大砲の一撃にも匹敵するギャグにも大して反応を示さないのだから、……ドラゴンタトゥーの男と女の子のフィーリングは確実に合っていない。
ナンパする相手を間違えてるだろう。その子は無理だよ。ナンパでついてく子じゃないよ。
僕より絶対に女慣れしているだろうドラゴンタトゥーの男は、恐らくそれくらいはわかっているだろう。
それでもなお食らい付いているのは、よっぽど好みの女の子だったか、それ以外の理由があるか、だと思われる。たぶん前者だと思うが。
ビーチ効果っていうの?
砂浜効果っていうの?
ゲレンデ効果と似たような感じで、海で見る水着姿の女の子って、普段着の六倍くらい輝いて見えるからね。たとえ清楚な子でも、エロかわいい分がそのまま上乗せされるからね。エロかわいい分がね! ハニーフラッシュ分がね!
手を変え品を変えトークを変え、ドラゴンタトゥーの男は粘りに粘る。だが結果は芳しくないようで、女の子の様子が変わることはない。
むしろ変化があったのは僕の方だ。
この時、僕は少しだけドラゴンタトゥーの男の応援をしたくなってきていた。
奴は声を荒げることもないし、無理やり連れて行こうともしない。チャラくもあるが明るいトークとノリだけで女の子を口説き落とそうと必死である。
男が女を口説いている。
必死で。
恥も外聞もなく。
そんな姿を見せ付けられたら……へへっ、応援したくなっちまうじゃねえか……!
そう、僕は男として奴を応援したい。
だが知り合いでもなんでもない僕ができる応援なんて、せいぜい心の中で「がんばっ」とでも言ってその場を去ることくらいである。
さ、僕も負けてられない。
思わず口説きたくなるような女の子の肌を見に、再び放浪するか……!
と思ったのだが、立ち上がり去ろうとしたその後の僕の行動は、僕自身さえ予想していなかった。
僕は去り際、ドラゴンタトゥーの男がどんな女の子を口説いているのか気になり、一目見ようと二人と擦れ違った。
そして、衝撃を受ける。
身長百五十ちょっとの小柄さ。今まで見た黒髪の中で一番綺麗なんじゃないかと思われるつややかな黒髪をツインテールに結い上げ、今まで見た皮膚の中で一番決め細やかで瑞々しいんじゃないかと思われる白い肌。全体的に細く小さく幼い印象が強いが、相貌だけがやや釣り目。そこが妙にアンバランスで不思議な魅力を放っている。ビーサンと併せた青いボーダー柄のタンキニがかわいい。きっと彼女に「この牛糞野郎」などの罵倒を言わせると非常によく似合いそうだ。
何から何まで僕好みなのは、そう、知っている(。
僕は彼女を知っている。
そして彼女がちょっと困った顔をして僕と目が合った瞬間――僕は僕が予想しない行動に出た。
「勝負だ!」
僕はドラゴンタトゥーの男に詰め寄った。
「は? ……あ?」
突然の横槍に、奴は戸惑っているが……ナンパの邪魔をされてイラッとしたらしく、すぐに怒りの表情を見せた。
「んだてめえ! 向こう行ってろガキが!」
正面から見たドラゴンタトゥーの男は、短い茶髪を逆立ててシルバークロスのネックレスをした、わりとこざっぱりした奴だった。たぶん大学生くらいだろう。高井君ほどじゃないが細マッチョで、僕より十センチは背が高い。
だが、別に怖くない。
僕はあの五条坂光に貞操の危機を感じさせられ、応援団の一人である守山のおねえさ……アニキに立ち向かいボコボコにされ、パンクスとレディースに囲まれた男だ。ぶっちゃけこの程度なら全然怖くない。……ちょっとしか怖くない。
「彼女を賭けて勝負しろ! えっと……向こうでやってるビーチフラッグで!」
心の底からノープランだった僕は周囲を見回し、少し離れたところでやっているそれを見つけ指差した。
ビーチフラッグとは、数人が伏せた状態から、合図と同時に立ち上がり、離れたところにある旗や目印を先取りで奪い合うというものだ。たぶん誰もが一度は見たことがあると思う。
「なんでてめえと遊ばなきゃいけねーんだよ! 殺される前に失せろクソガキ!」
「警察呼ぶぞ! そして『あんたに殺すって脅された』って言うからな! これだけ周りに人がいるんだ、証人は掃いて捨てるほどいるぞ! 脅迫罪だぞ! いいのか!? いいんだな!?」
「な……なんなんだよてめえは! 邪魔くせーな!」
それは仕方ないだろう。邪魔してるんだから。
「僕を黙らせたかったら勝負しろ! ……あ、もしかして負けるの怖いの? ダッセー! ドラゴンのタトゥー入れてるくせにダッセー!」
「――やってやろうじゃねえか! 来いやクソガキ!」
フッ……この手の奴はちょろいもんだぜ。八十一高校のバカに通じるものがあるからね。
僕はこの時点で勝利を確信していた。
だって僕は、ナンパされていた女の子の手を取ると、先に行くドラゴンタトゥーの男とは逆の方向に走り出したからだ。
え? 勝負?
僕、基本的にリスクの高い勝負なんてしないけど!
背後で「待てこら」だのなんだの聞こえた気がしたが、僕はジョギングで培った体力を惜しみなく発揮し、人込みにまぎれるようにして逃走した。
瞬く間にドラゴンタトゥーの男を撒くと同時に、僕は「うみぼうず」への帰還を果たした。
「あの……」
ウッドデッキ調の階段を登ろうとしたところで、黙って付いてきた女の子が声を漏らした。鈴を鳴らしたような透明感のある声に、僕は振り返った。
「天城山さんでしょ? 九ヶ姫女学園の」
「……わたしを知っているんですか?」
知っているとも。
「有名人だから噂はかねがね。僕、八十一町に住んでるんです」
今年の九ヶ姫の三大美姫と言われる一人、天城山飛鳥。
二年生で九ヶ姫の生徒会の一員だ。
写真だって持ってるぞ! 写真よりかわいいぞ! 髪下ろしてる写真しか見てないからツインテール分上乗せしてかわいいぞ! エロかわいい分上乗せしてすげーかわいいぞ! てゆーか小さくてかわいいぞ!
「あ、僕ここでバイトしてるんですけど。よかったら」
「いえ、その、友達とはぐれてしまって、……初対面の方に大変不躾なのですが、携帯電話を貸していただけませんか?」
「よかったら休憩していかない? あと僕のこの胸のときめきについて語りたいんだけど聞いてくれない?」……とでも言いたかったのだが、残念。そう上手くはいかないようだ。
まあこんなところで偶然会えただけでも、奇跡みたいなものか。これ以上を望むなんて贅沢だ。……話すどころかあの天城山さんの手を握っちゃったしね! ああ、僕もう今日は手を洗わない! つか洗えない!
「友達とはぐれたんですか?」
「そうなんです」
それで探し回ってうろうろしていたら、例のドラゴンタトゥーの男に捕まってしまったらしい。
「もう帰り支度が済んでいるので、はやく合流しないと……」
ああそうか……チッ。せっかくこうして話すチャンスができたのにな……でもまあ仕方ないか。僕らは車の送迎があるけど、たぶん天城山さんたちの移動は電車とかだろうからな。時間に融通利かないもんな。
「じゃあちょっと待ってて。携帯持ってくるから」
従業員室から携帯を取ってくると、店の前で待っていた天城山さんに手渡す。
彼女は礼を言うと、空でボタンを押し誰かに電話を掛けた。すげえ、番号憶えてるんだな。僕なんて自分の携帯の番号さえ憶えてないわ。登録しっぱなしだわ。
天城山さんは控えめな性格なのか、鈴の鳴るような穏やかな声で受話器と話すと、「ありがとうございました」と携帯を僕に返した。
「どうなったんですか?」
「待ち合わせ場所を決めました。そこで合流します」
「送りますよ」
「あ、いえ……それは悪いですから……」
あ、ピンと来た。
困った顔が「付いてくるな」って言ってるわ。……友達と一緒か。男だったりするのかなぁ。彼氏と一緒に海デートだったりするのかなぁ! もう! どこのどいつだよこんな美少女を彼女にしてるの! 彼氏BB弾でも素足で踏んで地味に痛がれ!
でもこのまま行かせるのは不安になったので、さっき別れたテーブルでまだのんびりまったりしている夏波さんを呼んだ。
「女性だったらいいでしょ?」
「あ……はあ」
「なんだよ」とやや不機嫌な顔で出てきた夏波さんに事情を話すと、溢れんばかりの男気を発揮し「任せろ」と即答した。女子力はないが頼もしい人だ。
「――ありがとうございました」
うお……
天城山さんは僕の心臓をえぐるような天使の微笑みで一礼し、行ってしまった。
す、すげえ……月山凛との初対面にも面白いくらい動揺したが、天城山飛鳥もマジですげえ……
出会いはいつも突然である。
海の家のバイトという貴重な経験と、海に来た雰囲気だけは多少味わえただろうか。
今日は、ジェットコースター張りに早い一日だった。
チャラいオーナー・横岳さんから少しばかり色を付けてもらったバイト代を受け取り、僕らは八十一町へと帰ったのだった。




