113.ある夏休みの一日 其ノ陸 日
その時、僕の第六感が、無駄とも言えるほど鋭く、そして正確に働いた。
「まさか海の家ですか?」
「え? なんでわかった?」
理由はない。ただの勘だ。ただの男の勘だ。
「僕と夏波さんの仲じゃないですか。回りくどいのはやめましょうよ」
「回りくどいか? わりとストレートに言っただろ。『海行かないか?』ってさ」
ある日の夜、妹を避けるようにして時間をずらし夕飯を食べて、部屋に戻って読書感想文用の本を読んでいると、携帯が鳴った。
ディスプレイを確認すると……荒ぶる女子大生・沢渡夏波さんの名前が出ている。
あんまり良い予感がしなかったのでこのまま文字の世界に没頭しようかと思ったが、……やっぱり想像だけで身震いするほど後が怖いので出ることにした。
「はい」
「友晴? 海行かないか?」
挨拶さえ省いたどストレートである。
「まさか海の家ですか?」
僕も釣られるようにどストレートに、反射的にそう言ってしまったが……どうやら正解だったようだ。
「実は、知り合いの海の家の話なんだけど。バイトのシフトに穴が空いたらしくてね」
「で、僕ですか?」
「必要人数がちょっと多いんだ。私も参加するし、秋雨も行くことになってる」
秋雨というのは、高井君の下の名前だ。
「夏波さんも一緒にバイトですか」
「先輩から回ってきたから断れなくてな。もっとも予定なかったから断る理由もないけど」
ああ、体育会系のしがらみですね。わかります。僕も今体感してますし、よっぽどのことがない限り断れない圧力みたいなのありますよね。
「洋子さんなんかも参加するんですか?」
「いや、行き帰りの送迎はしてくれるけど、あの人は基本的に喫茶店優先だから」
「あ、なるほど」
海か。今年はまだ行ってない……というより、人も多いだろうしとにかく暑いし、特に行きたいと思わなかったんだよな。
一学期の内に漠然と決めてはいたけど、高井君の補習が重くなったことで色々予定が立ち消えしちゃったし。その中に海のことも含まれていたし。
「結構予定が急でな、結局おまえまで回しちゃったよ」
体育会系世界で先輩も後輩も経験している夏波さんは、自分が僕に、後輩的な位置にいる僕にこの話を回すことの意味を、ちゃんと理解している。
よっぽどのことがないと僕は断れない、ということを。
まあ不思議なもので、それに気づいた時、僕は夏波さんの理不尽さを、あまり理不尽だとは思わなくなった。
何せ、僕が断れないことを知っているから。
つまり、僕に話が回ってくる時は、夏波さん的に頼れる存在が僕以外候補にいないから、ということになるのだ。もう僕くらいにしか頼めないからだ。僕が断れないことを知っているから、だから最後まで厄介ごとの候補に僕を上げない。
「おまえしか頼める相手がいない」とか追い詰めるようなことを言わないのは、夏波さんなりに筋を通しているからだと思う。
体育会系の世界……まあやっぱり理不尽さと暴力の臭いも多く感じられるが、わかりづらい相手の気遣いに気づくと、この世界もわりと悪くない……かも。
「急なんですか?」
「うん。明日の朝イチから夕方まで、一日限りなんだけど。空いてる?」
明日かよ。確かに急だな。でも予定はない。
「むしろ好都合です」
家にいると……先日のトラウマが痛いのだ……婦警さんショックがまだ癒えていないのだ……
この底が見えないほどの深い傷を癒しにいこう……海へ……
……あと水着の女の子を見に行こう……
こうして海の家でのバイトが急遽決定した。
集合時間は朝六時である。
いつも起きている時間なので問題なく起床。今日のジョギングは中止して、昨日の内に準備していた荷物を持って家を出た。
待ち合わせ場所は、例の鬼晴らし女像の前である。
今日も文句なしの晴れみたいだ。
夏の朝六時なんて、太陽が昇っていないだけで昼と大して変わらない明るさである。やや涼しいくらいで、セミはすでに大声を上げている。
ひと気と車通りの少ない八十一駅付近を行くと……すでに見覚えのあるミニクーパーが停車していた。やべっ、もう来てるじゃん。こんな時でも三十分前行動かよ。誰だよ三十分前行動なんて言い出したの。
「おーい」
外に出て缶コーヒーを飲んでいた今日の送迎役・遠野洋子さんが、僕に気づいて手を振る。僕はそれに答える代わりに走った。
「お、おはようございます。僕最後ですか?」
すわ朝イチから夏波さんの制裁か、と震える僕に、洋子さんは笑った。
「いや、ここで会うのは友晴だけ。カナは別のとこで拾うから」
あ、待ち合わせ場所がそれぞれ違うのか。
ふと車内を見ると、すでに高井君が後部座席で寝ていた。
「先日はテレビのこと、ありがとうございました」
ディープブルーの車体に屋根が白という洋子さんの愛車のミニクーパーは、先日テレビを買った時に乗せてもらった。
「それはもういい。当日でもメールでも聞いたし」
頭を下げる僕に対し、とにかく乗れ、と洋子さんは面倒臭そうに答えた。
――あの日、この人は一人で三十二型のテレビを抱えて車に乗せ、僕の家の僕の部屋まで運んだのだ。軽々と。汗一つ見せずに。あんな大きく重いものを。そして誰に会うこともなくさっさと帰った。
この極限まで身体を絞って走ることに特化した、枯れ枝張りに細い体のどこにそんな力があるんだろう。
夏波さんといい、この洋子さんといい、陸上部の女子大生はどうなってるんだろう。
それに比べて、かの九ヶ姫女学園の天塩川さんのかわいらしさといったら、もう……もうっ! 会いたいなぁもう! この気持ちは何? ま、まさかこれが、恋……!?
「何もだえてるんだよ。早く乗れ」
「あ、はい」
挨拶もそこそこに車は発進する。僕は後部座席、寝ている高井君の隣に座った。
目的の海までは、だいたい一時間くらいかかるらしい。
「この時間だと交通量も少ないからね。もうちょい早く着けるかな」
とのことだ。
道中に夏波さんを拾って、ファーストフードのドライブスルーで洋子さんが朝食をおごってくれた。
「へえ、カレー作ったんだ」
「おいしかったですよ、瀬戸さんが教えてくれたシーフードカレー。ちょっと福神漬け忘れたけど」
「忘れんなよ。福神漬け大事だろ。カナは?」
「え? なんすか?」
「料理は? できる?」
「も、ももも。もちろんっすよ! 米くらい炊けますけど! 炊けますけど!?」
「他には?」
「お湯くらい沸かせますけど!」
「他には?」
「……卵くらい割れますけど」
まさに絶望の女子力である。まさにマイナスの女子力である。
「実家住まいだと家事とかやらなくていいもんな」
と、洋子さんはバックミラーの中で苦笑していた。
食べながら色々と話していると、本当にあっという間に海が見えるようになっていた。有料道路に乗ったのまでは憶えているが、それ以降は話に夢中になっていたように思う。
幸い信号に引っかかることも少なく、目的の浜辺に到着したのは七時前だった。
「んあ?」
爆睡していた高井君を起こし、僕らは車を降りた。
「んじゃ、六時くらいに迎えにくるから」
「はい。先輩もお気をつけて」
ミニクーパーが遠くなるのを見送り、僕らは砂浜に降りた。
ここまで早い時間に海に来たのは初めてだ。まだ海水浴客は少なく、どちらかというとサーファー的なボードを持った連中が目立つ。
ざり、とサンダルの下で砂が崩れた時、にわかにテンションが上がってきた。どうやら僕は、ようやく海に来たという実感が沸いてきたらしい。
海。
限りない青の水平線。
陽を受けて白く輝く砂。
透き通る青空に白い雲は涼しげに流れ、肌を焼く太陽は眩しい。
そして、そんな太陽にも負けないくらい眩しい――女の子の肌! まだいないけど!
「海だーーーー!」
テンションの上がった僕は、荷物を放り出して走り出した。足を食む地がもどかしく、サンダルの隙間から触れる砂はすでに熱かった。
冷たい海水に膝下の短パンの裾を濡らし、潮の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
ああ、海だ。ほんとに海だ。
そんなこんなで、一日限定の海の家のバイトが始まる。
そして、この日僕は、衝撃の出会いを果たすことになる。
後に、僕の新たなレジェンドになる話の核は、間違いなくこの日出会う、あの人の存在にあった。