112.ある夏休みの一日 其ノ伍
宿題が終わった。
毎日コツコツやっていた夏休みの宿題が終わった。
そして僕は首を傾げていた。
……うーん……なんか小・中学校と比べると、宿題の量が少ない気がするんだが……
なんだろう?
これが八十一高校仕様というやつなのだろうか?
一応、他の問題集とか自主的にやっとこうかな……絶対その方がいいだろうしな……あれ? まだ読書感想文が残ってたわ。これが本当に最後の宿題か。
自室で机に向かい、プリントや夏休みの宿題として出題されていた問題集と範囲とを色々チェックしていると、コンコンとノックの音がした。
というか、そこのドアはすでに開いてるんだけどね。夏休みはバイト(の代打)や特殊な用事がない限りは、午前中の涼しい時間に宿題をしていたので、まだクーラー入れないで風を通しているのだ。
見れば妹が立っていた。
「どうした?」
「入隊するから部屋を貸して」
「は?」
「のっぴきならない緊急事態なのよ!」
「何の話だよ……だいたい入隊ってなんだよ。まず事情を話せよ」
妹の顔を見る限りでは、かなりマジだ。そもそも妹が僕の部屋まで来ること自体がすでに緊急事態であることを表している。
――話を聞けば、納得はした。
「全然そんな風には見えないけど」
「お兄ちゃんの主観はどうでもいいのよ。私自身が許せないのよ」
う、うーん……そうか。いや、兄と妹がどうこうっていうより、これは男と女の違いと思った方が近いだろうか。
夏場だもんな。
露出とか増えちゃうもんな。
男では見分けがつかないレベルであろうとも、気になるんだろうな。
妹がビリーさんの軍隊に入隊したいと言い出した。
ビリーさんとは、一昔前に流行った……なんて言えばいいんだろう? 痩せるエクササイズDVDの教官役をやってた人だ。こんな認識で合ってるかどうかはわからないが、まあとにかく痩せたい人や身体を鍛えたい人が入隊するところだ。
つまり我が妹は、体重的なところやスタイル的なところでビリーさんを必要とする事態になってしまったらしい。
……すらっとしてると思うけどな。全体的に。胸もストンって感じで。
「ちょっと。胸見ないでくれる?」
「どこが胸なのか言ってみろよ」
「……『オラオラ』と『無駄無駄』どっちがいい?」
それどっちも一緒じゃん……
「もしくはどっちの膝を殺されたい?」
なんで妹は膝に執着するのだろう。……リアルな意味でちょっと怖い。
というか僕はだいぶデリカシーに欠ける発言をしてしまったようだ。いかんいかん。たとえ生意気な妹でも礼節を欠くのは、僕が目指すところじゃない。店長だったら絶対しない。
受験で机に噛り付いて、そのストレスからいつもよりアイスやら甘い物を欲しがり、もちろん運動量も減って身体も衰えて。だからたぶん体重が増えちゃったんだろう。
妹が中学受験していた頃も、こんな感じになっていたと思う。
あの頃、やたら母親に「友歌は大事な時期なんだから気を遣いなさいよ!」と言われたから、小さな恨みつらみごとよーく憶えていますとも。パシリなんて日常茶飯事だったからね。あの頃は。……あれ? 僕ほんとに妹に気を遣いたいのかな? ……いや、まあ、これでも女だからな。妹がどうこうより僕は紳士でありたい。
僕がこの夏テレビとDVDデッキを購入したので、妹からすればリビングでやるよりは都合がいいのだろう。
たぶん人目を避けてやりたいに違いない。その気持ちはわからなくもない。
それに、きっと部屋を締め切り、部屋の温度を上げてサウナっぽい環境でやろうと思っているに違いない。夏場だからこそできる荒業だ。そういう意味でも都合が良いのだろう。
「……午後から出かけるから、その間好きにしろよ」
正直出かける用事はなかったが、恩着せがましく言うのもいやらしいので、そっけなくそう返答した。受験生なので少しだけ気を遣ってやろうと思う。
まあ。
わりと鋭い妹は、気づいているかもしれないが。
「お兄ちゃん、二時間コースでよろしく」
妹……言い方に気を遣えよ。それじゃイメクラとかキャバクラとか、そっち系のアレっぽいよ。……僕の考えすぎなのか?
「二時間で足りるのか?」
「やったことないからわかんないけど。そんなもんじゃない?」
まあ、そうだな。ただ僕としては二時間コース云々より、それが毎日続くんじゃないかと気にしているのだが。七日間コースとかあったような気がするし。
「じゃあ昼食ったら出るから」
「うん。お礼に膝は片方だけ生かしてあげるね」
「両膝殺す気だったのかよ! ……つか部屋貸しても片方はすでに潰す気かよ!?」
なんて恐ろしい妹だ。
というかなんでそんなに膝に執着するんだ。
膝になんか思い入れでもあるのか。
……まさかの膝フェチ?
――約束通り、僕は昼食を取った後、夏の炎天下へと飛び出した。
読書感想文が残っていたことが発覚したので、八十一高校の図書館へと向かうことにする。別に家にある本でも良かったんだけどね。
ちょっと気になっていたC組のアイドルしーちゃんに連絡を取る。すると彼もまだ読書感想文をやってないので、一緒に図書館に行こうという話になった。
しーちゃんとは喫茶店でのバイト(のようなもの)で一度会っているが、ゆっくり話ができる状況じゃなかったので、今日はじっくりと探ってみようと思う。
ホンモノすぎるバスケ部の筑後君と見た目チャラい野辺君との三角関係を。
彼らのアブナイ太陽っぷりを探ってみようと思う!
ついでになんとなく気が向いて高井君にも連絡を取ると、「二度と俺に勉強の話をするな!」と怒鳴られて電話を切られた。
どうやらあの補習生活は、僕の想像以上に、彼の精神に深い深い傷を残してしまったようだ。
だが彼は気付いていない。
宿題をしないことによって、新たなる補習の魔の手が迫ることを……
そして僕も気付いていなかった。
この時、僕は自分の失敗、大失態を、まだ気付くことができていなかった。
というより、家を出た時点で、このミスはすでに取り返しのつかないレベルに至っていたのだ。
原因は、そう――油断の一言に尽きる。
もしくは、これも世の男子の誰もが通る道なのだろうか?
余裕を持って三時間コースで家に帰る。
開けっ放しになっている僕の部屋はもぬけの空で、すでに妹は撤退した後だった。
ここでビリーさんとエクササイズした痕跡なんて一つも残っておらず、僕が出て行った時となんら変わりは……な、……な、な……
「なあああああああああ!?」
それはもう、僕の心からの叫びだった。
机の上に、
僕の机の上に、
目をそむけたくなるほど肌色が眩しいその物体は、
長く美しい黒髪を下ろし、
妖艶な笑みを浮かべている、
やたらテカテカした素材の婦警さんの格好をした、
へそとか太股とか露にした女性がプリントされているそのディスクは、
自分のもの、自分の部屋、そして買ったばかりの自分の家電。
この三つの条件が揃ってしまえば、むしろ発覚する出来事の方がイレギュラーだろう。
DVDデッキに入れっぱなしになっていたのだ。単純に。
あとは、もう、考える余地もない。
想像通りのアレがコレしただけに過ぎない。
……なんという日常の罠だろう。まさに悪魔のしわざとしか思えない。
その日、僕は部屋から出なかった。
あとしばらく妹が目を合わせてくれなかった。
もうやだ。
もうやだっ。