107.ある夏休みの一日 其ノ壱
本日の太陽様も、凶暴にして凶悪だ。
連日三十度近く上がる猛暑の昼時、もっとも暑い時間。
遠くのアスファルトは歪み、、照り返す熱が上からも下からも身を焦がす。
じっとり汗ばむ肌も、あまりの暑さにコンビニに逃げ込みアイスを買って食べながら歩くのも、夏の光景の一つである。
まさに夏真っ盛り。
恨めしいくらいの晴天の空の下、僕はアイス片手に八十一町商店街を歩いていた。
昼時のこの時間である。
駅の方ならまだしも、住宅の多い外を歩いている者はあまりいない。というか、人によっては結構本気で命に関わるくらいの暑さである。お年寄りも若者も主婦もサラリーマンも、危ないと思ったら無理はせず水分を取ったり身体を冷やしたりしていただきたい。クーラーもそう身体に悪いものではないらしいし、倒れてからでは遅いのだから。僕? 僕は今アイス食ってるよ。
早速アイスが溶けて液体となり手に垂れてくる頃には、僕は商店街を抜けて横断歩道を渡り、八十一第二公園添いを歩いていた。この辺は木々が影を作ってくれているのでちょっと楽だ。
陽射しの代わりに、セミの声が降ってくる。
わずかな涼を求めて影を渡り歩きつつ、僕は思った。
「やはり来てよかったな」と。
本当に頭が下がる思いで、アイスを片付けた僕はようやくそこへと辿り付いた。
――八十一高等学校。
用事でもなければ絶対に来たくなかった、愚者の集う絶望の学び舎だ。
九ヶ姫女学園なんかは当然のように校門付近に警備員の詰め所があったりするのだが、ここ八十一高校は校門に超えるのも楽そうな門があるだけの緩い警備システムである。その門も今は開けっ放しだ。
まあ男子校なんて、真夜中に忍び込んで窓ガラス割って歩くくらいしかやることないしね。特にこの高校は泥棒なんか敬遠しそうな気がする。
だって八十一高校だよ? 何かやったら生徒総出で何かしらの報復劇がありそうじゃないか。バカ丸出しでどんな手を使っても犯人特定しそうじゃないか。
常識で測れない行動力と発想力こそ、バカの特徴だと僕は思う。むしろここに手を出す奴の方がもっとバカだ。
……あれっ?
「びじん……守山先輩?」
「……おまえ今美人って言ったよな?」
下駄箱へ向かおうとしていた僕は、校舎の出入り口の影に、椅子を用意してこちらに背を向け座っている美人を発見した。その長い髪と後姿だけで美人とわかるくらいの圧倒するような美人オーラが滲み出ていた。
僕の足音に気付き、その人は振り返り――僕の本能が感じた通り、その人が掛け値なしの美人であることを確認した。
応援団の守山悠介先輩だ。
そしてその守山先輩は、肩むき出しの白いプリントランニングシャツに膝上で切ったジーンズにスポーツサンダルという……もうっ! そんな露出してっ! ……という格好をしている。
「そんなエロい格好して何してるんですか?」
「エロ……え!? エロい!? 普通だろ!? つか男にエロいってなんだよ!」
いいえ、エロいです あーもうダメ! そんな色々むき出しにして! もう白い肌と夏が眩し過ぎて直視できないわ!
「そんなに肌を露にして……最終的にどうなるつもりですか」
「いや、どうっておまえ……」
「最終的に荒縄だけになるつもりですか!?」
「荒縄!? そりゃ荒縄を下着にしろって意味か!?」
多少チクチクするかもしれないが、そこは我慢してほしい。僕らの夢のために!
「……おまえはいつも俺に衝撃をくれるな……何者だよ」
あれだけのポロリ的な事件があっただけに、守山先輩も僕をちゃんと憶えていた。たぶん名前は知らないと思うが。
「で、何してるんですか?」
「見張りだ」
あれ?
「補習もう終わったんじゃないですか? 確か十二時までですよね?」
「ああ。そんで今小テスト中。合格点出ないと帰れないんだよ」
あ、そうか……終業式前日に起こった「神々の黄昏」で、補習ほか様々なオプションが追加されたんだっけ。
本来なら、この時期はもう補習期間も終わっていたはずなんだよな。みんな一足遅れの夏休みを満喫していたはずだったのだ。
で、守山先輩は……というか応援団は、ノルマをこなすまでは誰も逃がさないようここで見張っていると。ここにも頭の下がる人がいた。さすがは縁の下の力持ちである応援団である。伊達にエロい格好をしていない。
「おまえこそ何してんだよ。補習……じゃねえよな。補習期間にツラ見てねえもんな」
僕は片手に下げていた紙袋を見せた。
「先生に差し入れ持ってきたんです」
そう、僕は休み返上で働いているであろう担任・三宅弥生たんに差し入れに来たのだ。できれば出てきている先生たち全員に……なんてことも考えたが、財布の事情から却下した。
まあ、たまにはこういうのもいいだろう。一学期中、個人的に二回ほど車を出してもらったし。
「へー。真面目な顔して真面目なことしやがる。人の海パン堂々下げた奴のやることは違うなぁオイ」
「ありがとうございます」
「褒めてねえよ」
「先輩写真撮っていいですか?」
「やめろバカ! 写真とかもうトラウマだっつーの!」
「綺麗に撮りますから! 世界中の誰よりも綺麗に撮りますから!」
「知らねーよ! 殴られる前に早く行け!」
うひょー! たまたま来ただけなのに守山おねえさ……アニキに会っちゃった! 知り合いのように仲良さげに話しちゃった! しかもエロい格好してたし! 心のメモリーにしっかり記憶しておこうっと!
おねえさまに追われるようにして校舎に逃げ入った。
上履きを持って帰っていることに気付いたので、中から外来客用の玄関に回り込みスリッパに履き替える。
「あれ?」
ひとけのない校舎、廊下を歩こうとしてふと気付く。
このまま直で職員室に行っても、弥生たんには会えないのでは? だって守山先輩、今小テスト中って言ってたもんな。まだ教室で監督してるんじゃなかろうか。
ちょっと時間潰した方がいいのかな?
まあそんなに手間でもないし、まず職員室を覗きにいってみるか。
――予想通り、職員室はほぼ無人だった。
部活関係で出てきているという体育担任の、三十三歳なのに二十歳くらいにしか見えない魔女こと中野先生がいたので、今補習で出ている教師たちがどれくらいの時間に戻ってくるか聞いてみた。
「あと三十分くらいかしら」
三十分か……このまま待つには微妙な時間だ。せめて職員室のクーラーが稼動していたらここで待たせてもらうことも考えらえるのだが……省エネと温暖化でも意識してるのかな?
魔女に「後で来ます」と断り、職員室から離れた。
教室は補習、というか小テスト中だし、こうなると行ける場所なんて限られるが……食堂でジュースでも飲むか? 購買はともかく自販機は動いているだろう。でもさっきアイス食べちゃったしな……
「ねえ」
あ、魔女が追いかけてきた。
「暇なら図書室の手伝いに行ってくれない? ちょうど今朝新刊が届いて、図書委員たちが貸し出し用の処理をしているのよ。でも――」
その肝心の図書委員の多くも補習で時間を取られ、かなりの人手不足になっているんだとか。それに補習は逃れた連中が普通にすっぽかすというサボりも加わり、ほんの数名しか出てきていないらしい。
「補習終わったあとに集まることになっているけれど、普通にすっぽかしそうなのよね」
いや、すっぽかすでしょう。それらの生徒は本が好きだから図書委員なのではなく、ただそこに割り当てられただけの連中だから。出てきている人たちこそ、本が好きで図書委員やっている連中に違いない。
まあどうせ暇だし、少しくらい手伝ってもいいが。
……あ、もしかしたらしーちゃんも出てきてるかもな。行ってみよう。
「島牧君ならいないけど!」
図書室に顔を出した僕は、メガネを掛けたいかにも本が好きで真面目そうな男子に、開口一番そう言われた。……僕らB組の隣に位置するC組のなんとかっていう生徒だ。ちょっと名前は思い出せないが、顔は憶えている。
――僕はC組の連中にかなり嫌われているからね。こういう刺々しい反応も、まあ無理からぬところだろう。ちなみに「島牧君」はしーちゃんの苗字だ。
どうやら彼は、僕がしーちゃんに会うためにここに来たと思っているらしい。つかたぶん彼の中では、僕はしーちゃんを追い回しているストーカーくらい悪しき存在なのかもしれない。
……ホンモノは君のクラスのバスケ部の筑後君と、見た目がチャラい野辺君だよ。僕じゃないよ。まあ、言わないけどね。
「確かにいるかどうか気にはしたけどね。中野先生に言われて本の整理の手伝いに来たんだけど」
聞いていた通り、C組の彼と見覚えのない生徒二名ほどで、長机に本を広げて整理をしていた。どれくらい進んでいるかもどれくらいで終わるのかもわからないが、まだ最中であることは確かだ。
「て、手伝いに?」
「うん。といっても三十分くらいだけどね」
いらないならいいけど、と言うと、彼は拍子抜けしたらしく、吊り上げていた眉を下ろした。
――そんな一悶着があったりしたが、みっちり三十分ほど手伝いをした。スタンプ押したりバーコードシールを作って貼ったりと、大仕事とは言わないが手間の掛かる細々した仕事をこなした。
三十分後、予定通りC組の彼と上級生という二人と別れ、図書室を出た。
改めて職員室に顔を出すと、がらがらだった職員室には教師陣が戻ってきていた。
その中に、僕が会いにきた弥生たんもいた。白いタイトのミニと白いブラウス、首に掛かっている細身のブルーチェーンのネックレスが夏に爽やかだ。
「マジで? 差し入れ?」
ざわ――と、なぜだか職員室に波紋が広がった。
「おいおい……」
僕がやってきた用向きを話すと、弥生たんは堅く目を閉じ、ハァ~~と長ーい溜息をついた。
「……もう泣きそうだわ。優しさが痛いくらいに染みるわ……」
え、そこまで!?
「よ、よかったですね、三宅先生……ぐぅぅっ」
と、すでに泣いているのは、あまり見覚えのない中年のおっさん教師だ。おっさんは「八十一高校で教鞭を取って早二十年、まさかこんな生徒からこんな感動を贈られるとは……!」とむせび泣きながら語る。隣の、これまた見たことのないやや若いおっさんも涙ぐんでうんうん頷いている。
もちろん彼らだけじゃない。いたるところで感動の雫が地面を濡らしている。
えっと……え?
差し入れくらい普通にするもんじゃ……あれ? しないの? こういうのないの?
「一之瀬、想像してみろ」
弥生たんは言う。
「このクソ暑い中、出てくる予定にない夏休み、毎日毎日真面目に授業を受けるという文化や習慣を持たない手の掛かるバカの相手をし、ストレスを溜めて汗だくになりながら帰宅する日々。生徒たちの単位取得のためと教鞭を振るうも、生徒たちからは感謝されるどころか恨まれるだけ。いったい私たちは何をしているのだろう? そんな疑問も飲み込んで、ひたすらひたすら毎日毎日補習をしているわけだ。
想像できたか?
おまえのその想像の十倍くらいが、私たちが今味わっている現実だよ」
……う、うぅ……想像だけで汗と涙が出そうだ……!
ぶっちゃけ学校に通っているだけでも僕には結構キツイのに、教師たちは毎日彼らに……いや、僕らに向き合っているのである。
頭が下がるどころじゃない。
土下座したって足りないくらいだ。
こんな些細な差し入れで涙を流すくらい感動できる。そのほどまでに精神的に憔悴していたというわけだ。
「と、とにかく貰ってください。先生の好きなエビ入れてもらいましたから」
今は何があろうと生徒なんか相手にしたくもないだろう。このままじゃ僕も場に飲まれて同情のあまり泣きそうだし、早く帰ろう。
「何持ってきたんだ? あんま高いもんは貰えないぞ」
「サンドイッチです。お昼にいいかなって」
かの料理のおいしい喫茶店「7th」の店長に、特別に。サンドイッチのテイクアウトなんてしていないが、頼んでケーキ用の紙袋に詰めてもらったのだ。
「エビのサンドイッチか。うまそうだな。……セブン? あのシュークリームの有名な喫茶店か?」
差し出した袋に書いているロゴマークを見て、弥生たんは首を傾げた。知ってたらしい。
「そうです。ちょっと縁がありまして」
さて。
渡すものも渡したし、僕は帰るか。今は先生たち、生徒なんて見たくもないだろうからね。
ちょっと湿っぽくなった職員室を出ると、僕は携帯を出して高井君に連絡を入れた。補習組の彼はまだ学校付近にいるはずだ。
もうすぐ長かった補習期間も終わるので、それからの予定を立てようと考えていた。
夏休みはもう少しだけ続く。