106.夏休みバイト編 最終日
あいにくの雨である。
昨日、地上を押し潰さんばかりに広がっていた灰色の空は、夕方から降り出した。それから降ったり止んだりを繰り返して今朝にいたる。
ゆるやかにアスファルトを叩く雨の音に囲まれながら、僕は傘を片手に「7th」への道を歩いていた。
夏休み、この時間にこの道を通るのは、今日で最後になる。
僕の代打の喫茶店業務が、今日までだからだ。
たった一週間だけの勤務だったが、色々あった。
まあ、かの八十一高校に通っている時くらい事件が山盛り、というわけでもなく、比較的平和だったんじゃないかと思う。
僕としては願ったりだったけどね!
ちょっとヤンキーチーム二組に挟まれたりもしたけれど、どっちかというとあの高校に通っている毎日の方がよっぽどしんどい。ちょっとヤンキーに囲まれるのはその時だけの話だが、あの高校にはまだあと二年以上通わなければならないのだから。
……八十一高校か。
この夏休みが終わったら、またあの高校に通うことになるんだよなぁ……うっ、なんか想像しただけで胃がきゅってした! ストレスという名の逃れられない重圧の手にきゅっと胃を握られた気がする!
――まさに拒絶反応というべき身体の訴え。僕はすぐに考えを切り替えた。
そうそう。
昨日は女の過去の恐ろしさをまざまざと見せつけられるという特大のイレギュラーがあったりしたものの、本当に久しぶりに、あの天塩川さんに会うことができたのだ。
……予想を上回る忙しさで全然話はできなかったが、一目見られただけでも満足である。それも私服姿だぜ? 天塩川さんの私服姿だぜ? もう、こう……「その格好もいいですけどスク水に上だけセーラーはどうですか?」と問いたいくらいだった。ぜひにと勧めたいくらいだった。
彼女を連れてきてくれた前原先輩も、誰憚ることない普通のイケメンにいちゃんの格好で来てくれたし。メガネさん桜井は……まあ、全然心配するような理由はないので印象は薄いが。
良い日だった。
昨日はとても良い日だった。
そして僕は、彼女の明るい雰囲気と笑顔を見て、張り裂けんばかりの胸の痛みを感じ改めて思った。
僕は本当に天塩川さんが好きなんだな、と。
でも彼氏いるんだよなぁ……
できればこの夏中にでも、いっそ思いきって告白してフラれた方がいいのかもしれない。
僕は自分で思っているより、ずっとずっと強く、天塩川さんが好きなんだと思う。
だから、玉砕するくらい行かないと、たぶん諦め切れない。
フラれた後のスク水しーちゃんの膝枕の件はひとまず置いておくとして、さっさと自分自身の気持ちに決着をつけるべきだろう。
もし天塩川さんと彼氏の仲が上手く行っているのであれば、僕の存在は邪魔だ。
彼氏は本気で今すぐキャトルミューティレーション的な不遇の事故にあって宇宙人との交友関係を大事にしてしまえばいいとは思うが、それが天塩川さんの悲しむ理由に繋がるなら…………くそ。認めるさ。泣きながら二人の仲を認めるさ。でも彼氏は常に犬に噛まれろと願うさ。
僕は、誰かから誰かを奪い取ってやる、なんて思うほど肉食系ではない。
誰でも彼でも傷つけて我を通すだけの勇気と自信がない。あとそれが正しいとも思わないから、僕には無理やり奪い取るなんて芸当は無理だ。
ま、この辺の何が正しいかなんて答えは、人それぞれだとは思うが。
遠まわしではあるが、天塩川さんと連絡がつくような状況はできているのだ。
今日で義務も終わるし、ぼちぼち本気でフラれることでも考えよう。
考え事をしていたせいで、あと雨のせいで足元が悪かったせいで、今日は歩みが遅かった。
店に着いたのは八時二十分。
着替えを含めると、店に入ったのは二十五分だった。
「初めてまともな時間に来たね」
早くも厨房で働いていた店長・遠野崇さんから、逆の意味でのそんな言葉が掛けられた。うん、僕の入り時間は本来八時半だったのに、いつも八時前後に来てたからね。誰だよ三十分前行動なんて言い出したの。
「一週間お世話になりました」
客入りの多い店である。ゆっくり話せるのも今だけだろう。帰りしなに言える状況とも限らないので、朝の内に挨拶しておく。
「ああ、今日までだったか」
店長の向かいにいるシェフ・悪メン瀬戸孝弘さんが、そういえばと視線を向けてきた。
「新人のわりには即戦力だったな」
「そうだね。仕事の憶えも早かったし、君は私の想定以上に働いてくれた。感謝してるよ」
いや、普通です。残念ながらあらゆる意味で普通です。
いくつかミスもやったし、至らないところは熊野さんや新島さんにフォローしてもらっていた。とてもじゃないが洋子さんの代わりとまではいかなかっただろう。
「新人なんだから仕方ない」なんて言い訳はできない。それじゃ代打の意味がない。普通にバイトに入っただけならともかく、僕はベテランの代わりに入ったのだから。
でもまあ、取り返しのつかない大きなミスだけは犯さなかった自信はある。その点だけは非常にほっとしている。
一人前に働けていたかどうかもわからないが、まあ、手が掛からない半人前くらいには出来ていたなら、僕にしては上出来なんじゃないかと思う。僕が即席の代打に立った上での結果なら上等なんじゃないかと思う。
これ以上の結果が欲しいなら、もっと高スペックに頼むべきだ。僕は普通にしかできない。
「これから料理を始めてみようと思います」とその辺の話をしながらいつもの野菜の皮剥きをテキパキ済ませ、次いでお菓子作り用の厨房へ移る。
「おはようございます」
フルーツの選定をしていた十和田さんは殺し屋みたいな目でチラと僕を見て頷くと、先日のように生クリームとメレンゲ作りを指示した。――さすがに多少見慣れたように思う。
今一度分量の説明をし、僕はその通りにきっちり計りながら材料をボウルに入れていく。
「僕、今日までなんです。お世話になりました」
「うん」
十和田さんの反応はそれだけだった。彼女は基本的に無口である。職人っぽい。
「あ、そういえば、金曜日のシュークリームですけど」
「うん?」
「あれって本当に一日限定百個なんですか?」
「うん。少し高い材料を使ってるから、週一くらいで出さないと労力と釣り合わない」
「あれ? もしかして採算取れてない?」
「それはない。ギリギリだけどね、黒字になってるよ」
そうなのか……値段的に全然高くなかったしなぁ。まあ、いわゆる客引きのメニューなんだろう。
「おいしかった、と妹が言ってました」
「……?」
「金曜日に特別に作ってもらったやつ、昼に食べる時間がなくて持って帰ったんです。そしたら妹が食べちゃいました」
「……残念だったね」
「ええとても。せっかく十和田さんが特別にたっぷり愛を込めて作ってくれたのに」
「…………」
「…………」
「その軽いところ、店長に似てるね」
褒められたのかどうかわからなかったが、十和田さんはたぶん呆れていたと思う。
でも、あえて確かめることはせず僕は笑った。
僕としては、十和田さんに冗談言ってやったことの方が重要だったから。実際はどうあれ、一度くらい楽しげに話をしたかったのだ。
仕込みの手伝いを済ませ、店側に移動する。
「おはようございます」
今日の朝は、レディースチーム『愚裏頭裏威』の初代総長・熊野菊子さんと、同じく『愚裏頭裏威』で特攻隊長を務めていた新島弥子さんが午前のシフトに入っていた。そういえば初日と同じシフトである。
さすが日曜日と言うべきか、十時前というこの時刻でも、わりと客が入っている。
「ちょっと来い」
ちょうどレジにいた新島さんは、挨拶より何より、僕を厨房と店の間という、人目につかない場所に連れ込んだ。
そう、あの雷神の怒りのようなデコピンを食らった場所だ。
「昨日のこと、話してないな?」
「僕から? 熊野さんに?」
――昨日は、ヤンキーチーム二組が解散した後、まるでダムのように塞き止められていた客が殺到し、一気に店は大入り満員になった。
そんな有様だったので、いつの間にかコスプレ喫茶『ホワイトジェム』のユミちゃんとの熱い逢瀬を済ませて店に戻ってきていた新島さんとは、話をする間がなかった。まあ仮に話す間があったとしても、僕はそれより天塩川さんとする話を優先しただろうからね。
この様子だと、予想通り、熊野さんには一切話さないことにしているようだ。
「僕から話すことなんて何もないですよ」
なぜ眠れる熊をわざわざ起こす必要があるのか。僕に自殺願望はない。
「そうか……ならいい」
新島さんが納得したので、改めて店側に出た。
「今日までお世話になりました」
「あ? ああ、今日までか。お疲れさん」
よし、あとは熊野さんに挨拶……あ、そうだ。これは言っておかねば。
「新島さん」
「ん?」
「僕をボコボコにしたのは、八十一高校の応援団の一人です」
「……?」
「ほら、初日に聞いたじゃないですか」
初めてこの店に来た時、僕の顔面をステキな凹凸模様にしてくれた相手のことだ。今なら特攻隊長なるただでさえ武闘派な『愚裏頭裏威』で、誰よりも血の気が多い向こう見ずなアレをやっていた新島さんがやたら食いついたのもわからなくはない。
……今時の女子高生じゃなかったんだよなぁ。この人。
「え? マジで?」
新島さんはあの質問を思い出したらしく、やはり食いついてきた。深刻な顔して。
「八十一高校応援団っつったら、やたら強いことで有名な長ランどもだろ?」
間違いなくそれだ。
「でもあいつらが手ぇ出すなんてよっぽどだわ。あいつら基本ケンカ買うだけだろ。何? ケンカ売ったの? 一之瀬が? そんなにひょろいのに?」
ひょろいは余計だ。……でもその読みは当たっている。
「あの一件は僕の方が加害者でしたから」
――そう、かの「守山悠介ポロリ事件」だから。あれは間違いなく僕らの……僕の方からちょっかいを出した一事である。
思えばとても無謀なことをしたものだ。そしてはた迷惑なことをしたものだ。
でもあの人のベストショットは僕の机の上のフォトスタンドで毎日僕を魅了しているけどね! 無謀なことをしたとは思うが後悔はない!
「おいおい、応援団にケンカ売ったのかよ……やるじゃん」
いらんやる気でしかないです。どこまでいっても。
こそこそ話していた僕らだが、熊野さんがやってくると入れ替わるように新島さんは行ってしまった。たぶん僕に別れの挨拶をさせるために、ちょっとだけ時間を作りに行ってくれたのだろう。
「おはようございます」
「おはよう。ちょっと来て」
「え?」
熊野さんは立ち止まることなく言い、僕を置いて厨房の方へ歩いていく。
僕は慌ててあとを追い、厨房を抜け、事務室兼休憩室を経て――
「……え?」
「早く。時間ないから」
そう急かされたら仕方ない。
僕はしょうがなく、本当にしょうがなく、決して本意ではないしドキドキもせず、期待に胸膨らませることなくそこへと踏み込んだ。
「……え?」
熊野さんと一緒に、女子更衣室に。
「――昨日の一件、聞いた」
……あ、あれ!?
もしや「うわぁイイ匂いするぅ。男子更衣室とは別次元過ぎるよぉ」とか思っている場合ではないのでは!?
静かに告げた熊野さんは……あ、やだ! いつものゆるキャラじゃない! 言うなれば眠れる熊がちょっと覚醒した感じでいつになく凛々しい! ……つか怖い! 目力が怖い! 圧力が怖い!
これがきっと、初代総長だった頃の熊野さんの顔なのだろう。
やべえ。
二人きりで、しかもドアが閉まっているので密室だ。
シメられフラグが立っている気がする……!
「す、すみません。僕、女子更衣室に入れてラッキーとか思ってません。勘弁してください」
「私まだ何も言ってないけど」
どうやらプレッシャーとパニックのあまり必要ないことを言ってしまったようだ。
「謝るのはこっちだ。昨日は迷惑かけたね」
「え?」
「私たちの都合に巻き込んじゃったでしょ?」
……まあ、そうですね。
「それに礼も言いたかった」
「……お礼?」
「うん。もし警察沙汰になってたら、私も弥子も無関係じゃ済まなかったから。店に迷惑も掛かるだろうし、たぶんここ辞めることになってたと思う」
そうかもしれない。
あの騒ぎ、もし乱闘に発展していたら、色々とシャレにならないことになっていたはずだ。
「あの、五条坂先輩のことは……」
「もうなんでもない。……とも言い難いけど、こうして働いてみてよくわかったよ。ケンカが強いなんて大して社会で役に立たないってさ」
うん……いやてゆーか、学生だろうが社会人だろうが基本人殴っちゃダメだけどね。どうしても人を殴りたいならボクサーになってくれとしか言えない。あとプロレスラーとか。
「チーム引退してから色々やったけど、あんまり長続きしなくてね。自分の我の強さに嫌気が差すほど将来が見えなかった。バイトを点々として唯一落ち着いたのがこの店だったんだ」
「へえ。なんか雰囲気とか合ったんですか?」
熊野さんはフッと笑って「全然」と答えた。
「まず今時のチャラい大学生の生駒さんだろ? ケンカ売ってるとしか思えないくらい強烈にガン飛ばしてくる十和田さんだろ? 瀬戸さんは基本的に接点なかったし、洋子さんは店長の親戚として色々気ぃ遣ってくれたけどそれが逆にウザかった。
まあ何より合わないと思ったのは、あの軽い店長だけどね」
でも私を楽にしてくれたのも店長だった、と熊野さんの告白は続く。
「店長には素性話してあるんだ。いつ迷惑掛けるかわからないけど雇ってくれ、邪魔になったらすぐクビにしてくれていいからってさ。これまでのバイト先でもそういう風にしてきたんだけど、気を遣われるのも色眼鏡で見られるのも気に入らなかった。――ここの店長くらいなんだよ。気にしないで接してくれたの」
僕の中年男性の理想像に近いあの人ならそうだろう。女の過去くらい軽く受け入れるはずだ。……あんまり真剣に考えてないだけかもしれないが……
「だから今も続けてられるし、……何より生きるのが楽になったと思う。世の中私の敵ばかりじゃないんだな、ってのがわかったから。ここのスタッフも受け入れちまえばいい人ばっかだってよくわかった」
「そうですか」
「今思えば、五条坂も決して私にケンカ売ってたわけじゃないし……たぶんユミも同じこと思ってるだろ」
おお、ユミさまか。
「あの人もかつてのチームの頭だったんですよね?」
「そうだよ。……あれだけ気合い入ってたのに、今やコスプレ喫茶の一番人気だもんな。ほんと人生ってわかんないもんだね」
それは同感である。あのユミちゃんがまさかのユミさまだったという……あのドSっぷりと三桁近いアレは僕の心を熱くさせるね……! あとあのスク水セーラーとかね!
「――つーわけで、一之瀬くんが考えてるより私は君に感謝してるわけ。まだたった三ヶ月しか働いてないけど、私はここが好きなんだ。やめたくない」
「ああ、気にしなくていいですよ。ほんとに」
「そう?」
「昨日、僕が好きな人が来店する予定だったんです」
「へ?」
熊野さんは驚いた。まあそりゃそうだろう。予想もしていない返しだったに違いない。
「僕としても警察沙汰は嫌だった。営業に障るようなことは絶対に避けたかった。だから身体張ったんです」
利害が一致しただけだ。揉め事が起これば店の迷惑になることも考えたが、僕は店のことより僕の目的を優先していたと思う。
だからあんまり感謝されても、ちょっと居心地が悪い。
「あ、思い出した。熊野さんにどうしても聞きたいことがあったんですけど」
「ん? 何?」
「なんで男女交際禁止にしたんですか?」
「え?」
「なんで男女交際禁止のチームにしたんですか?」
「――そろそろ仕事に戻ろうか」
うわ、露骨に無視された!
…………
もしかしたら、チーム作った理由が失恋だったりしたのかもしれない。人が動く動機なんて、意外と単純だったりするしね。
ならば、これ以上は追求しないのが優しさというものだろう。
まあ違うかもしれないけどね。
予想していた通り、今日ゆっくり話せたのは朝の内だけだった。
十一時を過ぎた頃には店内は満席で、一時を過ぎたらランチは全て完売した。
目が回るような慌しさに店内を飛び回り、気がついたら僕の勤務時間が過ぎようとしていた。
ランチタイムが終わっても客入りは落ち着かず、僕も落ち着かないままろくな挨拶もできず、追われるように店を出た。
「……うーん」
感動も味気も何もない、慌しい最後だったと思う。
まあ別に二度と会えなくなるわけでもなし、たぶん今後忙しくなりそうな時はまた声が掛かったりするだろうから、改まる必要もないだろう。第一挨拶なら朝に済ませたし、熊野さんに生駒さんへの挨拶も頼んでおいたしね。
今日で仕事も終わりか。
楽しかったな。
いつの間にかロッカーに入っていた給料(厳密には手伝いのお礼)は、僕が始めて握るような大金だった。もちろん一ヶ月のバイト代なんかと比べると微々たるものだと思うが、初仕事で貰った初給料……のようなものである。月々貰う小遣いなんかよりはやはり多かった。
降り止まない雨の中、雨に濡れてなお凛々しく鬼を足蹴にする「鬼晴らし女像」を横目に、新八十一アーケードを抜ける。
僕はあれこれと使い道を思案しながら帰途についた。
とりあえず、明日にでもコスプレ喫茶に行こうとは思っているけどね!