100.夏休みバイト編 四日目 前編
「あ、一之瀬! いいところに!」
午前八時七分、僕は喫茶店「7th」の前で、すでに制服に着替えを済ませている雷神の右手を持つ女・新島弥子さんに捕まった。
「ちょっと代わって」
彼女は店の横手にある蛇口から繋いだホースと、モップを持っていた。
恐らく窓を拭こうとしているのだ。
ただし、
「もしや届かない?」
新島さんの身長は百四十半ばと、かなり小柄なのだ。決して大きくない僕と二十センチくらいの差がある。
「わかってるなら言うなよ」
確か今日のシフトでは、午前中はゆるキャラっぽい僕の教育係・熊野菊子さんと、しーちゃん激似の生駒湊さんがいない。熊野さんがオフで、昼から生駒さんが入ることになっていたはずだ。
これまで店内は三人体制だったが、今日は午前中は新島さんと二人である。たぶん僕が色々仕事に慣れたからだと思う。ミスはするかもしれないが致命的に足を引っ張ることはないだろう、と。
「わかりました、着替えてきますから――あ、いらっしゃいませ」
毎朝通ってくるバシッとスーツを着ているキャリアウーマン風のお客さんが入店するのを見送り、僕は裏口から入ってさっさとユニフォームに着替えた。
ループタイを締めながら厨房へ向かい、すでに働いている瀬戸孝弘さんと十和田冬さんに挨拶し、外の清掃をしてくる旨を伝えてから店側に出て、入ったのを見届けたキャリアウーマンから「いつもの」というモーニングセットを賜って厨房に注文を通してから店を出た。
「まず水を窓にばーっとかけて。それからモップで上から水を落とすように拭く。客もう入ってるから手早くな」
いつもは店長・遠野崇さんが店に入ると真っ先にやるらしいが、あいにく店長は今日は昼入りである。
言われた通りに少しやってみると、新島さんは「それでいい。窓全部よろしく」と店内に戻っていった。今日は午前中は二人きりなので、片方は店にいないと業務が滞ってしまう。
僕はこのあと仕込みの手伝いもあるので、さっさとやってしまおう。
水をかける。
モップを掛ける。
水をかける。
モップを掛ける。
無心にただそれだけを繰り返し、端から端まで済ませた。うん、綺麗になった。元々窓ガラスは綺麗だったけど、今だけは切りきれなかった水気が光に輝いている。
よし、見惚れてないで早く厨房に戻ろう。
蛇口を閉めてホースを巻いて、モップは事務室の清掃用具入れに持っていけばいいんだよな。……おっと忘れるところだった。蛇口の上の回すところは外して回収しなきゃ。
すっかり引き上げる準備を済ませ、さあ店内へ――というところで、気付いた。
「あっ」
思わず上げた声が聞こえたらしく、目が覚めるような青いセーラー服美少女が振り返った。
「……あ、一之瀬くん?」
うおおおおおおおおおおおおおーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!
一瞬でテンションゲージを振り切った僕は、モップを捨てて彼女に駆け寄った。
それはもう、ユミちゃんが引くくらいの勢いで。
――そう、彼女こそコスプレ喫茶「ホワイトジェム」のユミちゃんである。
歳は、たぶん僕より一つ二つ上。僕より少し背が低くて、どこか小動物を思わせる幼い顔立ち。ライトブラウンの長髪がとても綺麗でよく似合っている。
「7th」の面接に連れられてきたあの日あの後、コスプレ喫茶の素晴らしさを共感した店長とともにコスプレ喫茶に行ったのだ。
その時僕らの接客をして色々とおしゃべりしたのが、彼のセーラー服姿のユミちゃんだ。たぶんこの格好も何かのコスプレなんだと思うが、生憎僕にはわからなかった。
前は、こう、白いゴスロリのドレスみたいな服を着ていた。フリルがたくさん付いた清楚なブラウスの襟元には赤いチェックのリボンが結ばれていた。指が出るタイプのグローブをはめていたので、もしかしたら格闘ゲームか何かのキャラの格好だったのかもしれない。
だがそんな清楚な格好に反比例し、反抗するするかのようなたわわに実りしすくすく成長したそれは自己主張を……何せちょっと背伸びしたら三桁だからね!
金銭的な問題(一番安いメニューのコーヒーでさえ一杯七百円)と一人で行く勇気がなかったという理由で、店長と一緒に行った一回しか顔を合わせていないのだが。
あれから約一ヶ月。
まさかユミちゃんが、僕の顔と名前を憶えてくれているとは思わなかった。
だってユミちゃん、すごい人気だったから。
もちろん他にもかわいい子や美人な子もいたが、僕の視線はユミちゃんに釘付けだった。……主に胸に。だって三桁はずるいだろ三桁は。大きい上にかわいいとか、もう何の冗談だよ。もう大好きだよ。
「僕は君に出会うために生まれてきたんだ!」
すごい勢いで駆けてきた僕の第一声にきょとんとした後、ユミちゃんは爆笑した。
「……あはははははっ! 相変わらずね!」
――そういえば初対面の時も似たようなことを言ったような気がする。そして爆笑された気がする。
「一之瀬くん、こんなところで何やってるの? その格好は?」
ひとしきり笑った後、ユミちゃんは上から下からウェイター姿の僕を眺めた。どうやらユミちゃんも、店の前の清掃に出てきたようだ。確かコスプレ喫茶は朝九時からだったはずなので、開店準備をしているのだろう。
「ちょっと事情があってね。あそこの喫茶店でバイトしてるんだ」
「え? あそこで?」
「うん。といっても、知り合いの代打なんだけどね」
「へえ……」
ユミちゃんは何か思案するように顎に手を当て、
「それって熊野さん?」
「いや……あれ? 知ってるの?」
「ほぼ向かい同士の喫茶店だから。ライバルでしょ。ライバルの情報はそれなりにね」
ああ、まあ、傾向は全然違うけど、喫茶店同士ということで意識はするのかもしれない。しがないバイトには全然そこまで気が回らなかったが。
「いや、遠野さんだよ」
「遠野……って店長の名前じゃなかった? あの渋いおじさまの」
おい店長! 渋いおじさまって言われてるぞ! ……ちょっと悔しいから伝えないでおこう。くそっ、僕もステキな何某と呼ばれたいものだ。
「いや、背の高い女性なんだけど」
「十和田?」
「それはパティシエ」
「……ああ、ならあれか」
思い当たったようだ。そういや十和田さんも、僕と代わった遠野洋子さんと同じくらい背が高かったな。視線のヤバさばかり気になっていたが。
「じゃあ一之瀬くんは関係ないんだね」
「ん? 何が?」
「また遊びに来てね。待ってるから」
待ってるからキターーーーー!! 小首を傾げる仕草がかわいすぎるぞ!
「店長とふたりで」
…………
今までのテンションMAXオーバーが嘘のように、それはもう急速に冷めていった。
「……それはつまり、一人で来るのは歓迎しないけど店長連れてきたらOK、ってことかな?」
表面上は平静を装い、僕は笑っていた。
でも心は北の国で震える子供だった。
もしここで、どんなに冗談めかしていようが冗談だとわかっていようが、肯定されたら絶対泣く。号泣する自信があった。あと帰ってから今夜は枕を濡らすだろう。
もはや聞かない方がよかったと思うくらい自分でも嫌な質問をしたと思うが、出してしまったものは戻しようがない。
果たしてユミちゃんは……後ろを伺い、周囲を伺い、すすっと身を寄せて僕の耳元で囁いた。
「私が言っちゃダメなんだけどさ。正直ここ高いじゃん。学生には絶対キツイって。でも店長が一緒だったらおごってくれるでしょ」
――ユミちゃん!
僕はガシッとユミちゃんの手を取った。
「来るから! バイト代出たら絶対来るから!」
後に知ることになるのだが。
あなただけ特別だ、とか。
あなただけプライベートの自分を見せる、とか。
そういうのは、いわゆるキャバクラ的なところで客を逃がさないキャバ嬢風の人たちのテクニックの一つらしい。
まあ、僕はユミちゃんを信じてるけどね! ユミちゃんに限ってそんなことないよね!
思いがけず会えたユミちゃんと後ろ髪を引かれる想いで別れ、僕は放り出していたモップを手に店に戻った。
「窓掃除終わりました」
「わかった。次はこっち手伝ってくれ」
店長が来るのは昼からだ。今日は瀬戸さんの指示の下、ひたすら野菜の皮剥きをする。
「瀬戸さん、コスプレ喫茶ってどう思います?」
「どうもこうも行ったことがないしな。何とも言えない」
「あそこはいいですよ。ええ、あそこはいいですよ」
「なんか店長もそんなこと言ってたなぁ。そんなにいいのか?」
「いいですよ。ちょっと背伸びしたら三桁の女の子とかいますよ」
「三桁? 何が? ……てゆーか一之瀬、俺もう嫁いるよ」
「え、うそ!? 既婚者!?」
「そんなに意外か?」
そう……でもない、か。瀬戸さんは強面だけどモテそうではあるし。
「瀬戸さん」
「なんだ」
「料理できる男がモテるって本当ですか?」
「モテるぞ。何より――」
瀬戸さんはニヤリと笑う。
「女を部屋に呼ぶ口実になるだろ?」
「え?」
「おい、しっかりしろよ。カレー作りすぎたとか、最近フレンチの練習してるから味見してくれとか、どうとでも言えるだろ」
「お、おお……なるほど……!」
まさに目から鱗だった。さすが悪メン、顔に相応しく遊んでやがったな! この野郎!
「そうやって奥さん捕まえたんですか?」
「当たらずとも遠からずだな。同じ調理師だし、料理絡みで仲良くなったのは確かだし」
「そして『毎日俺のソースカツ丼を食ってくれ』とかプロポーズしたんですね?」
「……たとえでももうちょい洒落たセリフ選べよ」
そんな取りとめのない雑談をしつつ、僕は早々に野菜の皮剥きを片付けた。だいぶ慣れたように思う。
「あ、そうだ。瀬戸さん、今日はできるだけ店に顔を出さないでください」
「あ? なんで?」
正解は、今日はONEの会の皆さんを呼んでいるからです。
好かれたら大変なことになるだろう。本当に。シャレ抜きに。