毒見役の私だけが、王妃様の手料理が絶望的にまずいと知っている
毒見役の私だけが、王妃様の手料理が絶望的にまずいと知っている
舌のしびれ、なし。
喉の腫れ、なし。
脈の乱れ、なし。
毒見役として十年かけて身につけた初動の点検を、私はひと匙のうちに終えていた。
問題は毒ではない。
王妃様の手料理が、絶望的にまずいことだった。
まず焦げかけた大麦の煙たい香りが鼻に突き刺さる。そこへ干し赤すももの酸味が、舌をきゅっと縮ませた。飲み込んだ途端、侍医の処方した薬草の苦味まで追いかけてきた。
涙がにじんだ。
今のところ中毒の兆候は一つもない。なのに水差しへ伸びかけた手が、止まらない。
「マレーヌ、味はどうかしら」
王妃リュシエンヌ様が、前掛けの端を握って尋ねられた。
厨房係には下ごしらえだけを任せ、火加減も味つけも初めてご自身で仕上げたばかりのお方である。いつもの毅然とした王妃様とは違い、今は試験の結果を待つ子どものような顔をなさっていた。
私は表情筋を総動員して、平静な顔を作った。
「食材に異常はございません。衛生上も問題なく、侍医の封包も指示どおりでございます。安心してお召し上がりいただけます」
完璧な報告だ。嘘は一つもない。
味については一つも答えていないが。
「そう……ありがとう」
王妃様は鍋の中を覗き、少しだけ唇を結ばれた。
私は検食記録に目を落とした。危険の有無を書き込む欄はある。毒の兆候を記す欄もある。
まずい、と書く欄はなかった。あれば、誰より正確に書ける自信はあった。
その夜、国王アルベルト陛下は夜食の椀を空になさった。
小食堂に夜食を運ぶと、陛下は自ら椅子をもう一脚引き寄せ、王妃様が隣に腰かけられるのを待ってから匙を取られた。私は器の回収まで壁際に控えるのが務めだった。
食べ終えた陛下は、王妃様に向かって穏やかにおっしゃった。
「今日は、二人で食べられてよかった」
王妃様は、昼間の会議では決して見せない顔で笑われた。
私には、あの味を平然と召し上がれる陛下が信じられなかった。愛する方の料理なら、舌の働きまで違うのだろうか。
こうして、初夜から数えて九十四夜の夜食が始まった。
王妃様は毎晩、何かを変えられた。塩を減らした翌日は水が足りず、水を増やした日はすももが多い。私は検食のたびに口直しの水を忍ばせ、公式記録に使える婉曲な表現だけを増やしていった。
「酸味が鮮烈」「香ばしさに個性あり」「後味に長い余韻」。余韻とは、いつまでも去ってくれない苦しみのことである。そのうち毒見より詩の試験を受けている気がした。
苦い薬草が加わるのは侍医が必要と認めた夜だけで、入らない日も十分に手強かった。
一度、すももを鍋へ落とす前に王妃様が私を振り返られたことがある。私は助言の代わりに、ひたすら神妙な顔でうなずいた。その晩の酸味は過去最高だった。自分にも責任の一端があると思うと、苦情を言う相手すらいなかった。
陛下は椅子を寄せ、王妃様のその日の失敗談や小さな工夫に耳を傾け、毎晩器を空になさった。そして返すときには、決まって同じことをおっしゃった。
ある晩、王妃様はすももを減らしたことを得意げに報告された。ところが陛下のお戻りが遅れ、煮詰まったとろ煮はひどく塩辛かった。王妃様は味見のひと匙で肩を落とし、立ったまま鍋を見つめておられた。それでも陛下がもう一脚を引くと、すぐにその椅子へ腰かけられた。私は壁際で、王妃様の嬉しそうな横顔を見ていた。
最後の夜食は、格別に煙たく、酸っぱく、そして苦かった。
その翌朝、王妃様は熱を出された。
◆
王妃様が亡くなって、四日が過ぎた夕方。
宮中のほかの者にも広がった発熱性の病だった。王妃様は発症から六日後、侍医エドモン様の治療もむなしく息を引き取られた。食事が原因の病ではないと、診断も下されている。
小食堂からは、椅子を引く音が消えた。
陛下は水や少量の汁物のほかはほとんど召し上がらず、固形物は昨日の朝にパンを一口かじられたきりだった。厨房係は食べやすいものを工夫し、エドモン様が診察を重ねている。
それでも椀が戻るたび、ほとんど中身は減っていなかった。
私は陛下に呼ばれた。
小食堂へ入ると、以前は二人分の皿を載せた卓に、水の杯だけが置かれていた。陛下は誰も座っていない椅子を見つめておられた。いつもの場所に一脚あるだけで、その部屋の広さが変わって見えた。
「リュシエンヌが最後に作った、あの夜食を食べたい」
声はかすれていた。味を形容する言葉は一つもなかった。
厨房係は、消化のよい麦の粥なら作れると申し出た。誰が考えても、それが正しい。
だが私は、あの夜食と普通の粥が、同じ料理ではないことを知っている。
「お許しいただけるなら、私が再現いたします」
自分の声が思いのほか大きく響いた。
生前も材料の下ごしらえは厨房係の務めだったが、王妃様が鍋の前で何をなさり、どんな味に仕上げられたかは知らない。
王妃様亡き今、あの絶望的な味を知っているのは、この宮廷で私だけだ。
「……頼む」
許可をいただき、深く頭を下げた。
けれど、喉の奥に別の苦味が広がった。
陛下は王妃様を深く愛しておられた。王妃様が亡くなった今、思い出の夜食は、記憶の中でどれほど美味しくなっていることだろう。
そこへ現実の、焦げて酸っぱくて苦い一皿を出したなら。
こんな味ではなかったと拒まれ、もう何も召し上がらなくなるかもしれない。
◆
私は侍医のもとへ向かった。
夜食が始まったのは、政務で陛下の胃が弱り、王妃様が温かなものを少しでも食べてほしいと願われたからだ。調理を厨房係へ任せる案だけは、頑として受け入れられなかった。
最後の晩の診療記録には、月苦草の封包が一つ記されていた。胃の不快を和らげる補助として、必要な夜だけ侍医が用いる薬草だ。初夜にも同じ記録がある。封包を使うときは、陛下本人への診察と説明、同意が先に済まされていた。
何枚かの記録には、相談者として王妃様の名が添えられていた。
「今夜も胃の不快がある。摂取が少ないことも踏まえて診察した。陛下への説明とご同意は済んでいる。使うならこの一包だ」
エドモン様が封包を渡された。
そして、私が再現するつもりだと告げると、腕を組まれた。
「食べていただくことが先決だ。厨房に任せた、口にしやすい粥のほうが量は入るかもしれん」
反論のしようもなかった。
医師が望むのは、王が栄養を取ることだ。亡き王妃様の失敗まで再現する医学的な理由はない。
私は陛下から預かった許可証で、施錠された私室付き厨房を開けた。
調理台の棚には、角の擦れた一冊のノートが残っていた。王妃様が毎夜、鍋を見ながら書き込まれていたものだ。
すぐに開くことはできなかった。
開けば、あの夜をもう一度失う気がした。
◆
まず、普通に美味しい麦のとろ煮を作った。
大麦を柔らかく煮て、塩を少し。赤すももは酸味が立ちすぎない分量にとどめた。
温かく、なめらかで、胃にも気持ちにも優しそうな一皿ができた。
大問題である。
これでは王妃様の料理ではない。
私は別の鍋に向かった。
あの焦げかけの匂いを出すために火を強める。だが、鍋底が黒くなりそうな瞬間、手が勝手に火を弱めた。長年、傷んだ料理を止めてきた指は、私の命令を聞かない。
すももを足す。味を見る。多すぎると思って取り出す。もう一度足す。また取り出す。
舌が危険を見つけているのではない。ただ、まともな味に直す癖が抜けないのだ。
二鍋目も美味しかった。
三鍋目は香ばしさをつけようと大麦を少し煎った。きれいな焼き色がつき、食欲を誘う香りになった。
ますます違う。
紙に「焦がすこと」と大きく書いて鍋の脇へ立ててみた。煮立つたび、私の手は反射的に木匙を動かした。ついにはその紙の下に「ただし焦がしすぎないこと」と書き足していた。自分に出した命令を、自分で台無しにしている。
「さすがはマレーヌ様。たいへん良い出来です」
様子を見に来た厨房係が、心から褒めてくれた。
「そんなに褒めないでちょうだい」
「何か失礼を?」
「今夜だけは、上達が一番困るの」
厨房係は途方に暮れていた。
安全に失敗しようとして、成功する。私はいつの間にか、王宮で一番困った料理人になっていた。
並んだ鍋は、どれも王妃様のものより美味しい。
エドモン様が勧めるのも、こういう味だろう。
いっそ、これを「王妃様の夜食です」と差し出せばいいのではないか。
陛下の中で美しくなった記憶に、きっとよく似合う。食べる量も増えるかもしれない。王妃様の名誉も、陛下のお心も守れる。
誰も傷つけない嘘に思えた。
私はノートを開いた。
◆
感動的な言葉は、一行もなかった。
水が少なすぎた。次は早く足す。
塩を減らしたら物足りない。すももを入れたら酸っぱい。
帰りが早い日も、火を強めない。焦げても、すももで隠さない。
失敗の脇に、別の失敗。それを打ち消す工夫。ページの端まで小さな字が詰まり、書き直した数字に何度も線が引かれている。数頁には、鍋底に触れた指でめくったのか、薄い茶色の指跡まで残っていた。私が検食記録へ婉曲な言葉を探しているあいだも、王妃様はこの頁に本当の失敗を記していたのだ。
小さな丸がつけられた頁もあった。うまくできたつもりの日が、あの方にもあったのだ。けれど次の頁にはまた塩の量を変えた記録があり、丸一つで満足するような方ではなかった。
王妃様は、自分の料理が下手だと知っておられた。
それが悔しかったらしい。味見をしては顔をしかめ、翌日にはまた鍋を出す。王宮の誰かに任せてしまえば、すぐ済むことなのに。
最後のほうのページで、短い一行に目が止まった。
『次は、味を尋ねる』
私は初夜の王妃様を思い出した。
確かに尋ねられていた。あの方は、安全かどうかを聞いたのではなかった。
私は答えなかった。ご機嫌を損ねるのが怖かったのだ。
王妃様は、私を叱りもしなかった。ただ翌晩、自分でまた失敗していた。
最後の夜のことが、急に鮮明になった。
廊下の向こうから、予定より早く陛下がお戻りになる足音がした。王妃様は慌てて火を強められた。鍋底から煙たい匂いが立ち、赤すももをひとつ、ふたつと増やされる。ノートに記した二つの戒めを、ご自分で二つとも破っておられた。
焦げを隠すつもりが、酸っぱさまで増してしまった。
小皿を口に運んだ王妃様は、思わず眉を寄せられた。
私と目が合うと、気まずそうに笑われた。
私は、そのときも何も言わなかった。
ノートの最後の頁には、すももの数を直した跡があった。ただし、あの夜、足音に慌てて加えた二粒は書かれていない。あの方は、失敗したままでよいと思っていたわけではない。次の夜には、もう少しまともな味を出したかったのだ。
棚の上で冷めている、美味しい試作の鍋を見た。
それを王妃様の味だと偽れば、焦げを消そうとして余計に酸っぱくした手も、味を尋ねようと決めた一行も、なかったことにしてしまう。
生きておられるうちに本当の味を伝えられなかった私が、死後の味まで取り繕ってどうするのだろう。
でも、王が一匙も口にされなかったら。
エドモン様の勧めに逆らって、食べていただく機会を失うことになる。王妃様の料理をまずいと言うなど、不敬だと責められてもおかしくない。
それでも、今夜は私の舌から逃げたくなかった。
◆
美味しい試作を、配膳する盆から外した。
磨いた椀に、そちらを注ぐことは簡単だった。何度も自分にそう言い聞かせてきたから、手が動きかける。けれど私は空の椀を引き寄せ、あの最後の夜食を再現する鍋の前に置いた。
ノートにあるすももの数に、最後の夜、王妃様が慌てて足した二粒を加える。あの夜、傍らで見ていた私にしか分からない二粒だ。煎った麦を少し混ぜると、食欲をそそる香ばしさの先に、あの煙たい匂いが戻ってきた。
火の入れ方は王妃様と違う。それでも焦げかけた香りと強すぎる酸味は、私の舌の覚えているままだ。
最後に、侍医から預かった一包を加えた。
小皿から、ひと匙。
鼻を刺す焦げの匂い。舌を縮めるすももの酸味。飲み込んだあとに残る苦味。
水差しへ、指が動いた。止まった。
誰も、どうかしら、と尋ねない。
私は盆を封緘した。
作った手は違う。けれど最後の夜の味を、私は知っている。
王の記憶とぶつかれば、私の失敗と受け取られるかもしれない。その前に、毒見役として証言しよう。食べて安全という話ではなく、これがあの夜の味に近いということを。
◆
給仕が下がると、小食堂には陛下と私だけが残った。エドモン様は扉の外で控えておられる。
椅子は二脚。隣の一脚は空いたままだった。
「陛下。お召し上がりになる前に、お伝えしたいことがございます」
陛下は匙に伸ばしかけた手を止められた。
「王妃様は、料理をお得意とはなさいませんでした」
言葉にした途端、心臓が跳ねた。
それでも、引き下がらなかった。
「私は九十四夜、同じ鍋から検食いたしました。この夜食は私が作ったもので、王妃様のものとまったく同じだとは申しません。けれど、あの夜の味を覚えております。勝手に美味しく直したものを、王妃様の夜食と偽ることはできませんでした」
長い沈黙があった。
お叱りなら受けよう。だが陛下は、ただ器に目を落とし、匙を取られた。
一匙目。
匙が器の縁に触れたまま、止まる。
私は王妃様の空いた椅子を見ないようにした。見れば、目の前の陛下から逃げてしまいそうだった。
「……まずい」
喉が詰まった。
陛下は、少しだけ目を細められた。
「最後の晩も、こんな味だった」
「……お分かりに、なっていたのですか」
「分かるとも。あれは、いくらなんでも……」
陛下の口元がわずかに緩んだ。だが、その笑みは声になる前に震えて消えた。
「だから一度も、美味しいとは言わなかった」
陛下は椀を見つめ、空いた椅子の背に指を触れられた。
「苦い晩は、あいつが私の不調に先に気づいた晩だった。私は医師にさえ、自分から言えなかったのにな」
言葉はそこで途切れた。
陛下は、椅子から手を離さなかった。
「……もっと早く、酸っぱすぎると教えてやればよかった」
小さな声だった。陛下は空席から目を離し、まっすぐ私を見られた。
「お前が先に本当のことを言ってくれて、よかった」
私は初夜の王妃様の顔を思い出した。味を尋ねられたのに、安全だけを答えた私のことも。
陛下は目元を手で覆われた。私は壁際で姿勢を正したまま、何も言えなかった。
しばらくして、陛下がもう一度匙を取られた。
二匙目。
椀の表面には、匙で掬われた小さなくぼみが二つだけ残った。いつもは空になって戻ってきた椀を、私は壁際で見つめた。
陛下は器を返しかけ、唇をわずかに動かされた。
「今日は、二人で……」
その先は続かなかった。
いつも椅子を寄せておられた手が、空いた背もたれに置かれた。
私は器を受け取らず、待った。
やがて陛下は匙を伏せられた。
「明日は、普通の粥を頼む」
その夜に召し上がったのは、二匙だけだった。
◆
翌朝、小食堂には厨房係が作った普通の麦粥が運ばれた。
エドモン様が見守る中、陛下はご自身で匙を取り、三分の一ほど召し上がった。そこで手を止め、少し休まれた。
王妃様の椅子は空いたままだった。
だが、あの椅子の隣には、食べようとなさる人がいた。
昼前、私は王妃様の私室付き厨房に戻った。
王家で保管されることになった調理ノートの、最後の頁を開く。
公式の検食記録は安全の所見としてそのまま残し、別の紙に味の所見を書いた。
『最後の夜の夜食。焦げかけた麦の香りが強く、干し赤すももの酸味は過剰。医師の封包による苦味が後に残る。率直に言って、まずい』
その下に、もう一行。
『それでも、陛下は最後の夜も、隣に椅子を寄せていらっしゃいました』
ノートには、王妃様の字で『次は、味を尋ねる』と残っていた。
私は返事の紙が抜け落ちないよう、頁の奥へそっと差し入れた。
それから、ノートを閉じた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
今回は「絶望的にまずい王妃様の手料理」を題材に、笑えて、少し切ないお話を書いてみました。
マレーヌの苦労や、王妃様と陛下が過ごした九十四夜が、少しでも心に残っていれば嬉しいです。
本作は短編として完結していますが、もし「この人たちの物語をもっと読みたい」「長編でも読んでみたい」と思っていただけたら、ぜひ感想で教えてください。
長編化については、皆様のご希望も参考に検討したいと思っています。
また、面白かった、心に残ったと思っていただけましたら、ページ下の☆☆☆☆☆から評価していただけると、大変励みになります。
お読みいただき、本当にありがとうございました!




