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毒見役の私だけが、王妃様の手料理が絶望的にまずいと知っている

作者: 他力本願寺
掲載日:2026/10/12

毒見役の私だけが、王妃様の手料理が絶望的にまずいと知っている


 舌のしびれ、なし。

 喉の腫れ、なし。

 脈の乱れ、なし。


 毒見役として十年かけて身につけた初動の点検を、私はひと匙のうちに終えていた。

 問題は毒ではない。

 王妃様の手料理が、絶望的にまずいことだった。


 まず焦げかけた大麦の煙たい香りが鼻に突き刺さる。そこへ干し赤すももの酸味が、舌をきゅっと縮ませた。飲み込んだ途端、侍医の処方した薬草の苦味まで追いかけてきた。

 涙がにじんだ。

 今のところ中毒の兆候は一つもない。なのに水差しへ伸びかけた手が、止まらない。


「マレーヌ、味はどうかしら」


 王妃リュシエンヌ様が、前掛けの端を握って尋ねられた。

 厨房係には下ごしらえだけを任せ、火加減も味つけも初めてご自身で仕上げたばかりのお方である。いつもの毅然とした王妃様とは違い、今は試験の結果を待つ子どものような顔をなさっていた。

 私は表情筋を総動員して、平静な顔を作った。


「食材に異常はございません。衛生上も問題なく、侍医の封包も指示どおりでございます。安心してお召し上がりいただけます」


 完璧な報告だ。嘘は一つもない。

 味については一つも答えていないが。


「そう……ありがとう」


 王妃様は鍋の中を覗き、少しだけ唇を結ばれた。

 私は検食記録に目を落とした。危険の有無を書き込む欄はある。毒の兆候を記す欄もある。

 まずい、と書く欄はなかった。あれば、誰より正確に書ける自信はあった。


 その夜、国王アルベルト陛下は夜食の椀を空になさった。

 小食堂に夜食を運ぶと、陛下は自ら椅子をもう一脚引き寄せ、王妃様が隣に腰かけられるのを待ってから匙を取られた。私は器の回収まで壁際に控えるのが務めだった。

 食べ終えた陛下は、王妃様に向かって穏やかにおっしゃった。


「今日は、二人で食べられてよかった」


 王妃様は、昼間の会議では決して見せない顔で笑われた。

 私には、あの味を平然と召し上がれる陛下が信じられなかった。愛する方の料理なら、舌の働きまで違うのだろうか。


 こうして、初夜から数えて九十四夜の夜食が始まった。


 王妃様は毎晩、何かを変えられた。塩を減らした翌日は水が足りず、水を増やした日はすももが多い。私は検食のたびに口直しの水を忍ばせ、公式記録に使える婉曲な表現だけを増やしていった。

 「酸味が鮮烈」「香ばしさに個性あり」「後味に長い余韻」。余韻とは、いつまでも去ってくれない苦しみのことである。そのうち毒見より詩の試験を受けている気がした。

 苦い薬草が加わるのは侍医が必要と認めた夜だけで、入らない日も十分に手強かった。

 一度、すももを鍋へ落とす前に王妃様が私を振り返られたことがある。私は助言の代わりに、ひたすら神妙な顔でうなずいた。その晩の酸味は過去最高だった。自分にも責任の一端があると思うと、苦情を言う相手すらいなかった。


 陛下は椅子を寄せ、王妃様のその日の失敗談や小さな工夫に耳を傾け、毎晩器を空になさった。そして返すときには、決まって同じことをおっしゃった。

 ある晩、王妃様はすももを減らしたことを得意げに報告された。ところが陛下のお戻りが遅れ、煮詰まったとろ煮はひどく塩辛かった。王妃様は味見のひと匙で肩を落とし、立ったまま鍋を見つめておられた。それでも陛下がもう一脚を引くと、すぐにその椅子へ腰かけられた。私は壁際で、王妃様の嬉しそうな横顔を見ていた。


 最後の夜食は、格別に煙たく、酸っぱく、そして苦かった。

 その翌朝、王妃様は熱を出された。


     ◆


 王妃様が亡くなって、四日が過ぎた夕方。


 宮中のほかの者にも広がった発熱性の病だった。王妃様は発症から六日後、侍医エドモン様の治療もむなしく息を引き取られた。食事が原因の病ではないと、診断も下されている。


 小食堂からは、椅子を引く音が消えた。

 陛下は水や少量の汁物のほかはほとんど召し上がらず、固形物は昨日の朝にパンを一口かじられたきりだった。厨房係は食べやすいものを工夫し、エドモン様が診察を重ねている。

 それでも椀が戻るたび、ほとんど中身は減っていなかった。


 私は陛下に呼ばれた。

 小食堂へ入ると、以前は二人分の皿を載せた卓に、水の杯だけが置かれていた。陛下は誰も座っていない椅子を見つめておられた。いつもの場所に一脚あるだけで、その部屋の広さが変わって見えた。


「リュシエンヌが最後に作った、あの夜食を食べたい」


 声はかすれていた。味を形容する言葉は一つもなかった。


 厨房係は、消化のよい麦の粥なら作れると申し出た。誰が考えても、それが正しい。

 だが私は、あの夜食と普通の粥が、同じ料理ではないことを知っている。


「お許しいただけるなら、私が再現いたします」


 自分の声が思いのほか大きく響いた。

 生前も材料の下ごしらえは厨房係の務めだったが、王妃様が鍋の前で何をなさり、どんな味に仕上げられたかは知らない。

 王妃様亡き今、あの絶望的な味を知っているのは、この宮廷で私だけだ。


「……頼む」


 許可をいただき、深く頭を下げた。

 けれど、喉の奥に別の苦味が広がった。


 陛下は王妃様を深く愛しておられた。王妃様が亡くなった今、思い出の夜食は、記憶の中でどれほど美味しくなっていることだろう。

 そこへ現実の、焦げて酸っぱくて苦い一皿を出したなら。

 こんな味ではなかったと拒まれ、もう何も召し上がらなくなるかもしれない。


     ◆


 私は侍医のもとへ向かった。


 夜食が始まったのは、政務で陛下の胃が弱り、王妃様が温かなものを少しでも食べてほしいと願われたからだ。調理を厨房係へ任せる案だけは、頑として受け入れられなかった。


 最後の晩の診療記録には、月苦草の封包が一つ記されていた。胃の不快を和らげる補助として、必要な夜だけ侍医が用いる薬草だ。初夜にも同じ記録がある。封包を使うときは、陛下本人への診察と説明、同意が先に済まされていた。

 何枚かの記録には、相談者として王妃様の名が添えられていた。


「今夜も胃の不快がある。摂取が少ないことも踏まえて診察した。陛下への説明とご同意は済んでいる。使うならこの一包だ」


 エドモン様が封包を渡された。

 そして、私が再現するつもりだと告げると、腕を組まれた。


「食べていただくことが先決だ。厨房に任せた、口にしやすい粥のほうが量は入るかもしれん」


 反論のしようもなかった。

 医師が望むのは、王が栄養を取ることだ。亡き王妃様の失敗まで再現する医学的な理由はない。


 私は陛下から預かった許可証で、施錠された私室付き厨房を開けた。

 調理台の棚には、角の擦れた一冊のノートが残っていた。王妃様が毎夜、鍋を見ながら書き込まれていたものだ。

 すぐに開くことはできなかった。

 開けば、あの夜をもう一度失う気がした。


     ◆


 まず、普通に美味しい麦のとろ煮を作った。


 大麦を柔らかく煮て、塩を少し。赤すももは酸味が立ちすぎない分量にとどめた。

 温かく、なめらかで、胃にも気持ちにも優しそうな一皿ができた。

 大問題である。

 これでは王妃様の料理ではない。


 私は別の鍋に向かった。

 あの焦げかけの匂いを出すために火を強める。だが、鍋底が黒くなりそうな瞬間、手が勝手に火を弱めた。長年、傷んだ料理を止めてきた指は、私の命令を聞かない。

 すももを足す。味を見る。多すぎると思って取り出す。もう一度足す。また取り出す。

 舌が危険を見つけているのではない。ただ、まともな味に直す癖が抜けないのだ。


 二鍋目も美味しかった。

 三鍋目は香ばしさをつけようと大麦を少し煎った。きれいな焼き色がつき、食欲を誘う香りになった。

 ますます違う。

 紙に「焦がすこと」と大きく書いて鍋の脇へ立ててみた。煮立つたび、私の手は反射的に木匙を動かした。ついにはその紙の下に「ただし焦がしすぎないこと」と書き足していた。自分に出した命令を、自分で台無しにしている。


「さすがはマレーヌ様。たいへん良い出来です」


 様子を見に来た厨房係が、心から褒めてくれた。


「そんなに褒めないでちょうだい」

「何か失礼を?」

「今夜だけは、上達が一番困るの」


 厨房係は途方に暮れていた。

 安全に失敗しようとして、成功する。私はいつの間にか、王宮で一番困った料理人になっていた。


 並んだ鍋は、どれも王妃様のものより美味しい。

 エドモン様が勧めるのも、こういう味だろう。

 いっそ、これを「王妃様の夜食です」と差し出せばいいのではないか。

 陛下の中で美しくなった記憶に、きっとよく似合う。食べる量も増えるかもしれない。王妃様の名誉も、陛下のお心も守れる。

 誰も傷つけない嘘に思えた。


 私はノートを開いた。


     ◆


 感動的な言葉は、一行もなかった。


 水が少なすぎた。次は早く足す。

 塩を減らしたら物足りない。すももを入れたら酸っぱい。

 帰りが早い日も、火を強めない。焦げても、すももで隠さない。


 失敗の脇に、別の失敗。それを打ち消す工夫。ページの端まで小さな字が詰まり、書き直した数字に何度も線が引かれている。数頁には、鍋底に触れた指でめくったのか、薄い茶色の指跡まで残っていた。私が検食記録へ婉曲な言葉を探しているあいだも、王妃様はこの頁に本当の失敗を記していたのだ。

 小さな丸がつけられた頁もあった。うまくできたつもりの日が、あの方にもあったのだ。けれど次の頁にはまた塩の量を変えた記録があり、丸一つで満足するような方ではなかった。

 王妃様は、自分の料理が下手だと知っておられた。

 それが悔しかったらしい。味見をしては顔をしかめ、翌日にはまた鍋を出す。王宮の誰かに任せてしまえば、すぐ済むことなのに。


 最後のほうのページで、短い一行に目が止まった。


『次は、味を尋ねる』


 私は初夜の王妃様を思い出した。

 確かに尋ねられていた。あの方は、安全かどうかを聞いたのではなかった。

 私は答えなかった。ご機嫌を損ねるのが怖かったのだ。

 王妃様は、私を叱りもしなかった。ただ翌晩、自分でまた失敗していた。


 最後の夜のことが、急に鮮明になった。

 廊下の向こうから、予定より早く陛下がお戻りになる足音がした。王妃様は慌てて火を強められた。鍋底から煙たい匂いが立ち、赤すももをひとつ、ふたつと増やされる。ノートに記した二つの戒めを、ご自分で二つとも破っておられた。

 焦げを隠すつもりが、酸っぱさまで増してしまった。

 小皿を口に運んだ王妃様は、思わず眉を寄せられた。

 私と目が合うと、気まずそうに笑われた。

 私は、そのときも何も言わなかった。


 ノートの最後の頁には、すももの数を直した跡があった。ただし、あの夜、足音に慌てて加えた二粒は書かれていない。あの方は、失敗したままでよいと思っていたわけではない。次の夜には、もう少しまともな味を出したかったのだ。


 棚の上で冷めている、美味しい試作の鍋を見た。

 それを王妃様の味だと偽れば、焦げを消そうとして余計に酸っぱくした手も、味を尋ねようと決めた一行も、なかったことにしてしまう。

 生きておられるうちに本当の味を伝えられなかった私が、死後の味まで取り繕ってどうするのだろう。


 でも、王が一匙も口にされなかったら。

 エドモン様の勧めに逆らって、食べていただく機会を失うことになる。王妃様の料理をまずいと言うなど、不敬だと責められてもおかしくない。

 それでも、今夜は私の舌から逃げたくなかった。


     ◆


 美味しい試作を、配膳する盆から外した。

 磨いた椀に、そちらを注ぐことは簡単だった。何度も自分にそう言い聞かせてきたから、手が動きかける。けれど私は空の椀を引き寄せ、あの最後の夜食を再現する鍋の前に置いた。


 ノートにあるすももの数に、最後の夜、王妃様が慌てて足した二粒を加える。あの夜、傍らで見ていた私にしか分からない二粒だ。煎った麦を少し混ぜると、食欲をそそる香ばしさの先に、あの煙たい匂いが戻ってきた。

 火の入れ方は王妃様と違う。それでも焦げかけた香りと強すぎる酸味は、私の舌の覚えているままだ。

 最後に、侍医から預かった一包を加えた。


 小皿から、ひと匙。


 鼻を刺す焦げの匂い。舌を縮めるすももの酸味。飲み込んだあとに残る苦味。

 水差しへ、指が動いた。止まった。

 誰も、どうかしら、と尋ねない。


 私は盆を封緘した。

 作った手は違う。けれど最後の夜の味を、私は知っている。

 王の記憶とぶつかれば、私の失敗と受け取られるかもしれない。その前に、毒見役として証言しよう。食べて安全という話ではなく、これがあの夜の味に近いということを。


     ◆


 給仕が下がると、小食堂には陛下と私だけが残った。エドモン様は扉の外で控えておられる。

 椅子は二脚。隣の一脚は空いたままだった。


「陛下。お召し上がりになる前に、お伝えしたいことがございます」


 陛下は匙に伸ばしかけた手を止められた。


「王妃様は、料理をお得意とはなさいませんでした」


 言葉にした途端、心臓が跳ねた。

 それでも、引き下がらなかった。


「私は九十四夜、同じ鍋から検食いたしました。この夜食は私が作ったもので、王妃様のものとまったく同じだとは申しません。けれど、あの夜の味を覚えております。勝手に美味しく直したものを、王妃様の夜食と偽ることはできませんでした」


 長い沈黙があった。

 お叱りなら受けよう。だが陛下は、ただ器に目を落とし、匙を取られた。


 一匙目。


 匙が器の縁に触れたまま、止まる。

 私は王妃様の空いた椅子を見ないようにした。見れば、目の前の陛下から逃げてしまいそうだった。


「……まずい」


 喉が詰まった。

 陛下は、少しだけ目を細められた。


「最後の晩も、こんな味だった」


「……お分かりに、なっていたのですか」


「分かるとも。あれは、いくらなんでも……」


 陛下の口元がわずかに緩んだ。だが、その笑みは声になる前に震えて消えた。


「だから一度も、美味しいとは言わなかった」


 陛下は椀を見つめ、空いた椅子の背に指を触れられた。


「苦い晩は、あいつが私の不調に先に気づいた晩だった。私は医師にさえ、自分から言えなかったのにな」


 言葉はそこで途切れた。

 陛下は、椅子から手を離さなかった。


「……もっと早く、酸っぱすぎると教えてやればよかった」


 小さな声だった。陛下は空席から目を離し、まっすぐ私を見られた。


「お前が先に本当のことを言ってくれて、よかった」

 私は初夜の王妃様の顔を思い出した。味を尋ねられたのに、安全だけを答えた私のことも。

 陛下は目元を手で覆われた。私は壁際で姿勢を正したまま、何も言えなかった。


 しばらくして、陛下がもう一度匙を取られた。

 二匙目。


 椀の表面には、匙で掬われた小さなくぼみが二つだけ残った。いつもは空になって戻ってきた椀を、私は壁際で見つめた。

 陛下は器を返しかけ、唇をわずかに動かされた。


「今日は、二人で……」


 その先は続かなかった。

 いつも椅子を寄せておられた手が、空いた背もたれに置かれた。

 私は器を受け取らず、待った。


 やがて陛下は匙を伏せられた。


「明日は、普通の粥を頼む」


 その夜に召し上がったのは、二匙だけだった。


     ◆


 翌朝、小食堂には厨房係が作った普通の麦粥が運ばれた。

 エドモン様が見守る中、陛下はご自身で匙を取り、三分の一ほど召し上がった。そこで手を止め、少し休まれた。

 王妃様の椅子は空いたままだった。

 だが、あの椅子の隣には、食べようとなさる人がいた。


 昼前、私は王妃様の私室付き厨房に戻った。

 王家で保管されることになった調理ノートの、最後の頁を開く。

 公式の検食記録は安全の所見としてそのまま残し、別の紙に味の所見を書いた。


『最後の夜の夜食。焦げかけた麦の香りが強く、干し赤すももの酸味は過剰。医師の封包による苦味が後に残る。率直に言って、まずい』


 その下に、もう一行。


『それでも、陛下は最後の夜も、隣に椅子を寄せていらっしゃいました』


 ノートには、王妃様の字で『次は、味を尋ねる』と残っていた。

 私は返事の紙が抜け落ちないよう、頁の奥へそっと差し入れた。

 それから、ノートを閉じた。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!


今回は「絶望的にまずい王妃様の手料理」を題材に、笑えて、少し切ないお話を書いてみました。


マレーヌの苦労や、王妃様と陛下が過ごした九十四夜が、少しでも心に残っていれば嬉しいです。


本作は短編として完結していますが、もし「この人たちの物語をもっと読みたい」「長編でも読んでみたい」と思っていただけたら、ぜひ感想で教えてください。


長編化については、皆様のご希望も参考に検討したいと思っています。


また、面白かった、心に残ったと思っていただけましたら、ページ下の☆☆☆☆☆から評価していただけると、大変励みになります。


お読みいただき、本当にありがとうございました!

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