初夜に「おまえを妻として愛することはない」と言った夫の真実
「俺は、おまえを妻として愛することはない」
結婚初日、寝室に入るなり夫からそう告げられたセルマが呆然としたのは一瞬のことだった。
セルマは、没落貴族の娘だ。子どもの頃、事故により両親を失ったセルマは、叔父夫妻のもとに引き取られた。だがその家で愛されるのは従妹だけで、転がり込んできたセルマは厄介者扱いされた。
でも、自分は世話になる身なのだからしょうがない、と理解していた。
父から爵位を引き継いだ叔父が放蕩の限りを尽くして金庫を空にしても、従妹の結婚費用を稼ぐために三十も年の離れた女好きの金持ちのもとに嫁げと言われても、仕方ないと受け入れた。
……そんなセルマだが、急遽結婚相手が変わった。脂ぎった中年オヤジの代わりにセルマを受け入れると申し出たのは、救国の英雄と呼ばれるノアだった。
出自不明の流浪の剣士であるノアは今から約八年前に、悪辣な王に支配されるこの国にふらりと現れた。そして圧倒的な剣技と人を惹き付けるカリスマをもって革命軍を立ち上げ、見事去年に国王や王太子を斃した。
彼は国民から敬愛されていた王弟を即位させると、王国の平定に尽力した。
腐りきっていた王国上位層を粛正して新たな国会制度を打ち立て、騎士団制度も刷新させた。そして名もない平民から英雄へと上り詰めた彼は現在、前線を退いて多くの土地と荘園を経営する大貴族になっていた。
そんな、救国の英雄と呼ばれる二十四歳の俊英であるノアはこたび、なぜか親戚から虐げられたみすぼらしいセルマを妻にと望んだ。
最初は不思議そうな顔をしていた叔父夫妻も、ノアから提示された支度金の額を見るなり目の色を変え、どうぞどうぞとセルマを差し出したのだった。
結婚式は行わず、セルマはノアの屋敷に連れて行かれて即日彼の妻となった。
このとき初めて顔を合わせたノアは身長が高くてがっしりとした体をもつ美丈夫で、焦げ茶色のさらさらの前髪の下から鋭い青色の眼光が覗き、セルマを睥睨していた。
そのときからなんとなく事情を察していたので、閨で夫からとんでもない発言をされたセルマもすぐに、ああそういうことかと納得した。
「この婚姻は、ノア様にとって本望ではなかったのですね」
セルマが問いかけると、ノアは眉間に皺を寄せた。
「……俺には、何としても守らねばならない人がいる。それは、おまえではない。俺は、おまえに不自由のない生活を送らせることを約束する。その代わりに、俺のすることに一切口出しをするな。俺に触れたりもするな」
(……なるほど、なるほど)
愛想のかけらもない夫の言葉だが、聞けば聞くほどセルマは納得するばかりだった。
……そういえば、ノアはもともと新国王の娘である王女と結婚するのではという噂が立っていた。
おそらくノアの言う『何としても守らねばならない人』は王女のことで、なんらかの理由で王女と結婚できなくなったノアは愛する人のために操を立てているのだろう。
そう思えば、没落貴族の娘であるセルマを妻に望んだ理由も察せられた。セルマは、お飾りの妻。
親戚から冷遇されて崖っぷちに立たされ、ノアの命令に従わざるを得ない都合のいいセルマを妻にすることで、ノアは王女との叶わぬ恋を昇華できるし、自由に過ごせる。
とても合理的な、契約結婚だ。
なぜ自分のような女が、と悩んでいたセルマだったが、理由がわかったので一気にすっきりして、ノアに微笑みかけた。
「そういうことなのですね。とても納得がいきました」
「理解が早くて助かる。……まずはこれに、サインを」
「離婚届ですね」
近くのテーブルに置いていた書類を差し出されて、セルマは目を丸くした。それは、つい半日前に教会で書いた結婚届と対をなす離婚届だった。
「俺はいつでも、おまえと離縁できる。おまえはそのことを重々承知の上で、この屋敷での振る舞い方を考えろ」
「了解しました、旦那様」
「俺のことは、ご主人様と呼べ」
「わかりました、ご主人様」
ペンを渡されたセルマは従順に、離婚届にサインをする。すぐさまノアもそれに自分の名前を書き込み、文面をじっくり確認してから折り畳んで懐に入れた。
そうして振り向きもせずに寝室を出ていった夫の大きな背中を見て……あら、とセルマは首を傾げた。
「この大きなベッドを、使わせてもらえるのね」
てっきり「ソファで休め」とでも言われると思ったのでセルマは拍子抜けしながらも、では、とふかふかのベッドに寝転がった。
十二歳のときに両親を亡くして、八年。
泣いても仕方がない、己の不幸を恨んでもどうしようもない、と割り切るようになった二十歳のセルマはいい意味で図太くたくましく、その日はふかふかのベッドに数年ぶりに横になりぐっすりと眠ったのだった。
* * *
翌日からセルマは屋敷の女主人になったが、やることは特にない。
「ご主人様から、奥様には何もさせるな、と言われております」
既に夫が仕事のために出発した後の朝食の席で執事にそう言われたので、セルマは微笑んだ。
「わかったわ。ご主人様は私と顔を合わせるのもお嫌らしいから、ドレスのお礼を言ってもらえるかしら」
「かしこまりました」
執事に言ったように、今のセルマはお下がりのぼろぼろドレスではなくて新しいドレスを着ている。流行最先端のものではないにしろ肌触りがよくて新品なので、セルマとしては十分すぎるくらいだ。
結婚したにもかかわらず、ノアはちっとも屋敷に帰ってこなかった。帰ってきても、セルマが寝ている深夜に帰宅して早朝には出ていってしまう。
執事曰く、ノアは毎日領地を回って作物の出来を見たり、領民から不満の声が上がっていないか、困っていることがないかなど確認して回ったりしているそうだ。
(十分すぎるくらい立派な領主様だわ)
結婚後放置されっぱなしのセルマだが、夫の仕事ぶりには感心していたし尊敬していた。
妻に対して非常に冷たいノアだが、領民からは慕われているようだし国王からも信頼されている。彼の手腕で荘園はぐんぐん成長しているようなので、非の打ち所のない領主だった。
……とはいえ、彼の厳しさは使用人たちにも向けられているそうだ。
執事曰く、ノアはこれまでの戦いで一太刀たりと浴びることはなかったそうだ。どんな敵でもノアの体に傷を与えることはできず、彼も自分の体に傷をつけられることをひどく警戒していたという。
どうやら以前、若いメイドがノアの身仕度を手伝う際に失敗して、彼の腕を針の先で軽く引っ掻いてしまったそうだ。その瞬間、基本的に物静かなノアだというのに激昂してメイドを叱責し、「次にやったら命はないと思え」と言ったという。
それ以降、ノアは身仕度を他人に任せるのをやめて自分で行うようになったという。とはいえ、彼が使用人を叱ったのはその一度きりでその他の失態には非常に寛大なため、使用人たちは主との距離感にこそ気をつけているものの、基本的に楽しく仕事をしているそうだ。
(不思議な人ね)
他人に対して冷たいが、暴力的ではない。
自分の体に傷をつけられたり自分の行動を制限されたりすることには怒るが、それ以外で機嫌を損ねることはない。
領民に対しては慈悲深く、多くの者から理想の領主様だと慕われている。
だから、だろうか。
結婚して何ヶ月経っても触れるどころか顔を見せることさえ稀な夫なのに、嫌いにはなれなかった。
むしろ、脂ぎったオヤジに嫁がされるより今の方がずっと幸せなのだろう、とさえ思っていた。
* * *
セルマがノアのもとに嫁いで、半年ほど経ったある日の夜。
「いるか」
夜、もうすぐ寝ようと思ったところに寝室のドアが叩かれたため、セルマは驚いた。
この声は、結婚初夜に聞いたきりのノアの声だった。
「ご、ご主人様ですか。はい、おります」
「入る」
無遠慮に寝室に入ってきたノアは寝仕度が完了した薄い寝間着姿のセルマをしばし、じっと見てきた。
(……何かしら?)
「ご主人様?」
「……いや、なんでもない。……セルマ」
「はい」
「……なんでもない」
いや、なんでもないことはないだろう。
そう言いたかったがぐっと堪えたセルマをノアはしばらく見続けてから、きびすを返した。
「あっ……」
思わず呼び止めそうになったが、無情にもドアは閉まってしまった。
(……なんだったのかしら?)
足音が遠のくのを聞きながら、はてとセルマは首を傾げる。
閨のお誘いに来たとはかけらも思っていなかったが、それにしても先ほどの夫の行動の理由がわからない。
(……まあ、私が知る必要もないわよね)
セルマはそう自分に言い聞かせて、ベッドに入った。
……それにしても、先ほどのノアはなんだか少しだけ悲しそうな顔をしていたな、と思いながら。
* * *
セルマの朝は、早い。
伯爵夫人として何もしない生活を送るようになったものの、叔父夫妻のもとで虐げられていた日々のせいで早起き習慣が身についたセルマだったが――
「……うわぁーーーーっ!?」
「はっ!?」
早起きなセルマをたたき起こすほどの絶叫が上がったため、まだ早朝だというのにセルマは覚醒した。
(今の悲鳴は……!?)
ノアの声に似ていなくもないが、あのノアが「うわぁ」なんて悲鳴を上げる姿が想像できない。
使用人の少年が害虫でも踏んづけたのだろうか、と思って二度寝しようと思ったセルマだったが。
「……だ、誰かここにいないか!?」
セルマの部屋のドアがゴンゴンとノックされたため、起きざるを得なくなった。
(やっぱりこの声、ご主人様だわ……)
ノアはどうやらセルマの寝室の少し離れたところで寝ているらしいから、彼が起き抜けにやってきてもおかしくない……が、どうにも様子がおかしい。
「ご主人様?」
ベッドから下りて恐る恐るドアを開けたセルマは、きょとんとしてしまった。
目の前には案の定、ノアがいた。寝間着の上が脱げかけているのでたくましい筋肉が露わになっていて、かなり目の毒だ。
だがノアの方は寝癖まみれの焦げ茶色の髪を振り乱し、青色の目を困惑に染めていた。
彼はセルマを見て、そしてなぜかはっと息を呑んだ。
「……わっ。き、きれいな人……」
「……はい?」
「あっ、そうじゃなかった! ……あ、あの。ここって、どこですか? 僕、なんでここにいるんですか?」
冷酷無慈悲なご主人様と同一人物とは思えない、おどおどした様子で問うてくるノアに――
「……ご主人様が、おかしくなってしまわれた……!」
セルマもまた、大混乱に陥ったのだった。
急ぎ駆けつけてきた執事たちに連れられて、ノアは別室に向かった。
そうしてしばらく問答をした結果――
「記憶喪失?」
「……としか申しようがございません」
そう言う執事は、困惑の表情だ。
ノアは目が覚めると、記憶を失っていた。これまでの、妻に対して傲岸不遜だったノアはどこかに行ってしまい、今のノアは見知らぬ場所に放り込まれてひたすらおどおどしているという。
「ここ数年間のことは何も覚えていらっしゃらず、ご自分の名前がノアであること以外、はっきりと思い出せないそうです。そして、今のご自分を十六歳ほどの少年だと思っていらっしゃるようで」
「……そんなことが」
セルマは絶句した。
つまり今のノアは八年間ほどの記憶を失い、今の状況も自分のことも何もわからない十六歳の少年になってしまったのだ。それは、混乱しても仕方がないだろう。
(どうしてこうなったのかはわからないけれど……おかわいそうに)
「あの、私が様子を見に行っても大丈夫かしら?」
セルマが遠慮しつつ申し出ると、執事は「そうですな」と顎を撫でた。
「奥様がご自分の奥方であることは説明しましたが、いまいち納得がいっていないようで。ですが今のご主人様にとっては私も奥様も、見知らぬ他人です。誰が話をしても変わりはないかと」
「わかったわ。行ってみるわね」
そういうことでセルマはどきどきしつつ、ノアの部屋に向かった。「おいしいものを食べれば、気分も落ち着くでしょう」と、メイドに渡されたティーセットと一緒に。
「失礼します、ご主人様。セルマです」
「えっ……あ、はい。どうぞ、入ってください」
中からは、とても遠慮がちな返事があった。
ティーセットの載ったワゴンを押してセルマが部屋に入ると、大きな体を縮めてソファに座るノアの姿があった。昨夜は真意の読めない目でじっとセルマを見てきた男が、今はセルマを見て恥ずかしそうにうつむいている。
「あ、あの。あなたが僕の奥さんだそうですね」
「はい、半年前に結婚したセルマでございます」
「本当に、そうなんだ……。ごめんなさい。僕、自分のこともあなたのことも何も覚えていなくて」
セルマがソファに座ると、ノアは泣きそうな顔でそう言った。
図体の大きな厳つい男がするにはあまりにもちぐはぐな表情だが、今の彼は十六歳の少年なのだとセルマは自分に言い聞かせ、せめて大人の余裕を見せようと微笑んだ。
「はい、そのように伺っていますが、私に対してかしこまる必要はありませんよ」
「でも……こんなにきれいなお姉さんと結婚しているなんて、本当に信じられないんです……」
(き、きれいなお姉さん……)
もじもじしながらノアが言うので、セルマまで恥ずかしくなってきた。なるほど、十六歳の今のノアからすると二十歳のセルマは「きれいなお姉さん」になるようだ。
(ということは前のご主人様も、私のことをきれいだと……いや、それはないわね)
なんといってもノアの想い人は、絶世の美女と名高い王女だ。今のノアは記憶喪失で、初めて見た女性であるセルマに緊張しているだけだ。本気に受け取ってはならない。
「ご主人様はさぞ混乱なさっているでしょうが、私のことを妻として扱う必要はございません」
「ご、ご主人様? 僕は奥さんに、そんな呼び方をさせていたんですか?」
理解できない、とばかりに絶句するノアは本当に少年のようで、セルマはくすっと笑った。
そして、お茶とお菓子を摘まみながら彼に、これまでの出来事を語って聞かせた。
「そういうことですので、私はあなたのお飾りの妻なのです。結婚してこのかた、触れあったことは一度もございません」
「……そんなの、信じられないな。前の僕は、あなたみたいなきれいな人にそんなひどい扱いをしていたのか」
「あの、ですから私は特別美人ではなくて、前のご主人様は王女殿下に恋を――」
「やめてください、ご主人様なんて……まるで隷属関係みたいじゃないですか」
ノアが悲しそうな顔で言い、「それに」ときゅっと表情を引き締めた。
「王女殿下がどんな人なのかわからないけれど、セルマさんはとてもきれいです。前の僕は、とんでもない男です! こういうのを、甲斐性なしって言うんですよね!」
「そ、そうかしら……?」
「そうですよ! ……あの、セルマさん。僕、記憶がないから何もできないし、役にも立たないけど……でも、これをチャンスにできると思うんです!」
「チャンスとは?」
セルマが問うと、ノアは大きくうなずいた。
「僕の記憶がいつ戻るのか、わかりません。でも戻ったとしても、僕は絶対にセルマさんのことをひどく扱ったりしません! だからこれを、僕たちが仲よくなるチャンスにしたいんです!」
言っていることは少しとっちらかっているが、つまり彼は記憶を失い空っぽ状態になったことを悔やむのではなくて、ここからもう一度ノアという人間として歩みたいと思っているのだ。
(……この人は、記憶がなくなっても真っ直ぐなのね)
きっと記憶はなくても、セルマがノアのことを嫌いになれなかったよいところはしっかりと引き継がれているのだろう。
「……そういうことなら、わかりました。一緒に頑張りましょう、ご主――」
「ノアと呼んでください!」
「……ノア。私のことも、セルマと呼んでくださいな」
「……わ、わかりました、セルマ」
自分の呼び名については鼻息が荒かったノアだが、セルマの名前を呼ぶときは照れて微笑み――その顔が素敵だな、とセルマはこっそり思ったのだった。
* * *
記憶を失ったノアだが、彼が生活に困ることは案外なかった。
彼は剣術の能力も忘れているようだが、今のノアは剣士としての第一線を離れて領地開発を行っていた。それにその経営も優秀な部下たちに任せていたので、ノアが仕事関連で困ることは何もなかった。
そして以前よりずっと穏やかになったノアは、セルマと過ごすことを望んでくれた。
体は二十四歳だが心は十六歳の彼はセルマのことを年上の妻として丁寧に優しく接し、一緒に本を読んだり庭を散策したり勉強したりと、二人で行動することが多くなった。
セルマは、そんな日々を心地よいと感じていた。
前のノアは冷酷でよくわからない人だったが、今のノアは喜怒哀楽の感情表現が豊かで、好奇心旺盛。
体は大きいもののまるで弟の面倒を見ているかのようで、「誰かの世話を焼く」ことの楽しさを知ったセルマは、ノアと過ごす時間が楽しくて仕方がなかった。
執事たちに、「旦那様と奥様は、まるでご姉弟のようですね」なんて言いつつ見守られながら、二人は静かに、確実に絆を深めていった。
* * *
ノアが記憶喪失になって半年経っても、彼の記憶が戻る気配なかった。
だが彼は半年間で様々なものを吸収し、今では領主としてできることならなんでも挑戦しようと、部下たちに教えを請うたり慣れないながらに領地視察をしたりと、非常に前向きに物事に取り組んでいた。
……そんな日々の中で、セルマはノアについていくつか疑問に思うことがあった。
たとえば、かつての彼は香辛料を利かせた味の濃い料理を好んでいたそうなのに、今の彼は薄味で質素な料理を好むこと。
たとえば、剣術はほぼ全て忘れているのに、畑を耕したり山積みの芋の中から腐ったものを的確に探し出したりというのは非常に得意なこと。
たとえば、領地視察中に村人たちを見つめるときのノアが、寂しそうな懐かしそうな目をすること。
「……もしかしたら僕、記憶喪失じゃないのかもしれない」
ノアがそんなことを言ったのは、セルマとノアの結婚記念日からしばらく経った頃のことだった。
共寝こそしないものの二人は夜までおしゃべりをして、それからそれぞれの寝室に行っている。今日もホットミルクを飲みながらとりとめもない話をしていたとき、ふとノアが口にしたのだ。
「僕、田舎の風景とか畑とかを見ていると、すごく落ち着くんだ。だからもしかしたら僕は、ノアという人に乗り移っちゃった村人なのかもしれない」
「そんなことがあるの?」
セルマは問いつつも、ノアの言うことは一理あると思っていた。
記憶喪失にしては、かつてのノアと今のノアには違いがありすぎる。それは……まるで、別人であるかのようだと日々思っていたのだ。
ノアは肩をすくめて、空になったカップをテーブルに置いた。
「なんかほら、昔は魔術師ってのがいたらしいでしょ。だから僕はもしかすると本当は村人で、魔術でノアの体に乗り移ったって説もあるかもしれないよ」
「……でも魔術師なんて、今は絶滅したはずよ」
昔は不思議な術を操る魔術師がいたそうだが、子どもが生まれにくいこともあって自然と消滅したそうだ。
それに、もし魔術師が今の世に生きていたとしても、村人の魂を救国の英雄の体に移す理由がわからない。それに、もしそうだとして押し出された本当のノアの魂はどこに行ったのか。
セルマが疑問点を述べると、ノアは「それもそうだね」と微笑んだ。
「それにもしそうだったら、本当のノアに申し訳ないよね。救国の英雄が一夜にして役立たずの小僧になったなんて、ノアが聞いたら怒るに決まっている」
「……そう、かしら。私にはあの人の気持ちは、わからないわ」
セルマは正直に言って、隣に座るノアの手にそっと触れた。
結婚初夜に、「俺に触れたりもするな」と言われた、ノアの手。
でも今は手を握り合ったりぴったりくっついて座ったりするので、セルマは彼の体のたくましさや温かさをよく知っていた。
「少なくとも私は、今のあなたと過ごす日々を楽しいと思っているわ」
「セルマ……」
「私……あなたが、好きよ」
思い切った、セルマの告白。
もしかすると、ホットミルクに少量入れていたウイスキーのせいで気が大きくなったのかもしれない。
セルマは、ノアが好きだ。今の、優しくて頑張り屋な夫のことが、好きだ。
過去のノアのことは、決して嫌いではない。だがあの冷えきった夫婦生活で愛を育めるはずもなかった。
セルマは、今のノアと過ごす日々を楽しい、幸せだと思っている。
セルマの告白に、ノアが目を丸くした。じわじわと彼の顔が赤くなっているのは、ウイスキーのせいではないだろう。
「えっ? あ、そ、それは……あの、僕のことが?」
「そう、あなたよ」
「……。……いつ、もとに戻るかわからないのに? 半年前と同じように、明日目が覚めたときの僕が突然、かつてのノアに戻っていたとしても……?」
「それはとても寂しいけれど、私が好きになったのは目の前にいるあなたよ、ノア」
驚き戸惑っているノアに、セルマは根気強く愛を伝える。
いつ、かつてのノアの自我が戻ってくるかわからない。戻ってきたとき、「よくも俺の体に触れたな!」とノアが激昂して、セルマを叩き出すかもしれない。
それでも。
心優しく少し不器用で、それでいて優しいノアに、セルマの気持ちを伝えたかった。
そして叶うことなら……ノアの気持ちも、知りたかった。
セルマがじっと見つめていると、ノアは顔を限界まで赤くしてうつむき――そして、うううっとうなり声を上げた。
「ずるい、ずるいよ、セルマ――!」
「ごめんなさい、迷惑だった!?」
「違うっ! 僕も、君のことが好きだ! 大好きなんだよ!」
弾かれたように顔を上げたノアは裏返った声で告白するなり、セルマに抱きついてきた。
大きな体を縮めてセルマに抱きつくノアの体は、びっくりするほど熱い。
「セルマ、セルマ。もし、僕がいなくなっても……それでも、僕のことを好きでいてくれる?」
「もちろんよ。私が愛したのは、あなたなのだから」
愛を愛で返してもらえたセルマはほっと息を吐き出し、夫の背中をそっと撫でた。
「……ありがとう、ノア。あなたが何者でも、どんなことがあったとしても……あなたを愛しているわ」
「……セルマ。ありがとう……」
そう言うノアの声は、震えている。
泣きたいのだろうが、彼にとって「年上のきれいな奥さん」であるセルマの前で涙を流すのは恥ずかしいのだろう。
だからセルマは今の格好のまま、ノアの背中を優しく撫で続けていたのだった。
* * *
ノアが記憶喪失になって、一年経った。
「……へえ。セルマの叔父さんたち、王都から出ていったんだね」
「ええ。やめた方がいいと言ってはいたのだけれど賭博を続けていて……それで首が回らなくなったそうなの」
ある日の朝、ノアと一緒に朝食を取っているときの話題は、セルマの叔父一家のことだった。
かつてのノアから多額の支度金を受け取ったものの、それをあっという間に使い果たしたどうしようもない叔父たちの悪運も、とうとう尽きたようだ。
赤字続きで従妹の結婚先も見つからず、借金取りに追い回された彼らは先日、恥を忍んでセルマに支援を求める手紙を書いたようだ――が、それをノアがいい笑顔で握りつぶした。
叔父たちはとうとう住む家を失い、夜逃げ同然で王都を出ていったという。
それを聞いたノアは、顔をしかめた。
「ふん、僕の奥さんにひどいことをしたんだから、当然の報いだな」
「ノアったら……」
「そういえば……かつての僕が懸想していたっていう王女様も、もうすぐどこかに嫁ぐそうだね」
かつてのノアが叶わぬ想いを寄せていたのではないかという王女だが、彼女は隣国に嫁ぐことになった。
セルマはノアの関心が王女に向くのではとやきもきしていたのだが、先日パレードの際に王女を見たノアは「美人だけど、僕にはセルマが一番だよ」と即答していた。
前のノアには悪いが、王女はもうじきこの国からいなくなる。一年半前、結婚した際にノアから言われたあれこれについては、自然と片付いていったようだ。
「そうね。……ノアの記憶も、戻る気配はないし」
「もう戻らなくていいよ。僕は今の生活を楽しんでいるのだから」
ノアは微笑み、向かいの席のセルマを愛おしそうに見つめてきた。
「セルマ、大好きだよ。ずっと、あなたのことを愛している」
「も、もう。朝ご飯の途中になにを言っているのよ」
「いつでも何度でも言いたいんだよ。……そうだ、今日の午後からセルマも一緒に視察に行けるんだよね? 視察先でも、僕のきれいな奥さんを自慢したいな」
「ほどほどにしてね……」
セルマが呆れたように言うと、ノアは「わかった、ほどほどにするよ」ととてもいい笑顔で微笑んだのだった。
昼食の後で、セルマとノアは馬車に乗って王都を出発し、荘園に視察に向かった。
かつてのノアは領地を得てからというもの、驚くべき速さで土地を広げていった。今では王国中のあちこちに領地をもっており、王都から馬車で一時間ほどの地域も荘園として抱えていた。
「いい天気だね。遠くまで見渡せるよ」
「ノアは王都より、こういう場所の方が好きよね」
「うん。懐かしい気持ちになれるんだ」
セルマの手を引いて馬車から降りたノアは、セルマの腰を抱いて微笑んだ。
ノアは記憶喪失になったのか、はたまた魔術により農民の魂がノアに入り込んだのか。
そのことについて、もうどちらでもいいとセルマもノアも思っていた。
わからないことで悩むより、今を二人で楽しみたい。そう願っていたからだ。
セルマとノアは寄り添いながら、豊かな畑を見て回った。領民たちは「領主様だ!」「奥様もご一緒だ!」と仕事の手を止めて、手を振ったり声をかけてきたりする。
最初のうちは領民たちを前にまごついていたノアも、一年間で必死に勉強したおかげで今ではそつなく対応ができ、今年の収穫量や苗の買い付けなどについて熱心に議論するほどになった。
(ノアが生き生きとしていて、よかったわ)
領民たちと熱く話をするノアを、少し離れたところから見守っていたセルマは温かい気持ちに浸っていた――のだが。
「……誰かっ! 納屋から火が出た!」
平和な空気を裂いて飛んできたのは、誰かの悲鳴。見れば、丘の向こうにある納屋の屋根からぶすぶすと黒い煙が上がっていた。
(放火……!? いえ、あれは自然発火ね)
おそらく、乾燥している藁などがこすれることで点火してしまったのだろう。村人たちが慌てて水を汲みに行ったり、消火のための砂を集めたりし始める。
こういうのは、慣れた者に任せた方がいいだろう。
そう思って、セルマはノアのもとに向かったのだが――
「うっ……」
「ノ、ノア?」
その場に棒立ちになって納屋の方を見ていたノアが、低くうめいた。そのままゆっくりとしゃがみ込んだ彼は、苦しそうな悲鳴を上げている。
「ぐっ……!? 火、火が……燃えて……」
「どうしたの!? くっ……こっちに来て!」
出火騒ぎで忙しくしている村人たちを煩わせてはならないと思い、セルマは夫の腕を引っ張った。だがノアの大きな体はその場にしゃがみ込んだままびくともしない。
「僕はっ……ああ、母さん……! 父さん、だめだ、そっちは……!」
「ノア、ノア!」
「うっ……ああああっ!」
頭を抱えてうめいていたノアは絶叫を上げ、その場に倒れてしまった。
納屋の出火騒ぎに、領主の気絶。
大混乱の一日だったがセルマはなんとか、ノアを連れて王都に戻ってくることができた。
とはいえ馬車の中でもノアはずっと気絶していて、駆けつけた医師たちが担架で屋敷まで運んでいった。セルマはその間もずっと夫の手を握っていたのだが、精悍な顔をぎゅっとしかめたノアは意味を成さない言葉を呟くことしかできなかった。
(ノア、どうかしっかりして……!)
夫を医師に預け、セルマはノアが心配で食事も喉を通らなくなりながら彼の無事を祈り――そして夜が明けてようやく、ノアが目を覚ましたと執事が教えてくれた。
「ノア!」
「セルマ……」
寝室に飛び込んだセルマを、ベッドから上半身を起こした状態のノアが迎えてくれた。少なくとも体を起こせるだけの元気はあるようなので、セルマは安堵で泣きたくなった。
「ああっ、よかった! ノア、あなた、いきなりうめいて倒れたのよ!」
「……ごめん、セルマ。僕……」
ノアはセルマの手をぎゅっと握り、何かに堪えるかのように顔をしかめ――そして、意を決したように顔を上げた。
「セルマ。僕、全部思い出したんだ」
「えっ……?」
「納屋についた火を見て……思い出した。セルマ、どうか聞いてくれないか?」
ノアに真剣な目で尋ねられて、セルマは戸惑った。
(思い出した? それって……)
どくん、どくん、と心臓が不安を訴えるが、セルマは決意してうなずいた。
「……ええ。いくらでも聞くわ。あなたのことを、教えてちょうだい」
セルマがベッドサイドの椅子に腰掛けるとノアは目を伏せ、セルマの手をしっかり握ってから口を開いた。
※ ※ ※
ノアは、王国の僻地にある小さな村で生まれ育った。村は貧しいが人々たちは優しく、ノアは両親と一緒に畑を耕して過ごして暮らしていた。
だがノアが十六歳のある日、国の軍隊が押し寄せてきた。貧しい村では決められた額の税を献上できなかったため、見せしめのために兵士たちは村に火を放った。
木造の家屋が次々に燃え落ちていく中、ノアは両親を連れて逃げようとした。
だがその途中で父親が妻子を守るために燃え落ちてきた家屋の下敷きになり、母親も倒れた木に足を押しつぶされた。
母親は、必死に木を起こそうとする息子に、逃げなさい、あなただけでも生きなさい、と命じた。
ノアはそれでも母を助けようと両手を火傷しながらも頑張ったが――母が必死に「生きて!」と叫ぶので涙を堪え、母に背を向けて走り出した。
自分は、無力だ。
兵士たちと戦う力も、両親を助ける能力もない。
皆を見捨てて逃げることしかできない自分が憎らしくてたまらなかった。
そうして火災と兵士たちから逃げたノアは山に入り――そこで、負傷した剣士を見かけた。
年齢は、二十代前半くらいだろうか。がっしりとした体をもつ精悍な男性だが、その下半身は血にまみれているし、傍らに置かれた剣の刃は真っ二つに折れていた。
彼はぎょっとするノアを見て、にやりと笑った。
『おまえ、近所のガキか』
『……ぼ、僕は』
『言わなくていい、だいたいわかる。……ここからも、近くの村に火が放たれるのが見えた。王国軍のやつらにやられたのか』
剣士が淡々と言うので、とうとうノアは我慢ならずその場で声を上げて泣いた。
泣きながら、父に生かしてもらったこと、母を助けられなかったこと、弱い自分が嫌いで仕方がないことを告白した。
剣士は黙ってノアの懺悔を聞き、そして『なあ』と静かに呼びかけた。
『俺もおまえと似たような境遇で、王国軍に復讐して生きてきたんだが……見てのとおり、このざまだ。もう、長くはないだろう』
『……』
『なあ、坊主。おまえは、王国軍が憎いか?』
剣士に問われたノアは迷うことなく、うなずいた。
『当たり前だ! あんなにたくさんの税を求めてきて、無理だってわかったら火をつけて……みんなを殺して……許せない!』
『だったら、取り引きをしないか?』
剣士はそう言って、右手を持ち上げた。その手のひらからぶわっと黒い光が溢れたため、ノアはぎょっとした。
『な、何だ!?』
『俺は剣士だが、魔術師の末裔でもある。……坊主、おまえの体を、俺に貸してくれないか』
『体を、貸す……?』
『見たところ、おまえは健康そうだし鍛えられそうだ。そして俺は、剣術だけには自信がある。……俺の体はもうぼろぼろだから、おまえの体を貸してほしい。その代わりに、俺は必ずおまえの家族の仇を討つ』
そう言う剣士の目には、強い光が灯っていた。
ノアはごくりとつばを呑み……剣士に、近づいた。
『本当に? 本当に、あいつらをやっつけてくれるのか?』
『約束する。もう、おまえのような坊主を生み出さない国にする。おまえの体を傷つけることなく、おまえの無念を果たしてやる。……ただ、一体何年間おまえの体を借りるのかはわからないし、返した後にどうなるのかも……』
『わかった、貸す! だからおじさん、みんなの仇を――!』
『……おじさんじゃなくて、俺の名前は――』
そこで剣士は自分の名前をノアに告げ、そしてノアの手を握った。
『交渉成立だ。……少しの間、寝ていてくれ。大丈夫、約束は必ず守る』
『……ほん、とうに……?』
なんだかだんだん眠くなってきたノアの耳に、剣士が『ああ』と言う声が届く。
『後は任せてくれ、坊主』
『……ぼくは、ノアだ……』
『わかったよ、ノア。……すまないな』
剣士の声を最後に、ノアの意識はぷっつりと途絶えた。
※ ※ ※
「……そうして気がついたら、僕はこのベッドに寝ていた」
ノアはそう言って、苦く笑った。
「……僕も、納得がいったよ。僕はこれまでの八年間、ずっとあの人に体を譲っていた。そして……あの人は、僕との約束を守ってくれたんだ」
「……そんな、ことが……」
ノアの話を聞いたセルマだが、にわかには信じられなかった。
(つまり、ノアは記憶喪失になったのでも憑依したのでもない。もともとノアは優しい村人で、その剣士がノアの体を借りていた――)
あの冷酷なノアは、剣士だった。
彼はノアとの約束を守り、ノアの体を使って王国軍と戦った。
……いや、彼はただ単に仇討ちの約束を守っただけではない。
ノアは激しい戦いの中でも、一太刀たりとも浴びることがなかった。そして彼を引っ掻いてしまったメイドを、叱責した。
ノアは国を救った後、剣士の役目を終えた。領地を広げ、多くの荘園を抱えた。
――それらは全て、ノアのためだったのだ。
かつて自分を信じて体を貸してくれた少年に報いるために、彼の体をきれいなままで返すために、働かなくても自然とお金が入ってくるようにするために。
(そういう、ことだったの……?)
あの冷たい眼差しのノア――剣士の抱えていた秘密が、今やっとわかった。
「……失礼します、旦那様、奥様」
二人がそれぞれ思案を巡らしていると、ドアがノックされた。そうして入ってきた執事は、宝石飾りの箱を手にしていた。
「旦那様。どうかこちらの箱をお受け取りください」
「……これは?」
「……これはかつて、『ご主人様』より預かっていたものでございます」
執事は箱をノアに渡して、苦く笑った。
「『ご主人様』は、『時が来たら渡してくれ』とおっしゃいました。そのときは、なんのことかわからなかったのですが……もしかすると、今の旦那様ならおわかりになるのではないかと」
「時が、来たら……」
ノアは、手元の箱に視線を落とした。セルマも隣から覗き込んでみたそれには、鍵穴らしきものはない。
「開きそう?」
「開かないな。……でも、何か書いている」
ノアは箱を目線の高さに持ち上げて、底に刻まれた文字を読んだ。
『我が名を呼べ』
セルマとノアは沈黙し……そしてノアが、目を伏せた。
「……これはきっと、あの人が僕に残したものだな」
「それじゃあ、『我が名』というのは――」
「……。……ジラルド」
ノアがどこか厳かにそう呟いた瞬間、カチンと箱の中で音がした。
ジラルド――この箱を封印した剣士の名を呼ばれたことで、魔術が解除されたのだ。
ノアはそっと蓋を開き、そしてそこからいくつかの紙を取り出した。
「……手紙?」
「これは、僕に宛てたもののようだ」
ノアは緊張する声で言い、そっと手紙を開いた。
ーーーーーーーーーーー
これを坊主が読んでいるということは、おまえは無事に自分の体に帰ってきたのだろう。
ノア、おまえには感謝しても足りない。
おまえのおかげで、俺は憎き王国軍を倒せた。おまえと出会った森の中で、無念のうちに死なずに済んだ。
だが、おまえの若い体を奪ってしまったことを、申し訳なく思う。
俺は、おまえにできる限り幸せに生きてほしいと思っている。いつ、おまえに体を返すかわからないから、俺の意識がある限りできることをなんでもやってきた。
それでも不自由があれば、申し訳ない。
ありがとう、ノア。
おまえは、勇敢な少年だ。
おまえの父親も母親も村の仲間たちも、おまえの勇気を称えているだろう。
どうか、幸せに。
ジラルドより
ーーーーーーーーーーー
セルマは、ノアが見せてくれた手紙を一緒に読んだ。
(あの人は、本当に……)
冷たい眼差しをしたかつてのノア――ジラルドには、熱い思いがあった。
自分を信じてくれたノアに報いようという強い気持ちがあったのだ。
(それなのに、私は……)
「……ん? これはセルマ宛てみたいだ」
「えっ」
ノアが、別の手紙を見せてきた。それには確かに、「セルマへ」と書かれている。
夫から手紙を受け取ったセルマは、しばし沈黙する。
「……」
「部屋で読む?」
「いえ、あなたも一緒に見てください」
そうしてセルマは、震える指先で手紙を開いた。
ーーーーーーーーーーー
俺はおまえに、申し訳ないことをした。
俺はいずれこの体を、ノアに返さなければならない。だが新国王がどうしてもと、俺と王女との縁談を勧めてきた。
王女と婚姻すれば、逃げることはできない。俺は、ノアを縛り付けることだけはしたくない。
だから、おまえを選んだ。
親戚から冷遇されているというおまえなら、従順に俺の命令を聞くと思ったからだ。せめて国王と王女が俺を諦めるまで、おまえに盾になってもらおうと思った。
俺の都合で振り回して、申し訳なかった。
それでも俺は、ノアだけは裏切れなかった。あいつのために、あとどれほど残されているかわからない俺の命を使わなければならなかった。
申し訳なかった、セルマ。
この箱の中に、離婚届を入れている。これの扱いは、おまえとノアに任せる。
俺のことを、ずっと恨んでくれていい。
だがどうか、ノアのことは許してやってくれ。
夫らしいことを何もできなくて、すまなかった。
幸せに、セルマ。
ーーーーーーーーーーー
(……なんで)
ぽたり、と涙のしずくが手紙に落ち、「幸せに」の部分がにじむ。
「あんなに、冷たかったのに……! あんなに、そっけなかったのに……!」
「セルマ……」
「どうして最後の最後で、こんなことを言うのよっ、あの人は……!」
泣きたい。泣きたいのに、同時に笑いたくもなってくる。
あの人――ジラルドは、どこまでも正直な男だった。
彼が『何としても守らねばならない人』と呼んだのは、ノアだった。かつて自分を信じてくれた少年に報いるために……王女との結婚を避けるために、ジラルドはセルマを選んだ。
お飾りの妻、ノアを守るちょうどいい盾にするために。
……だったらもっと、雑でもよかったのに。
ドレスを買い与えたり、セルマに不自由のない生活を送らせたりと、下手に優しさなんて見せなくてよかったのに。
『セルマ』
『なんでもない』
もしかしてあの夜、ジラルドは気づいていたのではないか。
もうすぐ、自分の意識は消えると。この体をノアに返すときが来たのだと。
だから最後に、セルマに会いに来たのではないか。
「……馬鹿な人だわ」
はぁっと息を吐き出したセルマは、箱の中に小さく折り畳んだ紙があるのに気づいて、また泣きそうになった。
ノアが拾い上げ、丁寧に広げたそれは――結婚した日の夜に二人で書いた、離婚届だった。
これを書かせたのは意地悪でもなんでもなく、不器用なジラルドにできる限りのセルマへの詫びの現れだったのかもしれない。
「セルマ……」
箱をベッドに置いたノアが、ぎゅっとセルマを抱きしめてきた。とく、とく、と彼が生きている証しの音が、セルマの胸にも響いてくる。
「僕、ジラルドのためにどうすればいいのか、わからない」
「……ええ、私もわからないわ」
「うん。……わからないから、これからも一緒にいよう」
ノアはセルマの瞳を見つめ、泣き笑いのように微笑んだ。
「僕と一緒に、答えを探してほしい。ジラルドが作ってくれた未来を、あなたと一緒に歩いていきたいんだ」
「ノア……」
「セルマ。……僕のことをまだ、好きでいてくれる?」
ノアが、そんなことを言うので。
「……当たり前でしょう! 愛しているわ、ノア!」
セルマは全力で夫にぶつかり、抱きしめ――そして静かに、唇を重ねた。
初めて味わう夫の唇からは、ほんの少しだけ塩辛い味がした。
* * *
ピチチ、と小鳥が頭上を飛んでいく。
「ここなの?」
「うん、ここだ」
青々と草木が茂る森の中を歩くこと、しばらく。ノアは足を止め、日よけの帽子を被ったセルマの手を引っ張った。
ここは、王国の僻地にある森の奥。
セルマとノアは、かつてノアが暮らしていた村の跡地を訪れ、そこに花を手向けてからこの森の奥――ノアとジラルドが出会った場所に足を運んだ。
開けた場所になっていた村の跡地と違い、ここはうっそうとした森の奥だ。ノアは、虫がいるし日にも焼けるからとセルマに遠慮していたが、セルマの方がどうしても一緒に行きたいとお願いしたのだ。
「ここで、ノアとあの人が会ったのね」
「うん。僕がこっちの方から来たら、そこにジラルドが座っていて……」
ノアが示す場所は、ツンツンとした草木が生い茂っている。多分、だが、ここにジラルドが眠っているのだろう。
だがその場所に近づいたノアが、「あっ」と声を上げた。
「これは、もしかして……」
「どうしたの?」
セルマもそちらに向かうと、ノアは草の中に手を差し込み、うんっと気合いの声を入れて何かを引き抜いた。
それは――
「剣……?」
「そうだ。これ、ジラルドの剣だ」
ノアが持つのは、すっかり刃が錆びて苔むした剣だった。刃は途中で折れており、ジラルドが王国軍と熾烈な戦いを繰り広げ――そして敗北したことがまざまざと伝わってくる。
二人は黙って剣を見つめ、やがてノアはそれを元の場所にさくっと刺した。そしてセルマはポシェットから、小さく折り畳んだ紙を出す。
「……これ、必要ないからあなたに渡しておくわ」
セルマはそう言って、傍らに控えていた従者からスコップを受け取ってそれで足下の土を少し掘り、紙――離婚届を埋めた。
「ジラルド。私たち、これからも一緒に生きていくわ。だから、ゆっくり眠っていてね」
「ありがとう、ジラルド。……僕たちは、幸せになる。どうか、見守ってくれ」
セルマとノアは寄り添いながら、錆びた剣に呼びかけた。
――大柄な男性が折れた剣を肩に担ぎ、豪快に笑っている幻が、見えた気がした。
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息子が生まれたとしたら、名前は確定だと思います。