Les noms du père (28)若しくは Les Non du Père(29)著者解題
──昔から対等な付き合いが苦手であった。相談出来る友達が居なかったから何もかも自己判断で社会の常識を知らなかった。法律を学ぼうと考えたのは必然であったのだろう。お陰で飛び越える恐怖や踏み躙る躊躇いを感じる事が無くなった。
帰り道、雨は止んでいた。お天気キャスターの悪運(1)が強くて恨めしい。俺の歩幅では一飛びに出来ない舗装の継ぎ目。濁った水溜まりが口を開けて待ち構えている。勇猛果敢に足を踏み入れる事も、賢く迂回する事も選べずに俺は汚水の前で立ち尽くした。誰かが橋を掛けてくれないか。掛けたとしても石橋では駄目だ。鉄筋コンクリートにしてしまいたくなる。水面に映るもう一人の俺は躊躇なく踏み出せるのだろうか。
家に帰ると真っ暗なリビングで点けっぱなしのテレビが機械的な笑い声を上げていた。冷蔵庫のドアを開けて中を見る。タッパーに入れられた米を取り出しフライパンで温めた。マイクロウェーブ(2)は身体に悪いらしい。薄っぺらい学園ドラマ(3)から新人男性アイドルの密着ドキュメントにチャンネルを切り替えた俺は、別の鍋に放り込んだレトルトカレーを掛けて黙々と食べる。画面の中の新人男性アイドルは養成学校時代に受けた性的トラウマを如何に克服したかを熱っぽく語っていた。
「ただいま」
食べ終えた皿を洗い、改正された学校教育法を調べていると母親が帰宅した。俺は玄関まで出迎える。愚痴を聞きながら渡されたビニール袋。たちまち薄暗い食卓は割引シール(4)で真っ赤に染まった。プラスチック製のフォーク(5)が音を立てずに落下した事に母親は気が付かなかった。
「学校どうだった?」
「別に」
実際、話すべき出来事は起きていない。全てが予定調和であった。
「へええ、新しい芸能中学校出来るんだって」
食卓に座っていた母親がテレビの画面を眺めながら呟いた。否、話し掛けてきたのか。俺は無言で頷くだけで画面は見なかった。少し興奮気味な母親曰く、次世代のアイドルや未来の名プロデューサーの育成を目的としてバブルプロダクションが設立するらしい。名称は虹色学園(6)。親の七光りみたいな名称だ。
「学業と同時にトップアイドルを目指すためのレッスンも受けられるんだって。行ってみる?」
冗談にしては酷い。俺が首を左右に振ると母親は苦笑いを浮かべながら言った。
「月(7)はあの人似だからやっぱ無理かぁ。そういえばあの人、元気にしているのかしら」
母親があの人と呼ぶのは決まって別居状態の父親の事だ。俺は父親とは面識が無かった。重婚制度の弊害だろう。これまでの母親の愚痴を総括すると、もう一人奥さんと、その間に設けた娘さんの3人で同棲しているらしいが、彼等の人となりを語る時は決まって重度のアルコールに侵されているので信憑性は薄い。ただ一度も父親の性格は貶す事無く、継母(8)と義姉の悪逆非道さを語るので多少は真実も混ざっているのだろう。
母親が風呂場に向かった後、俺はテレビの音量を下げた。散らかった食卓を片付けていると一際地味な茶色の封書を見付けた。手に取って裏返す。
「家庭裁判所?」
途端に封筒が重苦しい雰囲気を纏う。争い事とは無縁な生き方をしている筈だ。俺は勿論、母親も世間様に歯向う事などする筈が無い。では、もしかすると母親が俺に黙って何処かから金を借りたのか。俺は首を左右に振って思考を振り払う。いや、違う。それは無いだろう。これでも母親は人並み以上に稼いでくれている。仕事に対しては高い意識と情熱を抱いている事も知っているし、ヘタを打った時は分かり易いくらい落ち込む姿を何度も見てきた。
「じゃあ、なんだろう」
好奇心を理性で抑え込む。自己判断で捨てて良い広告とは違うのだ。開けるべきでは無いだろう。見なかった事にして風呂上がりの母親に手渡すのが最善だ。いや、しかし。どうせ直ぐに酒を飲んで寝る。やはり俺が中身を見て要約して伝えるべきだろう。理論武装した好奇心がか弱い猫(9)を無惨にも虐殺した。
開封して初めて父親の死を知った。猫に続けて父親も殺したのか。きっとそうに違いない。会った事が無いので特別な人物では無い。毎朝見ているお天気キャスターの男性アイドルの方が余程父親としての役割を果たしている。気にする事は無い。猫が死んだ。それだけだ。
***
「べつに死ぬほどのことじゃないのにねぇ。もうまったく」
「ホント、最期までめーわくだよね。ねぇ、ママ。これ夜までかかるの?わたし推しの配信見なくちゃいけないんだけど。あ、そうだ。このこと推しに言って慰めてもらお」
裁判所で擦れ違ったのは顔面の造形が美しいまだ若い女と化粧の濃い少女。継母を名乗った女は、葬式の案内を忘れていたと言ったが、そもそも葬式を上げている事すら疑わしい。しかし、遺産分割調停の申し立てだけは税務署の模範にも成るべき速度と正確さで抜かり無く届いていた。小汚い父親の死体に珠の様に美しい蛆虫(10)が湧いている。いつの間にかチークが塗りたくられたハゲワシ(11)も鋭い嘴を肉に突き立てている。腐肉を抉り出す生々しい音が耳に響く。引き千切って啄む度に死臭が呼吸と混ざり合った。
見目麗しい継母は初対面の俺を無視して話を進める。母親に対してはネチネチと言いがかりを付けて、父親が自殺した責任を転嫁していた。頓珍漢な理論でも美人が言えば案外正しそうに聞こえる(12)。継母はどうにかして取り分を増やしたいそうだ。又、父親にも批難の声を上げていた。それには母親も便乗していた。死屍に鞭打つ二人の女の言い草に頭の中の疑問は尽きなかった。
逃げる様に廊下へ飛び出た俺は、つまらなさそうな顔をした化粧の濃い少女を突き飛ばす。一切の躊躇無く少女の顔に蹴りを入れる。湧き上がったアルトラ(13)を解き放ちながら無我夢中で走った。息が上がった俺は実用的なデザインの階段を踏み外す。たちまち前後不覚となり踊り場まで落ちた。痛みに耐えながら目を開ける。汚れ一つ無い黒い革靴。俺は知らない小太りなおじさんを見上げていた。
「すみません。父とはどういったご関係だったんでしょうか?母曰く、自分は息子らしいのですが、実は今日父が死にまして、いえ、もっと前らしいのですが、兎に角、そんな事はどうでも良くて、父に対する興味は欠片も無いのですが生き様だけは少し知りたいので教えて頂けないでしょうか?」
何故か心の底から声が出た。父親を殺した好奇心の仕業であるなら次は俺の番かも知れない。現に階段から転がり落ちた。いや、違う。継母からのルドヴィコ式制裁を飛び降りによって打破したのだ(14)。そうまでしてでも誰かが父親の存在を継承すべきだと思った。でないと、余りにも虚しいではないか。目の前の小太りのおじさんは俺からの唐突の質問に対してまるで動揺する反応を見せない。ただ淡々と惨たらしい悲劇を語るのであった。
父親はとても気遣いが出来て性格も良く、所謂、誠実な人だった。お陰で早々と美人な妻達と結婚の話が進んだそうだ。その頃の父親は有頂天で鼻高々と美人な妻達を自慢に思っていた。と、同時に一生懸命に仕事に打ち込み、必死に家族を支えようと人一倍頑張っていた。だが、父親から妻達への愛は次第に一方通行になっていき、徐々に仕事に対する情熱も失われていった。
「―――いいかい。この国は『良い人』よりも『モテる男』の方が愛されるんだよ。君のお父さんはね、画面の向こうの男に負けたんだ」
暫くの沈黙が流れ、俺はその静けさの中でどれだけ意味不明な体験をしているかを確認した。少女を突き飛ばした感覚が両腕に残っている。顔を蹴ったのは記憶違いだろうか。気が付けば小太りのおじさんの顔が写真で見た冴えない父親のものと酷似している。
霧に包まれた神殿の中で父親が口を開いた。血走った目は爛々と妖しげな光を放ち、口からは泡を噴いている。半狂乱となっても尚、語り掛ける様な優しい口振りであった(15)。
「幼い君に言って良いものか分からないけれど、君は賢そうだから言うね。君のお父さんの死因は自殺。医者は『本人の精神的未熟さから生じた衝動的なもの』と診断したそうだけど、ね」
最初は妻達と一緒に彼女が推すアイドルの応援をしていた。自身の心に嘘を吐きながら。なんとかしてもう一度、振り向いて欲しくて。誤魔化しながら、誤魔化しながら、その内、少しずつ壊れていった。娘が産まれた直後は少し精神状態はマシになったそうだが、妻と一緒にテレビに釘付けになる姿を見て薄々悟ったらしい。家庭内で孤立していく未来を。そして、妻と同じく娘の魂が侵略されていく果てを(16)。
誠実で献身的な優しい善い人が見向きもされない。愛されない、では無い。空気なのだ。透明人間なのだ。学校での俺と全く同じだ。青色の血が流れている別の生き物なのだ。だから、今、父親は割れたガラスの欠片で自分の血の色が赤色であるのか、それとも混ざって紫色になっているのか(17)必死に確認している。生半可なリストカットでは無く、深々と透明の破片を腕に突き刺す(18)。何度も、何度も執拗に。入れて、出して、また入れて、出して。血管の奥深くから掻き出す(19)様に。
スーツの背面はまだ白い。階段の踊り場に広がる心地良い錆びた鉄の香り。螺旋状の模様が刻まれた手すりには輝きを放つ筈の魂に混ざってしまった世間の色(20)が油絵みたいにベッタリとへばり付いていた。先程までガラス片を持っていた指先はドス黒く染まっている。星(21)の無い夜だ。魚の様な父親の瞳(22)を見るのは辛い。命と引き換えに差し出されたハート型(23)のブラックピル(24)も受け取る気には成れなかった。
呻き声を上げ、膝から崩れ落ちる父親を見て俺は選択する。
「なんだってやってやるよ」
俺は愛されていない。事実、鳥(25)は現れない。
俺はこの世界から価値を与えられていない。事実、星(26)は降って来ない。
それでも俺は生きていく。金髪碧眼の天使達(27)に中指を立てて。
1:前話“家を出る前に観た天気予報では昼過ぎに止むらしい。本当だろうか。どうせお天気キャスターの男性アイドルが考えもなしに言った事だろう。”
2:三百メガヘルツから三百ギガヘルツの電磁波。
3:若手俳優・子役の青田買い場である。更に踏み込んだ解説を行うと、現実世界では近年は減少傾向にあるがアイドル史上主義社会では年柄年中放送されている事が予想される。要は、アイドルの発掘チャンスがとても多い反面消費も激しい。
4:割引シールは閉店時刻間際で無いと余り貼られ無い。つまり、母親が帰って来る時間帯はかなり遅い。
5:洗えば何度でも再利用が可能な鉄製フォークでは無く、業務用使い捨てフォークを意図している。
6:虹色は多様性・アイデンティティーの肯定。
7:主人公の名前。太陽が居ないと輝く事が叶わない存在であるが、第一話の冒頭で消滅した。つまり、この主人公はバッドエンドを迎える。
8:シンデレラに寄せる為だけに義母では無く継母と表記している。誤用では無い。
9:シュレディンガイガーの猫・Curiosity killed the cat・Cat has nine lives。
10:継母
11:義姉
12:“若さと美貌は、何にもまさる武器となるのだ。富も知性も経験も、若さと美貌にはかなわない。賢いブスよりも愚かな美人が確実に選ばれる”中村うさぎ。
13:『時計じかけのオレンジ(A Clockwork Orange)』アンソニー・バージェス原作・スタンリー・キューブリック監督による小説及び映画に登場するナッドサット語。翻訳すると「超暴力」と云う意味になる。
14:『時計じかけのオレンジ』に登場するルドヴィコ式心理療法(二十世紀を代表する心理学者バラス・フレデリック・スキナーによる学習理論の中核をなすオペラント(動物や人間が自発的に行う行動)条件付けによって悪人を善人に改造しようとするもの)と、トルチョック制裁(Tolcjock・толчок・殴る)が混合している。イタリア語でLudovicoはドイツ語でLudwig。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンはドイツ語表記の場合、Ludwig van Beethovenと成る。実際に作中でアレックスは作家の老人宅の窓から飛び降り自殺を試み、ルドヴィコ療法の影響を喪失している。
15:Pythiaを意識している。古代ギリシアのデルフォイ神殿の巫女。半狂乱に成りながら霧に包まれている姿を描かれている事が多い。モチーフとしたJacek Malczewskiが描いた『Pyhtia』は理性的な瞳であったが。
16:母親の欲望を仲介する記号的な他者の事である。本文では、“毎朝見ているお天気キャスターの男性アイドルの方が余程父親としての役割を果たしている。”と表現しており、Electra complexの対象のすり替わりが行われている事を示唆している。要は、娘の魂の侵略とは父親としての記号すらも画面の向こう側に奪取される現象の事である。
17:村上龍『限りなく透明に近いブルー』で描かれているゴキブリに重ねている。
18:村上龍『限りなく透明に近いブルー』リュウが幻視した鳥。
19:一夫一妻制の家族形態を取る動物にとって夫の庇護を受けながら別の強い雄の子供を育てる事は理想的な生殖戦略である。其の為、亀頭冠は他の雄の精液を拭い取る除去装置の役目を果たす。政略結婚が強いられる時代は結婚をして御家の安定を手に入れてから好きな人と不倫する事が当たり前であり、現代でも対して変わらないと考える。
20:父親の血の色の唯一の描写。要は、赤色では無い。
21:星はアイドルの事を示唆しており、推すべきアイドルを見付ける事が出来なかった意味を含んでいる。つまり、父親はアイドル至上主義社会に適応出来なかった。
22:死んだ魚の眼。主人公はこのタイミングで漸く父親の死を受け入れた。
23:直接的には心臓を指しているが、第四のチャクラであるAnahata Chakraを意図している。
24:Incel(インセル・involuntary(不本意な)+celibate(禁欲)を組み合わせた単語)・communityで崇拝されている理論の一つ。彼等はmisogynist(ミソジニスト・女性蔑視的傾向のある者)である傾向が強い。ブラックピルの内容は、経済力・社会的地位・容姿や性的魅力等で不利な弱者男性が立場を改善出来る見込みは殆ど無いと云うものであり、コレを受け取った場合、その事を認める意味合いに成る。この場面では、主人公は拒絶する事を選択した。尚、元ネタは『マトリックス』(ウォシャウスキー姉妹監督)で作中主人公トーマス・アンダーソンが服用したレッドピルの事。世の中で当たり前と思われている事が虚構であり、真実の世界は別にあると目覚める錠剤である。
25:『Joker: Folie à Deux』トッド・フィリップス監督の映画で流れていたカーペンターズ(?)の楽曲『遙かなる影(原題:(They Long to Be) Close to You)』の歌詞を意図している。Why do birds suddenly appear.
26:同上。Why do stars fall down from the sky.
27:同上。On the day that you were born the angels got together And decided to create a dream come true. So they sprinkled moon dust in your hair of gold And starlight in your eyes of blue.
28:フランスの哲学者であるジャック=マリー=エミール・ラカンの言葉。象徴界を構成する絶対的な法である父の名(複数形)の事。
29:NomとNonの発音は同じ。Nonになると否定形になる。
前書きは社会的比較理論。寓話的なステレオタイプの継母は前話に引き続き、『シンデレラ』。その他の組み合わせは、JOKER・アポロンの神託・機械仕掛けのオレンジ・限りなく透明に近いブルーのQUARTETです。と云うより、私が影響を受け過ぎているだけなのだろうか……(独創性が皆無)




