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La femme n’existe pas 若しくは Ample sex meets fate

──初めて聴いた讃美歌はアヴェ・マリアであった。グラッチェプレーナの意味は分からなかったが、現代では誰も話していないと云うラテン語話者に成りたかったので暗唱出来るまで繰り返し歌った。それでも音楽の成績は最低であった。やはり、音痴は罪である。

「母よ。この夜、星は光り、醜き息子は臥榻の中で眠りたもう。いとやすく」


小学校に通わなくなってから十年の月日が流れた。その間に歯を縛っていたワイヤーはホクロと共に消え去り、左右非対称な瞼は丁度六ミリメートルの幅へと整えられた。あの日感じたアシンメトリー。五枚の鏡から失われる度に思う事がある。きっと此処から抜け出して何かを成し遂げられるかも知れない。だから今日も俺は踊る。真っ黒な壁紙と鏡に囲まれた十八平米の密室空間で。


課題曲のベース音に合わせてフローベールを乗せたデュランゴ95が加速し続ける。運転座席に座るのは俺であるがハンドルを握りしめているのは母親かも知れない。今年から予想天気図と共に現れ始めた五人目の父親を轢き殺し、秒速八キロメートルに到達した。下駄だと思い込んで履いた靴は真っ赤に灼けた鉄で造られていた。とても重いが硝子の靴よりは頑丈そうだ。キスで目覚めるまで踊り続けよう。酸素不足の最中、三連符のカルテットが見せる世界は神秘的な美しさで満ち溢れている。輝く天上へ辿り着く為に母親が俺の右足の上からアクセルペダルを踏み続ける。その度に紙幣は天使の様な純白の翼を得て何処かへ飛んでいった。画面の向こう側でスクラムを組んでも魂の巡礼は止められない。そもそも三人足りないのだ。地上で輝きを放つ星々を越えて歌と共に突き進む。旅路を引き返す事はもう許されていない。


「一生懸命応援してるわ。お母さんはそれしかしてあげられないから」


契約は守り続けられている。母親が俺への支援を断った事は一度たりとも無かった。小さな目標が叶えられれば次々に新たな夢が浮かぶ。徐々に解像度が上がった夢は具体的に書き出して目標に変えた。そして、母親の応援を求め、同時に受け入れる。だから今更、俺の欲望の正体が無意識に刷り込まれた母親の欲望の模倣であったと痛烈な批判をされようとも動じる事は無い。母親が父親の否定をする度に強く肯定してやるのだ。父親が選択しなかった選ばれる為の努力を重ねながら。パーツを交換する度に俺には赤い血が流れ込む。それでも五枚の鏡の回答はスノーホワイト。誰か毒林檎の栽培方法を教えてくれ。


「月くん、もう少しだけお腹を引き込もうか」


聞き慣れたトレーナーの声で現実に引き戻される。普段とは天地が入れ替わった逆さまの世界。脳に血が行き渡り過ぎた時はつい余計な事を考えてしまう。それでも身体は倒立のやり方を覚えていた。脇を絞り、手首の真上に肩が乗っている。骨盤も立っているので後は前鋸筋で胸を締めるだけだ。正しい姿勢が出来上がれば次の合図まで維持し続ける。位置を調整する際は決まって足首を強く掴まれ、その後、トレーナーの胸元まで抱き寄せられる。

トレーナーは夫も子供が居ないらしい。支配的欲望を優しく包んで出来上がった柔らかい双丘。ボディーラインに合わせて輪郭が歪んだポップ・アートの棒人間はハート型の鱗を手当たり次第撒き散らしている。重さ三十六グラムのニップルピアスを押し付けられる。レギンス越しに伝わる俺自身の価値は未だ低い。鏡が叫ぶ。狂おしい程の愛は貰えぬ様だ。


「もうすぐ高校受験だよね。月くんなら虹色学園だって受かるよ。先生、応援してるからね」


勝手にすれば良い。俺は応援してくれと頼んだ覚えは無い。だから恩着せがましく押し付けないでくれ。掴まれていた足首と触れていたふくらはぎが柔らかい感触からようやく解放された。レッスン終了の挨拶に対し、礼を言って家路に就く。移された香水の匂いに噎せながらも、何故かシャワーを浴びる気にはなれなかった。


葉を落とした街路樹は冬空を串刺しにする様に無数の枝を突き立てていた。頬を伝うのは枝から零れ落ちた水滴だった。通り過ぎた直後、アスファルトに落ちる音がやけに響いた。辺りを見渡せば殆どのビルの側面も僅かに濡れていた。ガス灯を模したガーデンライトから放たれる偽りの白線を数多の水滴が乱反射している。無人の交差点では雪化粧をめかしこんだ一時停止の道路標識がまるで俺を誘う様に立っていた。スポットライトから逃れる為に通い慣れた一本道から僅かに逸れるしかない。細い路地を入った所にあるアパートの外階段を十三段登る。黒塗りされた落下防止の為の鉄格子。羽虫の死骸が意地汚くへばり付いていた。柵の隙間から交差点を覗き込む。都会のど真ん中に信号所に止まる汽車は有る筈も無いが、露出した素肌を襲う風は確かに雪国の痛みがした。


交差点を爆音でアイドルの曲を流しながら走り去っていく品性の無い連中。彼等のお陰で息苦しさはいつの間にか収まっていた。再び、大通りへ足を踏み出す。流行りのアイドルの楽曲を撒き散らす路面店。先程まで有難がっていた存在と似て非なるものに対して思わず顔を顰める。余りにも哀れだ。軽薄さ加減に此方まで惨めな気持ちを味わう羽目になる。叫び出したい。左脳で音楽を味わう人間は死に絶えてしまったのだろうか。尽きない疑問を街中の人々にぶつけてやりたくて仕方が無い。

咄嗟に目を閉じる。瞑るのでは無い。目を開ける為に瞼を下ろして眺めるのだ。何処までも奥に広がる草原は黄金に輝き、積乱雲が浮かぶ空は希望に満ち溢れている。この世界には飛行機が存在しないのに二筋の綺麗な平行線が描かれていた。


朦朧としながら我が家に辿り着いた。木造の骨組みにアンティークレンガがへばり付いた三階建てのアパート。一階部分はロビーと屋根付き駐車場になっている。エレベーターは故障中。内階段の踊り場で息継ぎをする。マイルドセブンの空箱が無造作に捨てられていた。鞄の底を掻き回しながらタイマー式の電灯が点いた廊下を渡る。結局、鍵は黒いロングコートのポケットの中に入っていた。恐らく、無意識の内に取り出していたのだろう。ダンス教室に行ってから鍵を触った記憶には無いが。

時計回りに鍵を加速させてロックを解除する。玄関の自動照明に照らされた足元には黒いヒールが綺麗に揃えて並んでいた。されど、家の中は真っ暗である。母親は帰ってすぐ寝たのであろうか。慣れた手つきでリビングのシーリングライトを点ける。フローリングの床には散らばった婦人服。奥にあるキッチンからはシンクの中に積み上げられた皿が薄っすらと見える。どうやら珍しく母親が料理をしたみたいだ。


一先ず、自室に入る。真っ白の学習机の横に鞄を置き、セット販売されていた硬い椅子に腰掛けた。机の上に財布を置くと同時にデスクライトの電源ボタンを軽く押す。粉だらけの折りたたみミラーが鈍い光を反射した。嗚呼、そうだと溜め息を吐きながら思い出す。今日は片付ける時間が無かったので出しっ放しのまま家を飛び出たのであった。右側に並べている数種類の筆をペン立てに投げ込んだ。自由気ままに飛散した三本のチップに付着している色を確かめながら開きっぱなしのアイシャドウパレットの中に戻していく。転がっているアイライナーと二重ライナーを別のペン立てに入れる。そこにはマスカラと貰い物のビューラーが入っていた。あれれ、おかしい。今日はマスカラだと思ってまつ毛美容液を塗っていた説が浮上する。鞄の中身を急いで確認すると案の定お高いまつ毛美容液が出てきた。とある女性アイドルグループとのコラボ商品である。値段と効果は比例すると云う美容系アイドルのコメントを信じて比較検討はしていない。一・五センチメートル以上に伸びてさえくれれば何でも良いのだ。


壁側にずらりと並ぶ様々なメーカーの化粧水と乳液のセット。どれも三万円くらいするらしい。ダンス教室に通うおばさん達から沢山貰ったものだ。同じく、ファイルボックスに無秩序に仕舞っているシートマスクも総額十万円は超えそうだ。これはお姉さん方に貰う事が多い。安くて大容量のものを自費で購入してしまっているので貯まる一方である。反対側には人気アイドル著作のハウツー本が積み上がっていた。背表紙にもたれかかる様に小さな人形が力尽きている。コレは俺が二歳の頃に母親が買い与えた物であると聞いているがその頃の記憶は無いので本当なのか分からない。最初から顔や手足が所々すり減っていたと思う。改めて手に取って注意深く観察する。青白い光に照らされた不気味な人形は丸みを帯びた関節だけがやけに目立っていた。


洗濯物を淡々と畳み終え、次は洗い物とばかりに洗剤を吸い込んだスポンジで皿を擦っているとドンッと云う音がワイヤレスイヤフォン越しで聞こえた。My darling Stay gold。流れてしまう前に慌てて音楽を止めた。悲鳴が聞こえる。直後、ドタドタと足音がし、母親の部屋のドアが勢い良く開かれた。ベッドから落ちたと叫びながら俺の方へと小走りで駆け寄って来る母親は下着すらも身に着けていない。母親は俺の後ろを通り過ぎて冷蔵庫から保冷剤を取り出した。僅か二畳半のキッチンがほんのりと夜の匂いに包まれる。吐き気がした。ダウンタイムの不自由さと漠然たる痛みが訴えかけてくる。


次の瞬間には予想通り、温もりの中で呼吸をしていた。蛇の様な腰使いとベタついた猫撫で声が意識を急速に蝕んでゆく。胎内回帰の誘い。我が家で唯一暖色系の光で照らされる風呂場の中へ。腕、脇、腹、脚、そして、陰部と順に洗われる。片手に剃刀を持った母親は顔を紅潮させながら冷たいローションを振り翳し、俺を湯船の中へ押し込んだ。分厚い唇で繰り返される執拗な愛撫に身体は勝手に応じた。意識が消え去った今、馬車に乗った理性が囁く。所詮は皮一枚を接した行為だ。左側を走る馬が追従して叫んだ。生きている男である事が認められるのならば安いものだ。嗚呼、確かにその通りかも知れない。俺は母親の首元へと指を伸ばす。両手で十本。されど、八本脚の兄弟は居ない。皺が寄る程、熟れてしまった毒林檎をただ舐める。着けられたコックリング。三・五センチメートル。締め付けられる痛みと共に右側を走っていた青い馬は真っ赤な猟師笠を被った立鳥帽子に撃ち殺された。献上された馬の心臓はとても筋肉質で少し苦かった。

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