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Hell’s Kitchen 若しくは Heil’s Kitchen

──突如として背後からクラクションが鳴らされた。運転座席の窓を開けて罵声を浴びせる男は少し加速すると歩道に乗り上げた。俺の前を遮る形で執拗に蛇行を繰り返す。今でも真っ白なベンツを見ると嫌悪感が込み上がってくる。憤った金持ちの男は確かにみっともなかったが、俺が抱く感情は貧乏人の惨めな嫉妬では無いと信じたい。

「大変申し訳無いのですが、お子様の現状ではこちらの教室で最適なレッスンをご提供する事が出来ません。先ずはご家庭で自己学習頂いた後、入会試験を軽くパス出来ると判断された際に、再度ご連絡下さいね」


手慣れたものだ。お互いに。表情筋を駆使し眉間にシワを寄せつつ俺を見下す様に目を伏せる女性。心做しか母親に対しては嘲る様に慰めの言葉を送っている。淡色コーデの影響だろうか。ボイストレーナーの顔は首の色よりも真っ青に日焼けしている気がした。

俺は与えられた絶望をソシュールの背中に括り付けて肌黒い野蛮人と共にバンジー・ジャンプをさせる。そして、サムズアップしてきた斜視のノーベル賞辞退者にレヴィ=ストロースの爺さんの介護を押し付けて痴話喧嘩をしている様子を眺めるのだ。適度にシャッターを切る。切り抜いたモノをフィルムに纏めてイッツメディア。レッドピルの出来上がり。こうして赤い成分を接種しなければ我々ブルーブラッドは生きられない。


「音痴って遺伝するんだって。お母さんね、さっき先生から言われたの」


今朝、訪れた音楽教室はシャンデリアやミラーボールが吊るされている訳でも無いのにキラキラと輝いていた。受講生達の練習風景は立派な金の装飾が施された額縁に飾られている絵画の様で、見慣れない音楽記号のジェルシールが貼られた窓は大聖堂のステンドグラスに思えた。だが、よく見てみると絵画は十二世紀の宗教画であった。悪魔の血で染め上げたキャソックを着た枢機卿は祭壇の上で胡座を掻きながらサブスクリプション型の免罪符を売っている。ダンテは八日目に地獄で力尽き、ジョットはロベルト一世と出会う前に黒死病で死に絶えたのだろう。それともハイブリッドカーに轢き殺されたのか。目の前で徐行している真っ白な高級車にさえ苛立ちを感じ出した。そんなスピードでは陸海空の支配なんて無理に決まっている。此処におわすは内助の功で買った十万両の馬であるぞ。頭が高い。控えおろう。


「ごめんね、お母さんがこんなんだから」


バックミラー越しに謝る母親。酷く傷付いた表情であった。震えた声のトーンは分からない。俺には判断する能力が無いのだから。確かに今日は珍しく願い事を言った自覚はある。意気揚々と家を出て、母親が運転する青色の国産車に揺られた。辿り着いた先で先天性音楽機能不全と暴露され恥を掻いた。先天的の障害だ。俺も母親も脳に異常がある。音楽訓練を積んでも意味が無い。反復練習によって音程の違いを少しずつ認識出来る様になるのは健常者の特権だ。音楽処理能力を司る脳機能が正常な場合のみ努力と友情で勝利を掴み取る未来が開かれている。


「大丈夫だよ。アイドルに最も必要な要素は、歌じゃないから」


思わず目を逸らす。分かっている。欺瞞だ。限度が有る。それでも縋り付くしかあるまい。例えどれ程、マルクスから総括を受けたとしても人はアヘンを信仰せずにはいられないのだ。


「アイドルに一番必要な才能は―――強い意志を持っていること。勇気を持って、夢へと踏み出す才能。だから、俺は諦めないよ。諦めて堪るか。なんだってやってやるよ。そして、トップアイドルになる」


貧乏揺すりで跳ね上がる右膝を両手で抑えながら矢継早に話す。先日テレビで観たアイドル養成学校、虹色学園。ホームページに載っていた言葉だ。えへんと咳払いをすると、鉛筆でさっさと描かれた首無しキルケゴールが耳元で叫ぶ。リープ・オブ・フェイス。リープ・オブ・フェイス。シートベルトをキツく締め過ぎたのか腹が痛くなった。




続いて向かった先はダンス教室であった。一見すると古びたアパートでとてもじゃないが十年も続くスクールだとは思えなかった。地下にある狭い駐車場に停めて傾斜が強い螺旋階段を登って行く。出迎えてくれた若い女性はオレンジ色のTシャツを着ていた。胸元に印刷されていたのは太い線で力強く描かれた棒人間。とても可愛らしいポップ・アートだ。僅かに漂う汗の匂いが心地良かった。


「体験レッスン代二千五百円を頂戴致します。それと全クラス受け放題コースのお申し込みですね。本日ご入会して頂けるとの事ですので、特典として入会金一万一千円と事務手数料五百五十円、初月会費は半額とさせて頂きます」


十八平米の密室空間。天井から吊り下げられた黒い鉄棒に一定間隔で白熱灯が生えている。五枚の大きな鏡が様々な角度から息切れた俺の醜態を映していた。自然と上がった口角が不均等な顔を更に歪めている。一周回ってアシンメトリーな美しさを覚えた。汗ばんだ素肌がプラスチック繊維に溶け出していく快感に身を委ねる。ふと視線を下ろす。紫色のヨガマットに付着した雫は一見すると止まっているが僅かに重力に対して逆らい続けていた。シャワールームへと案内される。振り向きざまに捉えたロールカーテン。その向こう側には茜色の空が広がっていた。


「今日は折角の休日なのに色々と連れて行ってくれてありがとう」


返って来たのは曖昧な相槌であった。信号機の色が黄色のまま横断歩道を切り裂く様に加速する。ルームミラーに映るのは闇に包まれる街並みを眺める母親の横顔。浮かない表情でネオンサインを読み上げている。ハンドルを握る指先は微かに震えていた。母親が息を吸い毒を吐く。急発進したエンジン音が静かな車内に響いた。家までの一本道。周囲の車からクラクションが鳴らされた。対向車線に躍り出て大きくUターンを決める。理由が分からぬまま帰宅方向とは真逆に連れて行かれている。時速八十キロメートルで回転寿司屋の立体駐車場に突入した。何本かの白線を越える度に速度が落ちてゆく。バックブザーが金切り声で叫びだした。エレベーターに近い空きスペースに停めるらしい。ハンドルを右手で操作する母親が振り返った。そして、熱を帯びた左手で俺の顎を掴む。シートベルトに抑え付けられた俺は抵抗を許されぬまま一方的に覗き込まれた。炭から炭へと灼熱の嫉妬が燃え移る。炙りサーモンは割引フェア対象だろうか。


「たまには寿司も悪くないでしょ」


山吹色の塗装が所々剥げ落ちた鉄製アーチを視界の端に捉えつつ駐車場を出る。白線から飛び出た自転車の後輪にぶつからない様に身体を捻って小走りで階段を駆け上る。茶色く薄汚れた壁。吸い殻を押し付けられた跡にも見える。自動ドアをくぐると強烈な光に襲われた。外との明るさの差異が激し過ぎる。何度も瞬きを繰り返す事で目を刺す様な痛みに慣れた。レジの前に可愛らしいロボットが佇んでいる。誰にでも平等に愛想を振る様にプログラムされた完璧な子供だ。明朗快活な問い掛けと自信満々な応答。羨ましい。九十九匹の本質が形成された迷わぬ子羊。野原に取り残されても構わないから俺のパーツを交換して欲しい。


「うん、そうだね」


母親が手にする紙に印刷された番号は五十二。そう言えば、此処に来るまでに登った階段は十三段で構成されていた気がする。てっさを食べるのは止しておこう。母親に手を引かれて客席へと移動する。少し低い天井から圧迫感を覚えると同時に覆い被さられる安心感に包み込まれた。繋がれた俺の右手は少しだけ湿っていた。


「うん、美味しかったよ。ありがとう」


回転寿司屋からの帰り道。母親は普段から俺に甘いが、特に今日は異常に優しかった。値段を気にせず鰻ばかり注文してみたが慈愛に満ちた笑みを浮かべるだけであったので、本当に遠慮無く沢山食べた。いくらの皮を犬歯で突き破り、第二小臼歯で擦り潰した時、レーンの上で回転を続ける炙りサーモンは聖火の祝福を受けていた。


「月、ダンス頑張ってね。お母さんちゃんと応援するから」


母親の顔を下から上へと照らし出す対向車の中にはタクシーの姿もあった。助手席に座る乗客が着ていた山吹色のニットがたちまちマンハッタンへの片道切符と化す。運転手の肉体を透き通り接近するカメラフレーム。楕円軌道を丁寧になぞる映像記憶。いや、違う。何も違わない。エアコンフィルターから放たれる独特の臭いのせいだ。吐き気を催す。思わず窓を開けた。大丈夫、母親は誰も殺さない。それに俺は母親とは違って後部座席に座る事が許されている身だ。発表会の費用を含め、年間二十五万円。コツコツ積み重ねれば十二歳となった母親との再会をもう少しだけ先延ばしに出来るだろう。焦燥と嫉妬は鎮火していた。明日の朝食はジャムと砂糖を掛けた食パンを一緒に食べよう。

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