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Les noms du père 若しくは Les Non du père

──昔から対等な付き合いが苦手であった。相談出来る友達が居なかったから何もかも自己判断で社会の常識を知らなかった。法律を学ぼうと考えたのは必然であったのだろう。お陰で飛び越える恐怖や踏み躙る躊躇いを感じる事が無くなった。

帰り道、雨は止んでいた。お天気キャスターの悪運が強くて恨めしい。俺の歩幅では一飛びに出来ない舗装の継ぎ目。濁った水溜まりが口を開けて待ち構えている。勇猛果敢に足を踏み入れる事も、賢く迂回する事も選べずに俺は汚水の前で立ち尽くした。誰かが橋を掛けてくれないか。掛けたとしても石橋では駄目だ。鉄筋コンクリートにしてしまいたくなる。水面に映るもう一人の俺は躊躇なく踏み出せるのだろうか。


家に帰ると真っ暗なリビングで点けっぱなしのテレビが機械的な笑い声を上げていた。冷蔵庫のドアを開けて中を見る。タッパーに入れられた米を取り出しフライパンで温めた。マイクロウェーブは身体に悪いらしい。薄っぺらい学園ドラマから新人男性アイドルの密着ドキュメントにチャンネルを切り替えた俺は、別の鍋に放り込んだレトルトカレーを掛けて黙々と食べる。画面の中の新人男性アイドルは養成学校時代に受けた性的トラウマを如何に克服したかを熱っぽく語っていた。


「ただいま」


食べ終えた皿を洗い、改正された学校教育法を調べていると母親が帰宅した。俺は玄関まで出迎える。愚痴を聞きながら渡されたビニール袋。たちまち薄暗い食卓は割引シールで真っ赤に染まった。プラスチック製のフォークが音を立てずに落下した事に母親は気が付かなかった。


「学校どうだった?」


「別に」


実際、話すべき出来事は起きていない。全てが予定調和であった。


「へええ、新しい芸能中学校出来るんだって」


食卓に座っていた母親がテレビの画面を眺めながら呟いた。否、話し掛けてきたのか。俺は無言で頷くだけで画面は見なかった。少し興奮気味な母親曰く、次世代のアイドルや未来の名プロデューサーの育成を目的としてバブルプロダクションが設立するらしい。名称は虹色学園。親の七光りみたいな名称だ。


「学業と同時にトップアイドルを目指すためのレッスンも受けられるんだって。行ってみる?」


冗談にしては酷い。俺が首を左右に振ると母親は苦笑いを浮かべながら言った。


「月はあの人似だからやっぱ無理かぁ。そういえばあの人、元気にしているのかしら」



母親があの人と呼ぶのは決まって別居状態の父親の事だ。俺は父親とは面識が無かった。重婚制度の弊害だろう。これまでの母親の愚痴を総括すると、もう一人奥さんと、その間に設けた娘さんの3人で同棲しているらしいが、彼等の人となりを語る時は決まって重度のアルコールに侵されているので信憑性は薄い。ただ一度も父親の性格は貶す事無く、継母と義姉の悪逆非道さを語るので多少は真実も混ざっているのだろう。


母親が風呂場に向かった後、俺はテレビの音量を下げた。散らかった食卓を片付けていると一際地味な茶色の封書を見付けた。手に取って裏返す。


「家庭裁判所?」


途端に封筒が重苦しい雰囲気を纏う。争い事とは無縁な生き方をしている筈だ。俺は勿論、母親も世間様に歯向う事などする筈が無い。では、もしかすると母親が俺に黙って何処かから金を借りたのか。俺は首を左右に振って思考を振り払う。いや、違う。それは無いだろう。これでも母親は人並み以上に稼いでくれている。仕事に対しては高い意識と情熱を抱いている事も知っているし、ヘタを打った時は分かり易いくらい落ち込む姿を何度も見てきた。


「じゃあ、なんだろう」


好奇心を理性で抑え込む。自己判断で捨てて良い広告とは違うのだ。開けるべきでは無いだろう。見なかった事にして風呂上がりの母親に手渡すのが最善だ。いや、しかし。どうせ直ぐに酒を飲んで寝る。やはり俺が中身を見て要約して伝えるべきだろう。理論武装した好奇心がか弱い猫を無惨にも虐殺した。


開封して初めて父親の死を知った。猫に続けて父親も殺したのか。きっとそうに違いない。会った事が無いので特別な人物では無い。毎朝見ているお天気キャスターの男性アイドルの方が余程父親としての役割を果たしている。気にする事は無い。猫が死んだ。それだけだ。



***



「べつに死ぬほどのことじゃないのにねぇ。もうまったく」


「ホント、最期までめーわくだよね。ねぇ、ママ。これ夜までかかるの?わたし推しの配信見なくちゃいけないんだけど。あ、そうだ。このこと推しに言って慰めてもらお」


裁判所で擦れ違ったのは顔面の造形が美しいまだ若い女と化粧の濃い少女。継母を名乗った女は、葬式の案内を忘れていたと言ったが、そもそも葬式を上げている事すら疑わしい。しかし、遺産分割調停の申し立てだけは税務署の模範にも成るべき速度と正確さで抜かり無く届いていた。小汚い父親の死体に珠の様に美しい蛆虫が湧いている。いつの間にかチークが塗りたくられたハゲワシも鋭い嘴を肉に突き立てている。腐肉を抉り出す生々しい音が耳に響く。引き千切って啄む度に死臭が呼吸と混ざり合った。



見目麗しい継母は初対面の俺を無視して話を進める。母親に対してはネチネチと言いがかりを付けて、父親が自殺した責任を転嫁していた。頓珍漢な理論でも美人が言えば案外正しそうに聞こえる。継母はどうにかして取り分を増やしたいそうだ。又、父親にも批難の声を上げていた。それには母親も便乗していた。死屍に鞭打つ二人の女の言い草に頭の中の疑問は尽きなかった。


逃げる様に廊下へ飛び出た俺は、つまらなさそうな顔をした化粧の濃い少女を突き飛ばす。一切の躊躇無く少女の顔に蹴りを入れる。湧き上がったアルトラを解き放ちながら無我夢中で走った。息が上がった俺は実用的なデザインの階段を踏み外す。たちまち前後不覚となり踊り場まで落ちた。痛みに耐えながら目を開ける。汚れ一つ無い黒い革靴。俺は知らない小太りなおじさんを見上げていた。



「すみません。父とはどういったご関係だったんでしょうか?母曰く、自分は息子らしいのですが、実は今日父が死にまして、いえ、もっと前らしいのですが、兎に角、そんな事はどうでも良くて、父に対する興味は欠片も無いのですが生き様だけは少し知りたいので教えて頂けないでしょうか?」



何故か心の底から声が出た。父親を殺した好奇心の仕業であるなら次は俺の番かも知れない。現に階段から転がり落ちた。いや、違う。継母からのルドヴィコ式制裁を飛び降りによって打破したのだ。そうまでしてでも誰かが父親の存在を継承すべきだと思った。でないと、余りにも虚しいではないか。目の前の小太りのおじさんは俺からの唐突の質問に対してまるで動揺する反応を見せない。ただ淡々と惨たらしい悲劇を語るのであった。


父親はとても気遣いが出来て性格も良く、所謂、誠実な人だった。お陰で早々と美人な妻達と結婚の話が進んだそうだ。その頃の父親は有頂天で鼻高々と美人な妻達を自慢に思っていた。と、同時に一生懸命に仕事に打ち込み、必死に家族を支えようと人一倍頑張っていた。だが、父親から妻達への愛は次第に一方通行になっていき、徐々に仕事に対する情熱も失われていった。


「―――いいかい。この国は『良い人』よりも『モテる男』の方が愛されるんだよ。君のお父さんはね、画面の向こうの男に負けたんだ」


暫くの沈黙が流れ、俺はその静けさの中でどれだけ意味不明な体験をしているかを確認した。少女を突き飛ばした感覚が両腕に残っている。顔を蹴ったのは記憶違いだろうか。気が付けば小太りのおじさんの顔が写真で見た冴えない父親のものと酷似している。


霧に包まれた神殿の中で父親が口を開いた。血走った目は爛々と妖しげな光を放ち、口からは泡を噴いている。半狂乱となっても尚、語り掛ける様な優しい口振りであった。



「幼い君に言って良いものか分からないけれど、君は賢そうだから言うね。君のお父さんの死因は自殺。医者は『本人の精神的未熟さから生じた衝動的なもの』と診断したそうだけど、ね」



最初は妻達と一緒に彼女が推すアイドルの応援をしていた。自身の心に嘘を吐きながら。なんとかしてもう一度、振り向いて欲しくて。誤魔化しながら、誤魔化しながら、その内、少しずつ壊れていった。娘が産まれた直後は少し精神状態はマシになったそうだが、妻と一緒にテレビに釘付けになる姿を見て薄々悟ったらしい。家庭内で孤立していく未来を。そして、妻と同じく娘の魂が侵略されていく果てを。


誠実で献身的な優しい善い人が見向きもされない。愛されない、では無い。空気なのだ。透明人間なのだ。学校での俺と全く同じだ。青色の血が流れている別の生き物なのだ。だから、今、父親は割れたガラスの欠片で自分の血の色が赤色であるのか、それとも混ざって紫色になっているのか必死に確認している。生半可なリストカットでは無く、深々と透明の破片を腕に突き刺す。何度も、何度も執拗に。入れて、出して、また入れて、出して。血管の奥深くから掻き出す様に。

スーツの背面はまだ白い。階段の踊り場に広がる心地良い錆びた鉄の香り。螺旋状の模様が刻まれた手すりには輝きを放つ筈の魂に混ざってしまった世間の色が油絵みたいにベッタリとへばり付いていた。先程までガラス片を持っていた指先はドス黒く染まっている。星の無い夜だ。魚の様な父親の瞳を見るのは辛い。命と引き換えに差し出されたハート型のブラックピルも受け取る気には成れなかった。


呻き声を上げ、膝から崩れ落ちる父親を見て俺は選択する。



「なんだってやってやるよ」



俺は愛されていない。事実、鳥は現れない。

俺はこの世界から価値を与えられていない。事実、星は降って来ない。

それでも俺は生きていく。金髪碧眼の天使達に中指を立てて。

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