「星くんはどうしてアイドルになりたくないの?」
「星くんはどうしてアイドルになりたくないの?」
純粋無垢な少女の瞳。俺を呑み込む残酷なまでに黒い闇だ。朝から雨が降っているのもきっと少女が太陽を呑み込んだからに違いない。
「普通に大学に行って、普通に就職して、普通に結婚するだけでも難しいからね」
教室の窓を殴り付ける雨風の音。家を出る前に観た天気予報では昼過ぎに止むらしい。本当だろうか。どうせお天気キャスターの男性アイドルが考えもなしに言った事だろう。無資格の人間だから信用に値しない。AIが纏めた情報に依ると今日の最低気温は十二度だ。いつも着ているお気に入りの紺色のカーデガンの上にセーターを重ねて六十五センチのビニール傘を両手で掲げながら登校した。
下駄箱で擦れ違った隣のクラスの少年。履いている黄色の長靴は余りにも鮮やかで幼稚な印象を受けた。心の中で素早く扱き下ろした俺はマジックテープのスニーカーから上履きに履き替える。木製の大きな扉をガラガラと音を立てながら引き開けて教室に入った。
既に多くの同級生が机の上に座って駄弁っていた。流石は六歳児。朝から元気に満ち溢れている。教室の中央では派手な色のブルゾンを悔しいくらい着こなした少女を囲んで昨夜の音楽番組に関する感想コンクールが行われていた。今の所、最優秀賞は男性アイドルグループについて熱心に語っている少女。普段は少し遅れてから愛想笑いしている癖に。少し離れた場所ではくすんだ緑色のニットコーデの少女が髪の毛を濡らしながらイヤフォンを嵌めてラジオ番組を聞いていた。いや、憶測だ。が、どうせ少女の推しのラジオ番組のアーカイブだ。少女はそれしか話題を持っていないのだから。少年は俺を含めて十人居るがその内の九人は限りなく透明に近い人間。ただ一人の雄だけが赤い血が通っていて少女達の目に映る。
「星くん、おはよう」
刈り上げツーブロックのイケメンキッズ。奥二重で少しヤンチャな雰囲気を纏っている。着ている半袖シャツに印刷されているアイドルの顔面も似た様な感じで整っている。この少年が俺に挨拶をする。ただそれだけで俺の半径三メートルの空気が変わる。いきなり天からスポットライトで狙撃されたかの様に後光が差し込んで来てとても眩しい。先程まで太陽を呑み込み、次はおおいぬ座の一等星まで喰らい尽くそうとしていた少女の黒く澱んだ瞳が爛々と輝きを放ち出した。頬には桃の花が咲いている。桃の花言葉は何であったか忘れた。
「嗚呼、おはよう。今日は雨だから頭が痛むんだよ。お前は大丈夫か」
また同じ光景だ。この数カ月間で何度も繰り返し見せつけられた悪夢。抱いた期待を執拗に打ち砕く惨劇である。見慣れた筈の日常にまた心の皮が剥がれ落ちる音がした。俺の言葉を疑問視する隣の席の少女はもう居ない。
この少年に悪意が無い事は知っている。最初は知らなかった上、縄張りの巡回かと思い込んで敵意や憎しみを一丁前に向けていたのだけれども、今は少し違った感情を抱いている。気持ちが悪い。吐き気がするのだ。心の底から同じ種族だと信じて疑わない人間的な感性に対してでは無い。少年の瞳に映る俺の姿が。恐らく俺には青色の血が流れている。
授業開始のチャイムが鳴った。小学生の背丈では届かなかった黒板の上部、丁度、十等分した時の上位一割に当たる場所には真っ白なチョークの粉がまるで何か別の役割を持ったかの様にへばり付いていた。ハイヒールの音を立てて教室に入ってきた女教師が出席確認は上の空で、オレンジ色の黒板消しをゆっくりと持ち上げると少し残った白い粉を丁寧に拭き取った。窓の外は激しい雨が降っている。グラウンドは泥沼だろう。教室に響き渡る擦過音。何度も同じ箇所を執拗に擦る女教師の生々しい動きが強烈に生理的な不快感を生み出した。窓を締めているせいで湿度が高い。湿気たチョークの粉が白濁としている。換気の為に窓を開けても横殴りの雨だから同じ結果に終わっていたのだろうか。いずれにせよ上部一割のチョークの粉の運命は触れ合う度に黒板消しと云う器官の中へと吸い上げられた。
女教師が白色と赤色の粉が入り混じった黒板消しを置いて国語の教科書を開けた。ひらがなばかりで読みにくい。全く別の言語体系で無かっただけマシだと思う方が前向きに成れると知っていても心の中で愚痴が止まらない。やはり日本語じゃない方が良かった。どうしても延長線上の消化試合と云う感覚に陥ってしまう。せめて、教科書体を無くして欲しい。露骨に人間味を増した、とめ、はね、はらい。化学調味料は身体に悪いと家庭科で習わなかったのか。
「昨日の続きからです。みんなで一緒に音読しましょう」
授業で扱っている内容は、『将来の夢』と云う題名の説明文。形だけでも物語文の形式にした方が良いと思う俺は不正解。テストでは落第点だ。印刷された文字列が導く解答こそが皆の夢の終着駅。大人の欲望と子供の憧れが交差する地点。トップアイドルだ。
「みんなの夢はなんですか?」
女教師の問い掛けにクラスメイトが予定調和の回答を述べる。地下アイドルや地方アイドルも人気らしい。
確かに承認欲求と自己実現欲求のバランスが丁度良さそうだ。
「アイドル以外の夢はありますか?」
手を上げて答えるのはいつも教室の隅っこで縮こまっている少女。俺と同じく透明な少年。二人共口を揃えて「プロデューサー」。誰も自分自身の夢を語らない。俺は手を挙げなかった。音読もしなかった。だが、バレなかった。俺が居なくてもクラスの声のボリュームは変わらないから。名指しで当てられて読まされるよりは数倍マシだと安心した。少し悲しくなった自分自身に意味が分からなかった。
国語の授業が終わった。女教師が居ない教室は緩慢な空気に満ち溢れ、心無しか窓の外の雨の勢いも弱くなった気がする。クラスメイト達が意味も無く机の周りを走り出した時、一際大きな声が響いた。
「次の授業、小テストだよね」
そう言われると確かに昨日の算数の教師は、我々を脅す様な言い草で憎たらしい笑みを浮かべていた気がする。途端に踊っていた少女達は自身の座席に戻って算数の教科書を眺め出した。だが、俺は少女達の机に視線をズラす事で精一杯だった。別に直前の詰め込みを付け焼き刃だと嘲笑うつもりも、焦る少女達を見下している訳でも無い。そもそも少女達が夢を叶えてアイドルに成ってしまえば学校教育のほぼ全てが無駄に終わるのだ。汚れた指先で選別されたかずのブロックを眺めながら考える。ひみつ道具の食パンを算数の教科書に押し付けて腹を満たす事こそ最も正しい学習方法であると。十時八分で止まった学習時計の盤上で知育の文字が踊っている。
「魔法が解けるまであと二時間も有るのか」
俺は思わず溜め息を吐く。かなり苦痛だ。菩薩樹で作られた硬い椅子が俺の理性を刻一刻と蝕んでゆく。この調子であれば順当に悟りを開けそうだ。四十夜も断食を続ける必要は無く、空と海を眺めるだけで充分だろう。
「答案用紙を回収するぞ。後ろから順番に回せ」
二桁の整数の足し算を適度に間違える事が出来るのなら俺だってヒシュル・トリに成りたい。だけど、ボブカットは嫌いだからボヘミアンな彼女達は願い下げだ。鼻が高くないからチーズケーキだって彫り込めない。雨に濡れたスーサイドガールは俺に電話を掛けてくれないし、カンティーナガールとは乗りが合わないに決まっている。この様にいつも理想から現実を引く計算ばかりしてしまう。だから答案用紙は負の数で埋まっていて、クラスメイト達と同じ様にアイドルに成りたいだなんて言えなくなってしまった。つまり、今日の算数の小テストは百点だ。




