第9話 第3節 「今だけ」が終わった日
次の日の練習前、ロッカールームで着替えていると、篤が真理雄に聞いた。
「真理雄は高校受験どうすんだよ?俺はエスカレータ枠に入っているけど。どうせもう決めてるんだろ?」篤が言うと真理雄は答えた。
「僕は普通に都立だよ。一番近い高校に行くつもり」
「近いってなんだよ。高校選びってそこじゃねえだろ」
「いやそこも大事だよ。毎日遠くまでの移動は、時間もお金も無駄だしね。僕は高校に入ってもこのクラブは続けられたらいいなって思ってるし。だから今の生活圏を壊したくないんだ」
「だってお前、一番近い高校は偏差値45位だろ?そんなところにお前が行ってどうするんだよ?お前頭いいのにもったいないじゃん」
「行きたい大学は決まっているからね。高校は別にどこでもいいよ。高校の学力レベルはたいした問題じゃないって思ってるから」
「真理雄には世界がどんな風に見えてるんだか、1日だけ代わってみたいよ。大学受験に高校のレベルは関係ないって……」篤はマジマジと真理雄の顔を見て言った。
プールに出ると響子コーチがいた。響子コーチは古岡コーチと何か話している。僕は響子コーチを見ると幸せな気持ちになる。
三橋コーチは体調不良から1週間くらいお休みすることになったけれど、向上コーチや高田コーチが見ているので、いつも通りの練習となるという話が古岡コーチから伝えられた。体調不良の三橋コーチには悪い気がするけれど、三橋コーチが休みなのは僕にとってちょっとうれしい気持ちになる。けれどクラブの時間以外に響子コーチが看病とかで、三橋コーチと会ったりすると思うと苦しくなる。真理雄に言われた「今だけ、今だけ。最後は僕が響子コーチを幸せにする」心でつぶやき、自分ができること、大会で良い成績を収めて響子コーチに喜んでもらうことに全力を注ごうと思った。
たった2日ぶりなのに、後半響子コーチからバタフライを教えてもらう時間は本当に幸せだった。肩の使い方やドルフィンキックの修正をするときに、響子コーチが僕の体に触れるたび、体と心がキレイになっていく感じがする。
指導されるたびに響子コーチの目を見て指導を聞く。何度目かの指導の時に響子コーチはちょっと笑い、真剣に聞いてくれるのはうれしいけれど、悠太君の目は私の心の奥まで覗いている気がしてちょっと怖いよ。そう言われた。自分の行動をどうコントロールするか?と百瀬コーチに言われたけれど、響子コーチ相手にはとても難しいと感じる。
プールが終わってジムでのトレーニングやストレッチにも響子コーチが付いてくれて、最後のハムとカーフのストレッチの時には、脚を広げ延ばして座り、上半身を前に倒して床に胸を付けるような姿勢の僕の背中に、覆いかぶさるように響子コーチが体重をかけてくる。響子コーチの胸が僕の背中に当たっている。脳みそが溶け始めている。響子コーチの声が僕の耳元でカウントしている。響子コーチの息使いが首元に感じる。響子コーチの体温を僕の背中が感じている。この瞬間、自分がいる世界は響子コーチがすべてになっている。この時間が永遠に続いてほしいけれど30秒程度で終わってしまい、僕の背中を響子コーチにたたかれて終了、ご苦労様、また明日ね。そう言われた。
脳みそのすべてが響子コーチになっていて、響子コーチ以外の何も見たくないし、ほかの人の声も聞きたくない。そんな気持ちで帰る支度をしていた時におっさんの古岡コーチに話しかけられた。がっかりだ。
「悠太、3年の大会に向けて最近の結果を見ると、俺は自由形一本に絞るべきだと思う。自由形が全国決勝とか狙えちゃいそうなくらいに上がっている以上、ここは自由形1本にするべきだと、百瀬コーチや向上コーチの意見もあるんだ。俺もそう思うけれど、お前はどう思うか。そろそろ他の大会も含めて戦略を立てたいと思うんだ」古岡コーチは僕のタイム表を手に持って話している。
「僕は長距離メドレーがやりたいです。これが僕の希望です。響子コーチは僕のバタフライではダメだって言ってますか?」それを聞いた古岡コーチが言った。
「響子コーチはギリギリまで様子を見たいって言ってるよ」
「じゃあもう少し待ってください。響子コーチが僕のバタフライではダメだと言ったら諦めます。でも僕はもう少し頑張りたいです」
「わかった。じゃあ2週間様子を見たうえで、もう一度話し合って決めよう」
その後の2週間、三橋コーチは休んでいた。前だったらクラブ以外の時間に響子コーチが三橋コーチの家に行って、病気の三橋コーチの看病をしているのではないか?とかモヤモヤから逃げられなくなっていたけれど、最近はあんまり感じなくなった。響子コーチが僕の身体に触れたり、僕の名前を呼んだり、ストレッチで響子コーチの体温を感じたりする幸せは、その他の僕が感じる嫌なことを全部帳消しにした。
響子コーチからストレッチ中に、このあと少し話せるか聞かれたので、首を何度も縦に振った。響子コーチはそれを見て笑いながら、じゃあコーチ室で話しをしようと言ったので、「この幸せなストレッチ部屋ではダメですか?」と聞くと、笑いながらわかったと答えてくれた。
「2週間前に古岡コーチから、悠太君は長距離メドレーの希望を変えたくないって聞いたんだけど、この気持ちは変わらない?」
「それを目標にしたい気持ちは変わりません。でも響子コーチが違うっていうなら変わります」
「なにそれ?前提としてメドレーにこだわる理由を教えてくれる?」
「え?今更ですか?僕はバタフライだと選手コースにも残れないけど、メドレーだったら選手コースに残れて響子コーチに教えてもらうことができる」
「そうかそうか。えぇとね、まず私が教えるチャンスが増えるのは、確かにメドレーかもしれないね。でもね、覚えていないかもしれないけれど、初めて悠太君の泳ぎを見た時に感じたクロールの魅力は今でも感じていて。もし私が魅力を感じた悠太君のクロールで結果を出してくれると、私はすごく嬉しい気持ちになる。さてここで問題です。私が悠太君に教える時間が確保できるメドレーという道と、私が魅力を感じて嬉しくなっちゃうクロールに集中するという道と、2つの道があります。あなたはどちらを選びますか?」響子コーチはマイクを僕に向けるような仕草をした。
「そんなの選べません。いやちょっと待って、ちゃんと考えます。こうやって響子コーチと話していると、僕は本当に幸せな気持ちになります。だから響子コーチに教えてもらいたい気持ちが強いです。だけど響子コーチを喜ばせたいというのも、僕にとっては大切なことです。どうしたらいいかわかりません。メドレーが速くなって結果が残せれば最高かもだけど」
「そうだね。でもそれはちょっと難しいかもだね。全国レベルで見た時にどうかと言われれば、悠太君のバタフライは通用しないと思う。はっきりでごめんね。でも自由形であれば私は十分通用するんじゃないかって思っている。悠太君の背泳ぎも好きなんだけど、今の年齢や状況を考慮した時に、私はやっぱり自由形一本に絞った方が結果を出せる可能性は高まると思うの。今は自分の欲しいもの全部を狙うタイミングではないってのが私の意見だね」
「でもそうすると、ずっと三橋コーチになっちゃう。それは嫌かも」
「三橋コーチは嫌い?」
「嫌いじゃないけど嫌い。響子コーチを呼び捨てで呼んだり、強く言ったりするし。だから嫌い」
「そうかそうか。えぇとね、難しいな。悠太君にとって私は大人かもしれないんだけど、私はまだ大学生で大人ではないところがたくさんある。だから悠太君に対して伝える事柄について、何が正しいかの判断も間違えているかもしれない。これから悠太君に伝えようと考えている事がそうだから、もし悠太君を嫌な気持ちにさせたらごめんねって先に謝る。三橋コーチはこのクラブには戻ってこないと思う。それと私は三橋コーチとお付き合いをしていたんだけど、こないだちょっとした事件があってお付き合いはやめたの。大学でも学部が違うから会わないだろうしね。だから悠太君が自由形に切り替えたとしても、担当は三橋コーチにはならない。高田コーチか向上コーチか、場合によっては百瀬コーチかもしれない。三橋コーチではないことは確か。だって彼はこのクラブには帰ってこないから」
途中から響子コーチの言葉はあまり聞こえていなかった。「今だけ」が終わった。これだけが僕の心を占めていた。
「ちょっとなんで泣いてる?嫌な気持にさせた?ごめんね。駄目だね私は」そういうと響子コーチはジャージのポケットから、小さめのタオルを取り出して僕にくれた。それで涙を拭くと響子コーチの匂いに包まれた。本当に幸せな気持ちだ。酸素が濃い場所にいるような感じ。
「でも響子コーチに教えてもらう事がなくなっちゃう?」
「そうだなぁ……例えばさあ、悠太君がクロール1本に絞るけれど、短距離から長距離まで全距離コンプリート、泳ぎ方コンプリートのメドレーではなく、種目はスペシャリストで距離コンプリートを目指すのであれば、持久力アップのためのジムトレはこれからも私に任せてほしいって古岡コーチに言う事は可能だよね。結果の約束はできないけれど」今まで考えてこなかった、距離のコンプリート。
「響子コーチに教えてもらうことと、響子コーチを喜ばせること。両方が叶えられるかも」響子コーチを見ながら言った。
「ははは。そうだね。私も悠太君に関わる事ができるし、悠太君の結果を見てうれしくなれるし」
「それにします。でもできるだけ古岡コーチに強く言ってください。僕は響子コーチでなければ長距離はダメダメだって」
「わかったよ。言ってみるね」響子コーチは何度か小さくうなずいた。
「響子コーチにもう1つお願いがあります。頑張るけれど結果が出せるかはわからないけど、頑張ったご褒美が欲しいです。響子コーチからのご褒美が欲しいです」
「ご褒美かぁ。例えば何か買ってほしいものとか?」
「そういうのではなくて。キスしてほしいです。したことないけど。僕の初めてのキスは響子コーチがしてください」
「え~!?大胆だなぁ。それはまずいかな。っていうかさぁ、頑張っただけでキスはできないよ。じゃあこうしよう。三年の全国大会で優勝したら悠太君のファーストキスをその表彰台の上で私が奪うってのはどうかしら?」いたずらっぽい笑顔で響子コーチは言った。
「絶対ですよ、絶対約束してくれますか?」
「私に二言は無いよ。約束する」こうやって僕はクロール1本に絞ることになった。何度も何度も、表彰台の上で響子コーチがキスしてくれるシーンを思い浮かべた。
大切なお時間を割いていただきありがとうございました。わかりにくいところやご意見ご感想などいただければ幸いです。