第8話 第2節 誰かの荷物を背負うには、まず自分の荷物を自分で背負うところから
練習中の響子コーチはいつも眉間にシワをよせて、怒ってばかりいる。でも本当に時々上手くできた時の笑顔で、全部吹き飛ぶ。本当のことを言うと、怒った顔も好きなんだけど。
ジムトレのランニングマシンや軽い筋トレが終わった後で、響子コーチの時間がある時には、ストレッチを一緒にしてくれる。ストレッチは響子コーチの身体が触れることが多いので、初めは心臓が口から出てくるんじゃないか?ってくらいドキドキしたけれど、最近はかなり慣れてきた。身体が溶けそうになって、ストレッチなんていらないくらいグニャグニャになる。脳みそも溶けて耳から流れ出てないか心配だ。響子コーチの匂いが好きだ。響子コーチの匂いに包まれていると、呼吸が楽になるし、すごく温かい気持ちになる。
ある日泳ぎが終わり、ジャージに着替えてジムに入ると高田コーチがそばに来た。
「今日は私がトレーナーね」ウインク代わりに両目をつぶった。ジムに響子コーチの姿は見えなかった。気になったけど、今はトレーニングに集中しよう。そう思ってランニングマシンで走りながら呼吸数を減らすトレーニングをしたり、軽量のウエイトを速くたくさん動かすトレーニングをやった。スケジュールを全てこなした後、1人でストレッチをしていた。ストレッチ後半に高田コーチが来てくれて、ストレッチを手伝ってくれた。
「響子コーチはどうしたんですか?」
「ああ、今日三橋コーチいなかったでしょ?」
「え?」そういえばいなかったことに気がついた。そうか。だから前半自由形の時から、今日はずっと高田コーチと一緒にいる印象なんだ。正直毎日、響子コーチと過ごせる後半のバタフライのためだけに泳いでるから、前半のことはあまり気にしていない。でも三橋コーチがいなかったことと、なんの関係があるんだ?そんなことを考えていた。
「あはは。微妙な顔するねぇ。三橋コーチ具合悪いんだって。だから休み。クラブから三橋コーチに電話をしても出ないのよ。明日の事もあるから古岡コーチが林葉コーチに見に行かせたのよ。もちろん業務時間内に業務としてだから、変な勘ぐりは必要ないわよ?」笑いながら言った。
なんだよ、変な勘繰りって。業務時間内とか。業務としてとか。響子コーチが三橋コーチの家に行ってるのは確かだし。
「三橋コーチってどこに住んでるんですか?一人暮らしですか?」無意識にストレッチをやめて立ち上がっていた。
「はいはい、立ち上がらない。まだストレッチ中だよ。オリンピック目指すって言ったんでしょ?だから目指せオリンピアンなスケジュールを古岡コーチが書いたんでしょ?ちゃんとやりなさい。自分で決めて自分で言いだした事なんだから」普段明るい高田コーチが怖い顔して僕の目をじっと見ている。
そうだ。途中でひざを折らないって僕自身で決めたんだ。出来ることを出来る範囲で、しっかりやるんだ。そう決めたんだ。
「ごめんなさい」そう言ってストレッチにもどった。
ストレッチをしながら高田コーチが言った。
「コーチの住んでるところは教えられないけど、三橋コーチは確か九州の人だから一人暮らしのはずだよ」心がモヤモヤしたけれど、真理雄の呪文を心で唱えていた。今だけ。今だけ。と。
次の日クラブに行くと、カウンターには百瀬コーチがいた。百瀬コーチは「おはよ」というと、僕が出した会員証を機械に通して返してきた。
「悠太、今日のサブはバタフライじゃなくて背泳ぎ。古岡コーチから伝言な」顔を下に向けたまま、メガネの上からこちらを見て言った。
「え?なんで?」響子コーチとの後半が無くなってしまうと思い慌てて聞いた。
「三橋コーチと林葉コーチが休みだからちょっとドタバタ。まったくな」視線を下に戻すと、パソコンの画面を見ながら言った。
「え?え?なんで響子コーチも休みなんですか?」言葉に詰まりながら聞いた。
「人間だもん。色々あるさ」目線を変えずに百瀬コーチは答えた。僕はモヤモヤしたままロッカールームに行った。
「おい悠太!」ロッカールームで着替えていた篤が声をかけてきた。
篤は僕に肩を組んで、小声で話しかけてきた。「おまえウワサ聞いたか?」
「何のウワサ?」
「選手コースの前の時間のレッスンクラスに俺の同級生がいるんだけどさあ、コーチ室で古岡コーチが三橋コーチと響子コーチを怒鳴っていたらしいんだ。で、響子コーチが泣きながら出ていって、そのまま帰ったらしい。その後で三橋コーチも帰ったんだってさ。なにがあったのかお前知らない?」
「知ってるわけ無いじゃん。百瀬コーチから今日のサブをバタフライから背泳ぎに変更って言われて、理由は二人が休みだからだって聞かされたばかりだもん」
いったい何があったんだろう?すごく胸のあたりがガサガサな感じがする。どうしても気になって、着替えずに受付カウンターに戻った。
「百瀬コーチ。篤から響子コーチが泣いて帰ったって聞いたんです。人間だから色々あるって言ってたけど何があるんですか?響子コーチに何があったんですか?」
「お前なぁ、自分がコントロールできないことをコントロールしようとするんじゃありませんよ。仮にだよ?俺が君に何があったかしゃべったとしてもさ、君にはなんも出来ないでしょう?君は自分がコントロールできることを、きちんとコントロールしなさいよ。今、君がコントロールできることは何ですか?俺のコースで背泳ぎをすることでしょ?」眼鏡の上から覗き込むように強い勢いで言った。
「百瀬コーチ。響子コーチは辞めませんか?」
「響子コーチの事を俺がわかるわけ無いでしょ?知らんよ、そんなもん。が俺の答えです」
「でもそれじゃあ、今日は泳ぎたくない」
「お前が泳ぎたくないなら、泳がなければいいじゃん。それだけだよ。帰りたければ帰ればいい。お前にとっての今日たった一回の練習がどんな意味を持つのかなんて俺は知らない。それはお前が決める事だ。なあ悠太よう、お前はどう生きるんだよ?」
お前はどう生きる?お前はどう生きるってなんだ?
「響子コーチに喜んでもらえるように生きたい」
「響子コーチが何を喜ぶかなんて、どうしてお前に分かるんだよ。わかんないことをどうやってやるんだよ?お前がコントロールできるのはさ、お前が『どんな言葉を発するか』とお前が『どんなふうに手足を動かすのか』だけなんだよ。耳に入ってくるものも、目に入ってくるものも、お前はコントロールできないんだよ。わかりますか?人間は自分が何を考えるのかすらコントロールできないの。ちがいますか?考えたくもない事を考えちゃうだろ?いいですか?他人から見た俺を作り上げているものは、俺が何を考えているかなんてことじゃなくて、俺が何を発言して、どう手足を動かしているか。それだけなんだよ。だからお前はどんな発言をして、どんな行動をして生きるんですか?帰るのも結構ですよ。でもお前はどう生きるのかをちゃんと考えろ。ガキ共が!」
普段言葉が少ない百瀬コーチが一気にまくし立てたのに驚いたし、言われたことのほとんどが理解できない。涙があふれてきた。
「あ〜もう、いいか悠太、俺の左脚を見てみろ。生きていれば自分に何の非が無くても、雨が降るように特大の最悪が降り注ぐことがあるんだよ。その重さで倒れそうになる時は必ず来る。誰かが倒れそうになっているのを支えるには体力が必要だ。自分の分だけでも十分重いのに、誰かの荷物まで背負ってやろうってんだから、人間としての体力が無ければ共倒れになって終わりなんだよ。どんなに重くて苦しくても、お前は倒れずに笑っていられるだけの人間としての体力を付けろ。どうしたら自分が、誰かの荷物まで背負っても、笑っていられるような体力を付けられるか考えろ。肉体の筋力や耐久力も重要だぞ。肉体が強ければ心の基礎体力が上がるんだよ。誰かを喜ばせたいとか、誰かを守りたいとかってのはそういうことなんだよ。まずは自分の分を自分でちゃんと背負え!響子コーチに背負わせてんじゃねえよ。俺が悠太に出してあげられるヒントはここまでだ。あとは自分で考えなさい」そういうと百瀬コーチは向こうに行けと手を払った。
僕はよくはわからなかったけれど、大事なことを言われた気がした。だから肉体の筋力や耐久力を上げるためにその日も泳いだ。そのあとのジムトレも頑張った。
大切なお時間を割いていただきありがとうございました。わかりにくいところやご意見ご感想などいただければ幸いです。




