第6話 第5節 一日千秋(いちじつせんしゅう)これが傍惚れ(おかぼれ)片思い
響子コーチはサウナに入りながら言った。「大丈夫?」
誰かに何かを聞かれるのは嫌な気持ち、誰とも会いたくない気持ちを、一気に何かが追い越して胸がホカホカし始めた。
「受付で止めればよかったね。ちょっと様子変だったもんね。せめて熱計るとか。ほんとゴメンね」入り口から僕が座る奥の方に歩きながら話している響子コーチ。体中に酸素が充満してくる感じがする。
「僕こそごめんなさい。迷惑かけちゃって。ビート板の棚、壊れませんでしたか?」
「ぜんぜんぜんぜん。問題ないよ。顔色良くなったね、良かった」響子コーチは僕の横に座り、チラっとこちらを見る以外は入り口の方を見ている。僕は横に座る響子コーチの横顔をずっと見ていた。
入り口の方を見たままで、軽くうなずきながら響子コーチが話した。「なんか私、こないだ悠太君の気持ちも考えないで、自由形の方が良いとか、毎日泳げとか言っちゃってたからさ。なんか嫌な気持ちにさせていないかと思って。無理強いするつもりはないからね」
「いや、全然嫌な気持ちになっていないです。響子コーチの言葉が嫌だとかは――」僕が話し出すと、また突然ドアが開いた。
「響子!」三橋コーチが、響子コーチを呼び捨てにしながら入ってきた。
三橋コーチが強い口調で続けた。「悠太、いたのか。ごめんごめん。響子コーチ、抜けが長いだろお前。何やってんだよ。早く戻れよ」
響子コーチは僕が知らない声で三橋コーチに言い返した。
「だからさあ、スクールで呼び捨てやめてって言ってるでしょ。ちゃんと場をわきまえてよ」
「悠太しかいないだろうが」
「誰かがいても誰もいなくても、プライベートと仕事はきちんと切り分けてよ。私だってあんたの事、三橋コーチって呼んでるでしょ?クラブでは社会のルール守ろうよ」
「グダグダうるせえな。とにかく早く戻れよ。それと悠太も、早く帰って体を休めろよ」そういうと三橋コーチはプールに戻っていった。僕はまた体全部の感覚が遠くなって、よく聞こえないし、よく見えないし、頭の中がグチャグチャになっている。
響子コーチが驚いたような口調で言った。
「ちょ、どうした?怖かった?三橋コーチ、声が大きかったもんね。ごめんね」僕はまた涙と鼻水まみれになっていた。
響子コーチは僕の顔を見て話し始めた。「本当にごめんね。あんまり他の生徒さんには話してほしくないんだけれど……三橋コーチとは大学が一緒でさ。じつはその、付き合ってるんだよね。だからあんな呼び方で読んだりするだけで、別にハラスメント……いじめとか嫌がらせって訳じゃないからね。そこは心配しないでね」
僕はなんだか胸のあたりに、大きな穴が開いてスカスカになった感じがした。
「響子コーチ、大丈夫なんで、早くプールに戻ってください。僕ももう帰るんで。すみませんでした。いろいろと」
「いやいやいや、全然大丈夫じゃないでしょ。悠太君顔色が……」
「ホントもういいです。もういいんで」僕はサウナ室を出てロッカー室に向かった。
家に戻って初めに思ったことは、もうスイミングクラブはやめようということ。なんだか疲れた。野球の方が楽しい。だからもうスイミングはやめよう。お父さんが帰ってきたら、言おう。そう思っているうちに寝てしまった。
次の日学校から戻ると真理雄からSNSが届いた。「今日これから悠太君の家に行っていい?」真理雄は何度か遊びに来たことはあるけれど、こんなに突然は初めてだ。「いいよ」と返すと、30分後くらいに真理雄が来た。
「真理雄、突然どうしたの?」
「いや昨日の悠太君の事がさ、やっぱり気になって」
「あ、昨日言い訳してくれてありがとうね。なんかよく覚えていないけど」
驚いた顔で真理雄が言った。「マジで言ってる?」
「え?なにが」真理雄の驚いた顔を不思議に思いながら聞いた。
「悠太君、昨日突然棚を蹴って倒したんだよ。それで棚が倒れた。つまずいたとかじゃなくてさ、悠太君が蹴り倒したの」真理雄に言われて驚いた。僕が?蹴り倒した?でも覚えていない。
真理雄は続けた。「悠太君を見ていてさ、ちょっと様子がおかしくて。僕は悠太君の友達のつもりだからさ、ちゃんと悠太君の話しを聞いた方が良いと思って、今日は泳ぐのやめてここに来たんだ」
「あ、そうか。真理雄は今日もクラブだよね。そんな心配してくれなくても良かったのに」
「泣きながら突然棚をけり倒す悠太君を見て心配するなって方が無理でしょ?!ズバリ聞くけどさ、悠太君。響子コーチの事どう思ってる?」真理雄が響子コーチといった瞬間から、ドキドキが始まった。またおかしい自分になっていくのがわかる。
荒い口調で真理雄に返した。「どうってなに?何が言いたいの真理雄は?」
「悠太君は多分さ、響子コーチが好きなんじゃないかな?もう態度が今までの悠太君と全然違うもん」
「好きってなに?そりゃコーチだもん。好きに決まってるじゃん。種目は違うけど」
「そういうこと言ってるんじゃなくってさ、悠太君は多分……響子コーチに恋をしたんじゃない?僕の目にはそう映っている。僕はまだ誰かに恋したことは無いし、誰かと付き合ったこともないけどさ。でも大人だって好きな相手が浮気したとか、好きな人がこっちを向いてくれないなんてことで、相手を刺し殺したりするじゃん。大人がだよ?多分それくらい恋ってのは、気持ちが『わけわかんなく』なるんじゃないかと予想するんだ。自分の恋した人が他の男の人と仲良さそうにしていたら、嫉妬とかそういう気持ちでおかしくなるんじゃないかな。昨日悠太君が帰ってから、コーチ室で百瀬コーチと三橋コーチと響子コーチが話しているのがちょっと聞こえちゃったんだよ。響子コーチが三橋コーチに『ここでは関係を持ち出すな』って言っていて、『俺は持ち出してない』って三橋コーチが言っていて、百瀬コーチが『三橋コーチはプライベートを持ち込んでいるし、選手コースは年齢的に微妙な時期だから、あんまり男女関係を持ち込むのはよろしくないよ』そんな風に言っていたんだ。だから三橋コーチと響子コーチが恋人同士だってことはなんとなくわかったんだけど。悠太君はさ、響子コーチに恋しているから、そういう2人の関係みたいなの、なんかわかっちゃったんじゃないかな。だけどさ、僕らまだ中二じゃん。大学生の人から見たら全然子供じゃん。だからもうしょうがないって今は考えるしかないんじゃないかな。無理なものは無理なんだから、気持ち切り替えていかないとダメなんじゃん?」
僕は黙って床を見ていた。真理雄は続けた。
「悠太君、昨日のこと覚えてないってのも、みんなの前であんな風に泣いちゃうのも、どうしようもなく恋してるからなんじゃないかな?僕にはわかんないけれど、中二だってさ、運命の人と出逢ってしまったら、もうどうしようもなく好きを止められないのかもしれない。それでも今は、今だけはだよ?僕らが子供過ぎてどうにもならないんだったらさ、悠太君が最終的にどうしたいのか、目指すゴールを決めようよ」
僕は視線を床から真理雄に移して言った。「目指すゴールを決めるって……いったい何?」
「誰にも言っていないことだけど、悠太君には言うね。僕のゴールは交通事故にあった人を全員救うことなんだ。ガキっぽいって言われちゃうかもしれないけれど、悠太君も知っている通り、僕のお父さんは交通事故で死んでるじゃん。交通事故を僕が無くすことはできないんだけど、僕のところに運び込まれた被害者は全員助かるってことは可能だと思っているんだ。そのために脳も内臓も骨も肉も、コンプリートした医者が僕の目指すゴールだ」
僕は真理雄の顔を少しの間じっと見て、軽く息を吐いてから言った。「なんか自分がちっちゃくて、どうしようもないバカに感じてきた。僕のゴールは真理雄みたいに人を助けたりしないし、自己満足っぽい。それでもいいのかな?」
「悠太君がゴールを決めたならば、それを僕に宣言する必要もないよ。決めたんなら絶対に実現させようよ。僕は絶対に命をつなげる全科目コンプリートドクターになるから」
「真理雄だけ秘密をバラしたのはフェアじゃないよ。僕はズルい感じになっちゃう。まだよくわかんないけど、響子コーチが笑っているのを守りたい。乱暴なことをされたり、響子コーチが泣かされたりするのは絶対に嫌だ。だから僕は響子コーチの幸せをゴールにする」
この後、真理雄と自分の目指すゴールについていろいろと話した。真理雄の夢の話は強く大きく具体的でまぶしかった。それに比べて僕の夢は響子コーチを守るためにケンカに強くなるとか、本当にガキっぽくて、ちっぽけで嫌になる。それでも僕が響子コーチの幸せを守れるならば、響子コーチを悲しくさせるものから守れるのであれば、なんにでもなってやるって、心に決めた。僕の将来の夢は、響子コーチの守護者になる事。これからは絶対に何があっても響子コーチを守れるようになりたい。僕の命に代えても。
大切なお時間を割いていただきありがとうございました。わかりにくいところやご意見ご感想などいただければ幸いです。




