第5話 第4節 嫉み妬む(そねみねたむ)
「悠太君調子悪いみたいで、つまずいて転びそうになって、棚につかまろうとして倒してしまったみたいです」
振り向くと真理雄が説明をしてる。自分でも何が何だかわからない。
「だって真理雄、悠太のこの顔……」古岡コーチは真理雄に目をやった。古岡コーチはひざを折って僕と同じ顔の高さに顔を持ってきた。
「悠太、今日はさ、休もう。もしよければだけど、コーチ室で俺と話さないか?調子が落ち着くまでさ」
自分では気が付かなかったけれど、僕の顔は涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになっていた。
見える範囲がとても狭くなっている感じがしたし、音も良く聞こえていなかった。気が付いたらコーチ室の椅子に座っていた。目の前には古岡コーチが座っている。
「こんなもんしかないけど飲むか?」古岡コーチは缶コーヒーを出してきた。僕は首を振って断った。涙と鼻水は止まった。何が起きたんだろう?
「真理雄が見ていたから、まあ、つまずいただけなんだと思うんだけど。なんかちょっと、悠太の顔を見たら心配になってさ」
古岡コーチは自分の缶コーヒーを開けて、一口飲んで話しをつづけた。
「学校で何かあったり、ここで何かあったり、家族と何かあったり、例えば誰かに、そう……暴力を受けていたり。何か……この……心配になるようなことが有ったり。自分がそんな辛い事に飲み込まれちゃう時ってさ、人間はあるんだよね。上手く言えないんだけど、悠太が何かこう……嫌な感じのことに巻き込まれているのであればさ、俺にできる事はないかな?と思ってさ、まあ、呼んでみたんだよ」古岡コーチは缶コーヒーをもう一口飲んだ。
「……なんだかわからないけど、うれしい気持ちになったり、いやな気持になったり、今まで感じたことない気持ちになってしまいました。調子が悪かったのに、泳ぎたくて無理したのがダメだったのかもしれないです。迷惑かけてごめんなさい」僕は小さい声で言い訳をした。
「いやいや、謝ることは何もないよ。こっちこそ悠太の調子の悪さに気が付いてあげられずにごめんな。主任コーチ失格だな。このまま帰ってもいいし、もう少しここで休んでから帰ってもいいし。どうする?」
「少しだけ休んだらサウナに入って、体を温めてから帰ります。本当にごめんなさい」
「わかったよ。でも悠太、悪いことしていないんだからさ、謝らなくていいよ。お互いさまって言葉があってさ、調子悪い時もうまくいかない時も、みんな平等に来るんだよね。自分が調子よい時にはさ、調子が悪い人を支えてあげればいいし、自分が調子悪い時にはさ、調子が良い人に助けてもらえばいいんだよ。お互い様だからさ。俺に言いにくければ、ほかのコーチでもいいしさ。お互い様。それだけさ」そう言うと古岡コーチは、自分の缶コーヒーを一気に飲み干して、プールに出ていった。
ガラス越しに外を見ていると、古岡コーチがプールサイドに出ていた百瀬コーチと言葉を交わし、百瀬コーチがちらっとこちらを見て古岡コーチに何かを言って、古岡コーチはプールに入った。
もう帰ろうかと思った時に、上半身にジャージを羽織った百瀬コーチが、コーチ室に入ってきた。百瀬コーチが歩く音は特殊だ。
百瀬コーチには膝から下の左脚が無い。本来百瀬コーチの左脚があるところには、金属の棒とその先に「足のようなもの」が付いている。左脚が義足の百瀬コーチがプールサイドを歩くと、金属っぽい独特の音がする。
「大丈夫?」百瀬コーチは独特の音で歩きながら声をかけてきた。
「はい、すみません」
「ふ〜ん」百瀬コーチは気のないような返事をして、デスクに座って事務仕事を始めた。
静かなコーチ室に百瀬コーチがボールペンを走らせる音と、ゆっくりと静かな百瀬コーチの呼吸する音だけがしていた。何かとても心地よい時間。百瀬コーチの呼吸と比べると、僕の呼吸はずいぶん速くて浅い事に気が付いた。百瀬コーチと同じくらいのペースで呼吸をしてみた。もっと落ち着いてきた。百瀬コーチはちらっとこちらを見て、小さな笑顔を浮かべたが何も言わずに仕事をつづけた。10分くらいしたら本当に楽になったので、帰ろうと思い席を立った。
「百瀬コーチ。だいぶ落ち着いたので帰ります。すみませんでした」頭を下げると百瀬コーチはボールペンを持ったままこちらを見て言った。
「はい、お疲れさん、また今度な」
僕はコーチ室を出て、サウナルームに向かった。何人かが僕に気が付いてこっちを見たけど、みんなプールの中だったので、声をかけられる事はなかった。何か聞かれるのは嫌だったのでホッとした。
サウナ室に入ると、ガラス越しに外から見えない一番奥に座った。普段はあまり好きじゃないサウナ室だけど、今日はこの静けさが心地よい。水をかく音や、飛び込む音。コーチたちの笛の音が小さく聞こえている。この場所は何か、守られている場所みたいに感じる。
目を閉じてここ数日の変な自分を思い返してみても、よく思い出せない。自分が遠く感じるというか霧がかかっているというか、ピンボケ写真や画素数が小さいモザイク画像を見ているような感じがする。ただ胸のあたりが苦しい。
そんなぼんやりとした考え事をしていると、突然ドアが開き小さかったいろいろな音が大きくなり、夢から覚めるような感じがして目を開けると、響子コーチが入り口に立っていた。
大切なお時間を割いていただきありがとうございました。わかりにくいところやご意見ご感想などいただければ幸いです。