第42話 第2節 おかえりなさい、こう子さん
僕は検査技師の資格も取って、大学も無事卒業して、半年前から響子コーチがリハビリ職として働いていた病院で働き始めている。アルバイトは禁止されていたのでマッサージのアルバイトはやめていた。技師も夜勤があるけれど、僕はまだ半人前なので昼間だけの勤務だった。
真理雄は大学に籍を置いたまま病院に出始めているので、前よりも忙しい日々を送っている。
篤も幼児舎から通った学校の大学を留年する事なく卒業して、医薬品の大手メーカーに就職した。篤は薬剤師とかではないけれど、人当たりが良いので出世するんだろうと思っている。
健治もすっかり落ち着いたけど、留年を一度しているのでまだ大学生だ。
働き始めると、大人気分を味わっていた大学時代と比べられないくらい厳しい大人の時間を過ごす事になり、みんなと連絡を取り合うことも少なくなった。時間的な余裕が全くない。プライベートに使う時間が全くない。そんな毎日だ。
響子コーチが留学に行ってから、1年半が過ぎた。初めは2年の予定だったけれど、色々な理由から来月日本に戻る事にしたと連絡が来た。
響子コーチの家族からも連絡が来た。行ってらっしゃいの時と違うので、響子コーチの家族と一緒に迎えに行く事になった。
響子コーチが帰ってくるのは平日だったので、親族の冠婚葬祭という事でお休みを事前に申し出ていた。これは嘘なのかな?でももうじき家族になる予定の人の帰国という、言うなればお祝いだ。ほぼ親族の冠婚葬祭であることは間違いないはずだ。
響子コーチの飛行機は15時到着だったので、お昼前に響子コーチの実家に行って、途中でみんなで中華料理を食べた。響子コーチは久しぶりの日本だから、寿司が食べたいだろうと予想をして、昼は中華料理になった。
僕は響子コーチに会える事が嬉しすぎて、もう何を食べても食べなくても同じだった。響子コーチの帰国の知らせを聞いてからは、ずっとフワフワしていた。
中華料理を食べている時に、お兄さんから言われた。
「悠太はいつまで響子の事コーチって呼ぶの?」僕はこの家族の中では「悠太」と呼ばれる関係性を作り上げていた。
「え?いや、ではなんとお呼びすれば……」僕はお父さんとお母さんの顔を交互に見た。
お母さんが言った。「響子で良いでしょ」
「いや6歳年上の大好きな人を呼び捨てにはできませんよ」僕は慌てて言った。
お父さんが言った。「じゃあ林葉で良いでしょ」薄ら笑いで言った。
「いや苗字になって距離がめちゃくちゃ増えているし」僕は慌てて言った。
お兄さんが言った。「じゃあ響子さんで良いでしょ」
「なんか少し……普通ですね」僕は落ち着いて言った。
お姉さんが言った。「こうこで良いじゃない」家族全員がなるほどという顔をした。
響子コーチは小さいころに、自分を「きょうこ」と発音できずに「こうこ」と発音していたらしい。だから家族内では「こうこ」と呼ばれていた時期があった。
お姉さんは家族だけが呼んでいた特別な呼び方を僕に与えてくれた。僕は嬉しくなった。
でも僕が呼び捨てはちょっと……と言うと、そもそも「こうこ」は名前じゃなくて、それ自体があだ名なんだから、呼び捨てには該当しないとか、悠太は社長を社長さんと呼ぶのか?だったら先生も先生さんと呼んでいたのか?とか、だとすればそもそも響子コーチさんと呼ぶべきだろうとか色々な呼び方議論が白熱した。この家族との会話は実に楽しい。
結局僕は響子コーチの事を「こう子」と呼ぶことを目指して「こう子さん」と呼ぶ事に落ち着いた。
空港の掲示板に「30分遅延」と表示されて、僕は飛行機が故障したのではないかと考えてオロオロしていた。それを見ていたお母さんとお姉さんから「男はオロオロするな」と言われた。
「男はとか時代錯誤だ。じゃあ女のあんた達はもっとオロオロしろ」とお兄さんが言ったが、お母さんとお姉さんに睨まれて反論は終わった。この家族と過ごす時間は実に楽しい。
飛行機が着陸して荷物が回ってくるベルトコンベアのそばで待っていると、出口から響子コーチが出てきた。僕らに気が付いて手を振った。響子コーチは僕を指さして笑い始めた。
それを見た響子コーチの家族も僕を見て笑い始めた。もう社会人になったはずの僕は、涙と鼻水で顔がクシャクシャになっていた。
響子コーチは最初に僕をハグしてくれた。そしてポケットからハンカチサイズのタオルを出して僕に渡してくれた。僕は響子コーチの匂いを久しぶりに目いっぱい嗅いだ。響子コーチの匂いが、1年半ぶりに僕の体に吸収されていく。みんなにさらに笑われた。響子コーチは困ったような笑い顔をした。
響子コーチがベルトコンベアから自分の荷物を取ったので、僕は言った。「響子コーチ、僕に持たせてください」お母さんが僕の後頭部を平手でたたいた。
響子コーチは「え?!」という顔をしていた。
お父さんが言った。「お帰り。ご苦労さん。元気か?」
「うん、色々ありがとう。すごく勉強になる経験でした」お姉さんが僕をちらっと見た。僕が言った。
「響子コーチ、夕飯で食べたいものはありますか?」お姉さんが僕の太ももにひざ蹴りを入れた。
響子コーチは「え?!」という顔をした。
お兄さんが僕に言った。「悠太!勇気を見せろ」
響子コーチは「え?!」という顔をした。
僕が言った。「こう子……さん、夕飯は何が食べたいですか?」
響子コーチは「ええ?!!」という顔をした。
こう子さんは焼き肉を希望した。寿司を想定した僕たちは、ちょっとコッテリづくしになるけど笑顔で受け入れた。
こう子さんはちょっとだけ「え?」という顔をした。
家族5人プラス僕1人で焼き肉を食べた。こう子さんは久しぶりだと嬉しそうにガッツリ食べた。途中一時帰国も考えたけれど、留学先に戻るのが嫌になるのを避ける為、一時帰国はしなかったと話していた。
スポーツに対する価値観の違いや、アスリートを目指す子供に対するアプローチの違い、プロアスリートでも、食に関してはかなり雑である事など、色々な話を聞かせてもらった。
「ところでさあ、悠太君が4人目の子供みたいになっている事については、誰からも説明してもらえないのかな?」こう子さんが言った。
お母さんが言った。「この子はもうウチの子だから」
お姉さんがうなずいて言った。「弟欲しかったのよね~やっと叶った」
お兄さんが言った。「悠太、今度キャッチボールしよう」
お父さんが言った。「悠太、ゴルフ覚えろ。俺が教えてあげるから」
「何があったのかつかめないけれど、悠太君はこれでいいの?」こう子さんが言った。
「この家の子になる事と、お兄さんとお姉さんの弟になる事は嬉しい事ですが、こう子さんの弟になるつもりはありません」
僕が勇気をもって宣言すると、家族全員から拍手が起こった。
みんながお肉を焼きながら、ザワザワ色々な話をしていた時に、お姉さんが小さい声で隣に座っているこう子さんに言った言葉が僕の耳に届いた。
「悠太の事、あんた、腹くくりなさい」こう子さんは僕をちらっと見た。僕は気づかないふりをした。
こう子さんはしばらくの間、実家で暮らす事になる。帰国が早まったので、今後の就職についてなど未決事項が多かった。暮らす場所もそのうちの一つだ。
色々な意味で、今この瞬間は確実にチャンスだと思った。僕は「ガタッ」と椅子を後ろに倒す勢いで立ち上がった。みんなは驚いて肉を焼いている手を止めて僕を見た。僕は隣に座っているお父さんに身体を向けて直立不動の姿勢をとった。
僕は店中に響く位の大きな声で言った。「お父さん。娘さんと結婚させてください。若輩者ですが、きっと娘さんを幸せにしてみせます。お願いします」僕は90度より深いお辞儀をした。店中の人が全員僕を見た。
「ごめん、結婚している」お姉さんが言った。
「お前じゃね~よ」お兄さんが言った。
「ごめん、私も結婚してる」お母さんが言った。
「お前は妻だろうが」お父さんが言った。
「何このコント」こう子さんが片手で口を隠すように言った。
お店のお客さんの何人かが拍手をしてくれた。
お父さんが立ち上がって僕の肩に手を置いた。
「悠太君、これからは息子として、なんでも遠慮なく話してくれよ」
こう子さんも立ち上がって言った。
「先に私じゃないの?順番が違うから。順番が」お店は笑いに包まれた。
大切なお時間を割いていただきありがとうございました。わかりにくいところやご意見ご感想などいただければ幸いです。




